02 帝都の薬屋
「ただいま帰りました、師匠。」
「おかえり、エル。ってなんだ、随分と疲れた顔をしているな。」
馬小屋に愛馬を繋ぐと、エルローザは2階建てで小綺麗な家の裏口を開けて帰宅を告げた。薬草の香りがするこの家は、表のドアには「薬屋」のプレートが掛けられている。
この街、王都では有名な薬屋で、平民から貴族まで利用する。貴族、といっても貴族本人が来店するわけではなく、貴族の主治医やその弟子らが利用するだけだが、結果としてこの店の薬は貴族にも処方されている、という訳だ。
貴族が使用するのには理由がある。それが、エルローザの師匠で、この店の店主であるイリス・アニュレイ。彼女がアニュレイ伯爵であるからだ。
伯爵で薬屋、という不思議な位置にいるように見えるが、アニュレイ伯爵は代々薬屋を営んできた貴族であり、その継承者が血縁でないことも多かった。実際、イリスも前伯爵の弟子であり、血縁関係はない。
そんなイリスは、エルローザと親子ほど年が離れているのだが、口元の黒子が妖艶で年齢を感じさせない女性だ。背中には編み込まれた淡い金髪がたおやかに揺れていて、夕日色の瞳が美しい。口調は貴族女性らしからぬものだが、そういう場ではそういう口調が出来るとの事。エルローザはまだその場を見たことがない。
丁度閉店の作業を終えたらしいイリスは、エルローザの声を聞いて、裏口から繋がる薬草室へやってきた。エルローザは取って来た薬草をカバンから出しながら、イリスに顔を向けて、困ったように笑って見せた。
「師匠‥‥金髪に碧い瞳で、"殿下"と呼ばれるお方を偶然助けたのですが、その"殿下"ってどなたかご存知ですか?」
「‥‥‥‥エル、私が言うのもなんだが、おまえは人助けが趣味か何かか?」
「そんな聖人君子じゃありません。偶々、偶然です。師匠の時もそうでしたよ。」
エルローザがイリスに弟子入りした経緯の一番初めは、山中で薬草採取をしていたイリスを助けたことがきっかけだった。その時は熊退治だったが。
「で、金髪に碧眼の殿下、ねぇ。ふむ、皇太子だな。その色合いは陛下か皇太子殿下のものだ。殿下と呼ばれたのなら、皇太子殿下だろう。」
「なんてことだ‥‥。」
「それで?」
「ああ、はい。それで、褒美を頂きました。これです。」
エルローザはもらった袋をイリスに渡した。受け取ったイリスは中を覗いて、ため息を付いた。
「太っ腹なことだ。でもエル、このままでは街中で使えないだろうな。」
「大判の金貨なんて、この国で初めて見ましたよ。王都のどの店で使えるのですかね。」
「エルが行く店では使えないさ。」
イリスは笑って「うちの執事を呼んで換金させてくるよ」と言った。エルローザがもらったお金なのだからエルローザのものだ、という考えのイリスである。
「でも、もっと困ってしまったことがあるんです。私、この格好でしたから、その皇太子殿下やお付の騎士様には少年と思われてしまっていたようで。名を聞かれたので咄嗟に、エル、と言ってしまったのです。これって虚偽罪になります?」
エルローザ、は女性名である。勿論、女性名の男性や男性名の女性が全くいないという訳ではないが、その名を告げれば女性か?と聞かれることは必須だっただろう。ただでさえ一杯一杯だった頭では、これ以上面倒なやり取りはしたくない、としか考えられず、イリスに呼ばれる名である"エル"を伝えたのだ。
「その程度で虚偽罪にはならないさ。」
イリスは軽く笑い飛ばした。その反応に、エルローザはようやく肩の力を抜いた。
「ほら、薬草を出したら着替えておいで。いつまでもサラシを巻いていると、苦しいだろう。家の中でくらい楽にしてきな。」
「はい、師匠。ありがとうございます。」
イリスはエルローザを弟子にするときに養子入りを約束させている。後継者として育ち、イリスが一人前の薬師として認めた暁には、エルローザは戸籍上のイリスの娘となる予定だ。今は未だ、弟子という立場だ。
すぐに養子としなかったのは、エルローザが自ら、伯爵となっても良いと思った時に養子にすればいい、というイリスなりの配慮だった。何も言われなくても、2年も一緒に居るエルローザは、己の師匠の考えを理解するのだった。
イリスのその配慮は、エルローザが貴族とのかかわりを好んでいなかったから。
エルローザはイリスに促されて、2階の自室で男装を解いた。この一軒家は、エルローザの住居でもあった。イリスは伯爵邸に住んでいるが、エルローザはこの家が良いと自ら申し出、ここに住んでいる。職場がすぐ下、というのは存外便利であり、薬学を学ぶ身としてはもってこいの環境でもあったのだ。
エルローザは自室の鏡に映った自分を見てつぶやく。
「エルベルト‥‥。」
男装した時の名前である。静かにため息をひとつ。しかしすぐに頭を振って表情を戻すと、帽子を脱ぎ、括っていたミルクティー色の髪を解いた。ふわりと柔らかく揺れた髪は肩に届く程度だが、それだけで彼女を少年から女性へと還す。サラシを外し、下着を付けると先ほどの服をもう一度着る。エプロンを付けると、イリスの居る薬草室へ戻った。
しばらくふたりで作業をしていると、カラカラと馬車の音が聞こえ、エルローザがイリスを呼んだ。
「師匠、お迎えが来たようです。残りは私がやりますから。」
「それじゃあよろしくね。あ、そうだエル、その袋の中身、明日の朝には銀貨に変えてルダスに持ってこさせるから。」
「明日はお休みですし、ゆっくりで構いませんよ?」
「出来る時にやる。早いに越したことはないさ。」
「ルダスさん、あまりこき使わないでくださいね。」
「それがルダスの仕事だ。それじゃあまた明後日だ、エル。戸締りはしっかりするんだよ!」
「はい、師匠。おやすみなさい。」
ルダスとはアニュレイ伯爵家の執事である。自由奔放なイリスに振り回されているためか、エルローザはその疲れた顔に毎回労りの視線を投げている。
そうしてイリスが帰ると、エルローザはひとり黙々と作業を行い、すっかり陽も落ちた頃にようやく手を止めた。
「これで今日採って来た薬草の処理は充分。夕飯を作ろう。」
山菜ときのこのスープに、チーズの入ったオムレツ。伯爵の弟子にしては、大分質素な夕食だが、エルローザには充分だった。湯浴みをし、髪を乾かす間に食器を片付けながらお湯を沸かす。そのお湯を少し冷まして、コップに入れて自室で飲むのが寝る前のルーティンだった。
身体を中から温めれば、自然と眠気がやって来る。本格的に眠くなるまでは、イリスの師匠であった前伯爵が書いた薬草の書物を読み耽り、文字が霞んでくればロウソクの灯を消して、その1日に別れを告げる。
エルローザはそうして今日も穏やかに夜を迎えたのだった。