【読切】「聖女がいるからお前はいらない」と勇者の兄に捨てられた歌姫様は魔王様のお妃様
「セレン、いい加減、気付いてくれよ」
朝食後、いつものように片付け物をしていると兄のアンセルがうんざりした口調で言ってきた。
何か足りないものでもあったのか、食後のお茶は出したはずだ。野営をしているが、食事はできるだけ良いものを摂れるよう、セレンは気を配ってきた。
珈琲豆もきちんと兄好みに挽いて出したし、甘い物が食べたいとマリアンヌが言ったので、少ない砂糖をやりくりして作ったお菓子も出した。
「何のこと?兄さん」
「おれはお前の面倒をいつまで見なきゃならない?」
「……何を言ってるの?」
「ほら、ダメよ、アンセル。セレンはあなたと違って、ちょっと足りない子なんだから。はっきり言わないと」
セレンは困惑した。突然、兄は何を言い出したのだろう。混乱していると、兄の腕にするりと自分の腕を絡めながらマリアンヌが話に加わった。
神秘的な銀色の髪に美しい金の瞳を持つ、気品に溢れた美少女は二人が生まれたバルト国の第三王女だった。勇者の旅の見届け人として、また自身が強力な神聖魔法の使い手でもある彼女は勇者のパーティに欠かせない戦力だった。
セレンとは歳も近く、「わたくしたち、姉妹のように仲良くしましょう」と言ってきてくれて、いつも笑顔を向けてきてくれた彼女が、今は意地悪そうな顔でこちらを見ている。
「あのね、セレン。わたくし、聖女の力が目覚めたの。だからね、”歌姫”のあなたは必要ないし、あなたを守るためにいつも誰かひとりがあなたのそばにいないといけなくて、迷惑だったのよ」
「……それは」
反論はできなかった。
セレンと兄のアンセルは500年前に魔王を封印した英雄カーライルの子孫だった。
兄は一年前、英雄の遺した伝説の剣の封印を解き、勇者として人類に認められた。そして封印が弱まるこの500年目に、北の大地に赴き魔王を討伐するために編成されたパーティのリーダーとなった。
アンセルとセレンの両親は既に亡くなっており、一年前、村から出る兄はセレンを「一緒に行こう」と誘ってくれた。セレンは”歌姫”という特殊職で、攻撃は一切できないが歌っている最中は仲間に複数の神々の加護を与え、敵を弱体化させるなどの支援をすることができた。
歌う最中は完全に無防備になるため必ずだれかに護衛されている必要があり、確かに、歌姫の上位ジョブであり攻撃魔法も使える”聖女”がいるのなら、自分は……お荷物だ。
「でも、旅の行程を組んだり、宿の手配をしたり……私は他のことだって……」
「そんなの、誰にでもできることじゃない。別にあなたじゃなくてもいいのよ。弱いあなたを今まで一緒にいさせてあげたのはアンセルの妹だからってだけ。でも、魔王の復活が近づいてきていて、これから先はわたくしたちだって油断できない。自分の命を守れるかどうかもわからない中で、お荷物のあなたを守ってあげる余裕なんてないのよ?」
「……」
「それに、今までさせてあげた仕事は、あなたがこのパーティで役に立ってるって自信を付けさせてあげる為。お手伝いみたいなものよ」
お手伝い? セレンは反論したかった。
出来るだけ負担にならないルート選びや、現地住人との交渉。土地を管理している貴族たちに路銀を多少融通してもらえるようにしたり、王族であるマリアンヌが妥協できる宿選びや、日々のちょっとした気遣いは、簡単なことではなかった。
「……ジーク様は?ジーク様も、私のこと、お荷物だって、思っていらっしゃるんですか?」
悔しくて、反論したかったが「戦えず守ってもらっている」という点は事実だ。しかし、兄が自分を守ってくれたことは一度もない。いつも伝説の剣を振り回して先陣を切ってゆく。セレンはいつも自分の護衛を引き受けてくれた騎士に顔を向ける。
いつのまにか、仲間たちは兄のそばについていて、自分を責めるように立っている。その中に、無表情の騎士がいて、セレンの問い掛けに軽く目を細めた。
「あぁ、邪魔だ。ずっとそう思っていた」
「僕もずっと、本当にうっとうしいなぁって思ってたんですよね。このパーティは選ばれた者だけの少数精鋭でしょ?それに勇者の妹だからって理由で、みそっかすがいるんだもん。女の子だってマリアンヌみたいに戦えるのに、なんで護身術も使えないわけ?バカなの?」
「まぁ、アンセルは良いやつだしよ、その妹っつーなら、守ってやってもいいんだけどよ。なんつーか、ちょっとは可愛げがありゃーな。いつもにこにこ笑ってるマリアンヌを見習えよ。いっつもしかめっ面しやがって」
「えぇ、本当に。マリアンヌは王族であるのに少しもそれをひけらかさないというのに、あなたは自分が勇者の妹だからと傲慢に過ぎます。少しは弁えて頂けたなら、我々も多少は考えが異なったでしょうが……」
と、口々に言う仲間たち。
幼いが天才的な魔術の才能を持つとされるヨハンに、無敗の剣闘士であったのをアンセルに負けて仲間になったダグラス、若くして大神官の地位を得る程優秀なサフィール。
彼らは口々にマリアンヌとセレンを比べた。
「まぁ、皆さん。そんな風におっしゃってはセレンがかわいそうよ。ただ、わたくし達はセレンに、この先は一緒に旅は出来ないって言いたいだけなんですもの」
「……それが、皆の答えなのね?私が出ていけば、いいのね?」
セレンは自分が傷ついているということを、この連中に僅かでも悟られたくなかった。
背筋を伸ばし、いつものように静かな声ではっきりと話す。
歌姫であるセレンの声はよく通る。ぴしゃり、と水を打つような冷たさは、セレンの心が自分を守ろうと張った氷の壁の冷気のようだった。
「えぇ、そうよ。わたくしが聖女だから。歌姫はもういらないわ」
にこり、とマリアンヌは微笑む。それで全て終わりだった。
ここでさようなら、村に帰るための路銀も分けては貰えなかった。
歌姫なのだから、酒場で歌って金を稼げばいい、それくらいできるだろうと元仲間たちに言われ、セレンはこんなことならへそくりでもためておけばよかったと後悔した。
兄たちの為に、少しでもストレスのない旅にできるようにと、セレンは自分の為にお金を一切使わなかったし、戦っていないのだからと取り分ももらっていなかった。
「わたくしたちの持ち物はみな、勇者様の旅の為の……国民の血税から得ているのです。途中頂いた貴族の方々からの融資も、勇者様の旅に使わなければ横領だわ」
もっともらしいことを言って、マリアンヌはセレンに、何一つ持ち出さず身一つで出ていけと言っているのだ。
「わかったわ」
ぐっと、言いたいことを堪えて、セレンは頷く。
町の方向に歩き出したセレンを、元仲間たちは見送りもせず、馬と馬車に乗り込んで旅立っていった。1年間旅をした時間はなんだったのか。別れの言葉一つない。
「……セレン」
「なんです」
少し歩いたところで、馬で誰か引き返してきた。黒い甲冑の騎士、ジークだ。セレンが見上げると、ジークは無言で何かを地面に捨てる。
音からして、硬貨が入った袋だ。
施しのつもりだろうか。
あまりにバカにしている。
セレンは革袋を拾うことはせず、くるりとそのまま反転して再び歩き出した。
「セレン」
「何一つ持ち出さず、あなたたちから解放されたいんです。ご自分の罪悪感を少しでも紛らわせたいからと、その身勝手さで、私をこれ以上侮辱しないでください」
騎士道精神を持つ男だ。身一つで女を追い出すのに良心がとがめたのだろう。それなら、あの場で少しは味方をしてくれればよかったじゃないか。と、思うセレンは、自分が傷ついた一番の理由はこの男なのだと理解した。
村娘だったセレンが、初めて見た騎士。
兄のアンセルは気品のある美しい顔をしているが、ジークは兄とは違い、逞しい顔つきの男性だった。無口だが礼儀正しく、歌うことしかできないセレンをいつも守ってくれていた。
それが騎士としての義務からだとしていても、1年間、自分の一番近いところにいた男性を、意識しないわけにはいかなかった。
そのジークが、自分よりマリアンヌを選んだことが、ただただ悔しかったのだ。
自覚して、納得して、セレンはぎゅっと胸を押さえる。
この胸の中にある感情は、恋心だったのかどうか、恋をしたことのないセレンにはわからない。初恋であったのなら、こんな結果はあんまりではないか。
そう思うと、常に胸にあった小さな感情は鋭い棘のようになって自分の心に突き刺さった。このまま残り心から血を流し続けるようであれば、自分があまりにも惨めに過ぎる。
セレンはぎゅっと胸の前で両手を握り、小さく祈りの唄を呟く。
歌姫は自身の感情を力にする。仲間を守りたいという気持ちが盾となり、治したいという気持ちが癒しとなる。
それならこの恋心であったかもしれない感情を全て使ってしまおう。
「さようなら、ジーク様。今まで、ご迷惑をおかけしました」
心の中にあった感情を全て力に変えて、ジークに付与する。一度切り発動するだろうが、どんな効果になるのかセレンにもわからない。このくらいの仕返しは、いいだろう。
「もう二度と、お目にかかることはないでしょう。ジーク様、どうかご武運を」
振り返らず、それだけ言ってセレンは走り出した。
追いかけてくるわけでもない、武骨な騎士が馬を反転させて去っていくのを背中で感じた。
**
「貴様が当代の勇者か。見ればまだ覚醒前、慢心し貴様の成長をゆるりと待つ気はない。ここで死ね」
「ひ、人違いですぅううう!!!!!!!!!!!!!!!!!」
兄たちと別れて数日。私は深い森の中にいた。
前に立ち寄った村へ戻ればいいのだが、勇者様ご一行様!と華々しく見送られた手前、1人ですごすご戻るのは……どう考えても、恥だ。それで、森の中で結界を張り安全地帯を確保してのんびり暮らそうかな、とかそんなことを考えていた矢先……。
その辺に落ちている小枝を集めてたき火でもしようとしていた私の、折角集めた小枝の上に、何か降ってきた。
漆黒の髪に、土色の肌。瞳はルビーをはめ込んだように赤く、頭には大きな二本の角が生えている異形の姿。魔族、それも、かなり高位の存在であることは同じ場にいるだけで息苦しくなるほど重くのしかかるような魔力の強さでわかる。
「我が違えるものか」
魔王討伐を目指して旅をしていたけれど、私は戦闘経験などない。こんな強い存在が戦いにやってきても、即座に降参したくなる。あぁ、きっと兄や他の皆ならこんな風にはならないのだろう、やはり自分はお荷物だった、と感じながら、私は必死に頭を下げる。
「そなた、勇者の血を引くものであろう」
「た、確かに……祖先は偉大なる英雄、勇者その人であったと聞いております!しかし私は女。私の兄が勇者として認められ、人の世の為に立ち上がっております!!」
「当代にあの男の血を引く人間がふたりいる事は知っている。が、我と対なる勇者は貴様だ」
「おそれながら、私は“歌姫”です!」
「それは人間どもの決めた……ジョブ、とか、そういう区別のものであろう。勇者とはそういうものではない」
……え?
そこで私はハタリ、と顔をあげる。
我と対、なる、勇者??
ということは、この……恐ろしいほど強い魔力を持つ魔族は……魔王なのか?
「おそれながら……魔王陛下であらせられますでしょうか?」
「いかにも。勇者にそのように呼ばれるとは思わなんだ。我を殺す存在であろう」
妙に愉快げに、魔王が笑った。皮肉めいた笑みだったけれど、不快に思われているわけではなさそうだった。
「……偉大なる、魔王陛下のおっしゃられることであれば、御間違いなどないかと存じますが……しかし、確かに兄が、勇者。私はただの、勇者の兄の、お荷物でしかない村娘でございます。事実、私に兄のような力はなく、今こうして魔王陛下を前にしても、戦おうという気持ちも湧かず、ただただ、恐ろしくて震えているような、弱い存在です」
「だからなんだ?それがどうした?それは何か、勇者でない理由になるのか?」
「え、いや……だって、魔王陛下と戦って、勝てないと……駄目じゃないですか?」
「人間種ごときが我に敵うわけがなかろう」
なぜだろう。会話がかみ合わない?
「……陛下も、先ほど勇者が覚醒前、と、何かおっしゃられていたではありませんか?」
「覚醒というのは勇者の力のことだ」
「……ですから、それが、魔王陛下を倒せるだけの力では?」
「もう一度言うが、人間種ごときが我に敵うわけがなかろう」
……うん?
勇者って、なんだろう??
私はそこで、人間種の考える勇者について魔王陛下に伝えてみた。とりあえず、こう、強くて、たくさん魔法が使えて、剣もとても上手くて、リーダシップがある存在。誰もが頼もしいと期待し、信じ、憧れる存在。
人間の敵である魔王を倒し、平和を齎してくれる存在。
「そなた等は馬鹿か?」
あ、呼び方が貴様じゃなくなった。と、そういうことでなく。
私の説明を聞き終えて、魔王陛下は呆れたように息を吐いた。
「強さというか、人間種どもの中にも賢者やら大魔法使いやら剣豪やらといった者どもが湧くだろう。人間種の枠を超えた強さを持つ者などそう珍しくもない。が、勇者は違う。唯一無二、魔王である我と対になる存在は、力で推し量れるものではない」
「……その、陛下のおっしゃる勇者とは?」
「我の対だ。いかに無力だろうと臆病者であろうと、必ず我を封じることができる。魔王の対であるので勇者、と便宜上呼んでいたのか、それともたまたま、昔の勇者が人間種どもからみてそなた等の基準に当てはまる“勇者”であったのかは知らぬが」
一度言葉を区切り、魔王陛下は私の手首を掴む。黒く長い爪は私の肌を容易く傷つけられるだろうに、その爪が私の肌に触れないように注意を払ってくださっているようだった。
「我の勇者はそなたであり、そなただけが我を封じる事が出来る」
深い赤の瞳は確信に満ちていた。私が目の前でどんなに醜態を晒しても、この方は私が自分の対だというのだろう。
「……わ、私は、歌姫です。歌うことしかできない、役立たずで……」
「ふむ、先ほどもそのように申していたが。人間種の言うところの、その歌姫という役職はどのようなものなのだ?許す、歌ってみせよ」
「え、嫌です」
戦闘時とか、大切なひとに祈りを捧げるならともかく見世物として歌うというのは恥ずかしい。反射的に断ると魔王様の眉がぴくり、と動いた。
「なんと申した」
あ、怒ってらっしゃる!
途端に膨れ上がる魔力に、私は身構えた。兄のように私を馬鹿にせず、言葉をちゃんと聞いてくださる方だったので、つい、素の対応をしてしまった。
私は萎縮し、再び平伏そうとしたが既に遅く、魔王様は私に向かい魔力を放とうとされている。
私の使えるのは味方を強化したり、敵を弱体化させるようなものだ。魔王という、魔力の塊に私程度の力が通用するとは思えない。
「えぇっと、えっと、えぇっと!!」
頭の中で自分が使える歌をあれこれ浮かべては却下する。一瞬で目まぐるしくなる思考回路だが、それでも命を繋ぐ術を見つけるには回転が足りない。
「――っ!!」
死を覚悟しながら、私の喉からついて出たのは子守歌だった。
まだ両親が死ぬ前。優しかった母が歌ってくれた子守歌。
囁くように、小さくか細く、けれど優しく、祈るように愛を囁くように。歌う。
「ぐっ……」
魔王様が、顔を顰めた。
う、うるさかったのだろうか。耳障りで申し訳ない!!しかし、こちらも命がかかっている。私は歌い続けた。何かに抗うように、魔王様が腕を振り払う。大きな斬撃となって、森の木々を切り倒した、大地が震え、空に雷鳴が届く。それでも、その攻撃は一つも私には届かず、やがて魔王様は膝を突いて倒れた。
「……た、倒し……た?あ、違う……」
魔王様は眠っていた。
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*ダグラス:夜半屋外にて*
「おい!見張りは交代だって言っただろ!いつまで寝てるんだ!」
乱暴に、ダグラスはサフィールを蹴り起こした。
次の街まであとわずか。明日の昼には到着するだろうが、今夜はどうしても野宿となる。この辺りに強い魔物はいないが、だからと言って何の警戒もしないで全員ぐーすか眠れるわけもない。
「……私は、あなたのような野蛮人と違い頭脳派。きちんと睡眠をとらねばならないのです。脳筋は素直に肉体労働すべきではありませんか?」
「なんだとッ!?」
夜間の見張りはいつもあの女の仕事だった。
これまで勇者一行は、野営をしている最中に襲撃を心配する必要がなかった。
夜に活性化する魔獣たちは、野営をする冒険者にとって脅威だったが、あの女が歌っている最中は魔物は襲ってこなかったのだ。
戦闘に参加できないお荷物女。だから、そうでない場面でサポートするのは当然だとダグラスも考えていた。
毎晩毎晩、あの女は夜通し歌い続け、そういえば、いつも口から血を吐いていた。
思い出しながら、ダグラスはサフィールの胸倉から手を放す。
あの無能な女は一晩中寝なくても大丈夫そうだった。だから、自分達は、あんな女より強いのだから、なんてことないと気安く考え、まずはダグラスが一晩起きている事となった。
あの女は、いつ寝ていたのだろう。
日中は、食事を作ったり道の確認、食料の確保がある。簡単な仕事だと、マリアンヌに良い顏がしたかったダグラスは食料の確保を引き受けた。
街で補充した分は、料理を担当したマリアンヌがすぐに使い切ってしまって、食べられそうな獣や草をなんとかかき集めなければならなかった。
あの女は、どうやって食料を使っていたのだろう。
「いいから、お前が次はちゃんと見張れよ!」
前衛職であるダグラスが、寝不足からミスが多くなるとパーティの損害も増えた。聖女としての力を得たマリアンヌの加護があるとはいえ、万能ではない。怪我をすれば痛く、治るのに時間もかかる。また、回復の魔法は精神に負担がかかるので多用はできない。
「はぁ……これだから野蛮人は」
文句を言いながら、サフィールは火の前に座る。
ダグラスは少し離れた場所で、やっと眠れると横になった。
その数分後、火が消え、サフィールが眠ったために、一行は魔物の襲撃を受ける。
*ジーク:夜半屋外にて*
「君に、謝罪できないまま死ぬことが、ただただ無念でならない」
片腕を大型の魔物に食われながら、騎士ジークはこの場にいない少女に話すように呟いた。
脳裏に残るのは、あの少女の泣き顔。
『騎士様も、ずっと、そんな風に思っていらっしゃったのですか?』
虹色の大きな瞳が悲しみでいっぱいに染まるのを見て、ジークの心臓は鷲掴みにされたかのように苦しくなった。今すぐこの小さな歌姫を抱きしめ、自分が彼女の味方であると告げることができたらどれほどいいだろうか。
そう思ったが、ジークは実際、それはできなかった。
「アンセルたちは、無事、逃げられただろうか……」
げほりと、血の塊を吐く。腹に大きな穴が空き、もう意識も朦朧としていた。
次の街まであと少しのはずだ。全速力で走れば、サフィールの魔術や、ダグラスの筋力があれば、無事にたどり着けるだろう。
……予想外の、戦いだった。
野営中は、見張りを立てて火の番をしていた。それが、気付けば周囲を魔物や魔獣、夜の眷属たちに囲まれていた。慌ててサフィールが防御魔法を展開したが、どういうわけか、いつもなら上位魔獣の攻撃も弾くはずの魔法壁は容易く砕かれ、使い手のサフィールがまず負傷した。
勇者であるアンセルがすかさず攻撃に転じた剣は、あっさり魔獣の爪に弾かれ、低位の魔獣の体を切ることも出来なかった。
誰もが、弱体化してしまったようだった。何かの呪いに違いないと、素早く考えたヨハンが“聖女”の看破の能力で呪いを打ち破れないかと提案したものの、マリアンヌの聖女の力は消えていて、わずかな光を生み出すこともできなかった。
それで、ジークは自分が殿となり仲間を逃がすことを提案した。
仲間たちは誰も反対しなかった。
その事を、ジークは責めるつもりはない。が、未練があった。
「彼女に、謝罪を」
再度、ぽつりと呟く。自分のような男にも未練というものがあるのかと驚いた。今更遅い。
身一つで放り出された彼女はあの後、獣の餌食になってしまっただろう。あの只管に優しい少女にした仕打ちを想えば、自分がここで生きて獣に食われる程度では到底足りない。
もっと苦しまねば、彼女に与えてしまった苦痛や悲しみに一欠けらも償えない。
鎧を砕かれ、剣を折られ、血反吐を吐き、のたうち回りながら、ジークは脳裏に彼女の笑顔を思い浮かべた。たったそれだけで、苦痛も恐怖もなにもかもが消え失せる。それほどのひとであったのに。
*サフィール:神殿にて*
「か、神の加護を……失った?」
サフィールは、命からがら逃げ込んだ神殿にて、茫然と呟いた。
不運にも魔獣の群れに襲われた勇者一行を迎えてくれたのは、転移魔法で王都からやってきた大神官と、第一王女にて大聖女であらせられる王族だった。
彼らは勇者一行を労わる処か、急いで手当することもなく、床に倒れ込んだままにし、冷たく見下ろした。
そして、大神官はサフィールに、神官としての資格の剥奪、更には既に神の加護を失っていることを突き付けて来た。
「ど、どういう意味です!?なぜ私が……!」
「神に失望された以外の理由があるのか?」
「私はこれまで、世の為人の為に身を粉にして働いてまいりました!けして、神の御意思に背くような真似など……!」
していない。それを、自信を持って言える。だが、確かに、認めたくないけれど、確かに、サフィールはこれまで自分が得ていた主神や、知識の神、治癒の神、その他様々な神々の加護を、全て、一切、失っていることを、感じた。
「人類が勇者を手放したと、神が失望するのにこれ以上の理由があろうか?」
冷たく、大神官が言い放つ。
「は……?勇者、勇者であれば……そこにいるじゃありませんか!?」
サフィールは床に転がっている、半死半生の男を指差す。勇者の血を引く男。間違いなく、あれは勇者だ。そう王族が認め、そして神殿も勇者一行を見送ったではないか。
今更何を言うのか。
「アンセルは勇者でしょう!?でなければ説明がつかない!あの剣の技、強さ、いくつもの魔法を操る才能!あれが勇者でなくてなんだというのです!?」
吠えるサフィールに、大神官は顔を顰めた。これがかつては将来を期待されていた若者かと、まるで腐った野菜でも見るような目を向ける。
「そこからはわたくしが」
と、進み出たのは大聖女だった。
「神々は仰せです。勇者とは、人間の考える力の強き者にあらず、と。先代勇者は一騎当千の英雄であらせられました。ゆえに、魔王を封じた後、国同士の諍いに巻き込まれ、命を落としました。勇者とは、魔王に対してのみ有用。神々が触れること叶わぬ魔王を、命短し人の身であるゆえに討ち滅ぼす可能性を秘めた人間。当代は、か弱き歌姫であった、と」
「歌姫……!?あの役立たずのことか!?あいつが勇者!?バカげてる!」
苦し気に呻きながら、アンセルが上半身を起こす。少し休んで回復してきたのだろう。今は怒りで血が上っているのか、顔色は悪くない。
「だとしたら、俺のこの力はなんなんだ!ふん!この俺が魔王を殺してやる!それができるだけの力があるんだ!」
「神々は仰せです」
傲慢に言うアンセルを、大聖女は冷たい声で遮った。
「勇者は、魔王に対しての切り札。ゆえに、魔王の元まで無事に送り届ける者たちに、神々の加護を。贈り物を。山ほど、浴びるほど。冗談のように。春の浮かれたお祭りのように、降り注ぎ、与え、か弱き歌姫を守らせる。――はず、であったものを。人間たちは、勇者を手放した。唯一の存在を手放した。神々は仰せです。失望した。我々は、今の人類に失望した。新たな勇者は、当代の勇者が死なぬ限り生まれない。当代の勇者は魔王の腕の中。長く、末永く、守られる。その間に、魔王の配下が人類を、神々を滅ぼすだろう」
大聖女は無表情に、しかし、瞬きもしない瞳にははっきりとした怒りを込めて、アンセルたちを睨み付けていた。
*ジーク:???にて*
「……?」
自分は死んだのだと、ジークは覚悟していた。しかし、気付けば仰向けになり、夜空の下、生きている。
周囲にいたはずの魔物たちは見当たらない。別の場所か、いや、ここで自分は死んだのだとジークは頭を振る。
空いていた腹の穴や、食い千切られた腕が元に戻っていた。
「……セレン?」
意識を失う直後、思い浮かべた少女の笑顔。幻聴かと思っていたが、彼女の優しい歌声が聞こえた、あれは、現実だったのではないだろうか?
死ぬはずだった自分を、彼女の唄声が守ってくれたのではないだろうか。
「賢しいな」
「!?」
胸に湧き上がる感情を抱く隙も与えず、ジークの体は何者かに足で押さえつけられた。踏まれている。背の高い、異形の男。黒衣に、大きな角の生えた赤い目の男だった。
「貴様のような虫けらが、我が妃の心の結晶を得ている。ゆゆしきことだ。忌々しい」
「……妃?」
誰のことだ、問おうと口を開くと、胸の上に乗った足の力が込められ、呼吸が出来ずげほり、と息を吐く。
「虫けら。選ばせてやろう。貴様の命を守ったのは、我が妃の心の結晶。貴様が生き延びれば、代償として砕け、消え失せる。が、貴様が死ねば、あれの心は貴様のものとなる」
ジークはこの男が、誰の話をしているのかわかった。
セレンだ。
あの優しい、穏やかな少女。
ジークは、彼女を追い出すという仲間たちの提案に反対しなかった。あのパーティにいて、彼女にとって良いことなどないだろうと、考えていたからだ。優しい彼女は兄のため、人類のために同行し続けるだろう。追い出すと言う乱暴な手段を取らねばならないと、思い、アンセルたちに同意した。
彼女の心が、自分を守ってくれた。
今動くこの心臓は、彼女が自分を想ってくれたからなのか。嬉しくて、あまりにも、幸福で、ジークは涙が出て来た。
ぐいっと、乱暴に腕で顔を拭い。ジークは自分を見下ろす男を睨み付ける。
「俺の命を奪うなら奪え、魔族め。が、彼女が俺に託してくれた心は貴様にはやらぬ!死のうとも、彼女に思われた俺のまま、俺を想う彼女の心を抱いたまま、地獄へでも、」
ジークの言葉は最期まで続かなかった。
パリン、と容赦なく、何かが割れる音がした。
「だからどうした。それがなんだ。貴様が何を選ぼうが望もうが誇ろうが。我が妃の心は一切我が手に入れる。貴様から奪う。貴様は死ね。みじめに、我が妃の瞳に涙を浮かべさせた貴様は惨たらしく死ね」
ぱちん、と男が指を鳴らすと、孔雀のように派手な身なりの悪魔が現れた。恭しく一礼をして、ジークの体を掴みあげる。
「はい、では。骨の一本髪の毛一つ足の爪の一欠けらも無駄には致しません。えぇ、ご安心ください」
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「あ、あの……魔王様。大丈夫ですか?」
倒れ込むようにして眠ってしまった魔王様を、私はとりあえず木陰に避難させ(ずるずると引き摺って)頭を膝に乗せてみた。
子守歌で眠るんだ……と、驚きであるが、さて、この状況はどうしたらいいのか。
静かな森の中。ダメ元で、目覚めの唄を歌ってみる。朝、とても気持ちよく起きられるおまじないのようなものだ。軽やかなリズムで弾むように歌うと、魔王陛下がゆっくりと目を開く。
「…………そなたの声は、心地よい」
まだ寝ぼけていらっしゃるのだろうか。歌うのを止めると、「続けよ」と促される。
初めて、歌を褒められた気がする。私は少し、顔が熱くなった。
暫く歌い続けて、喉からひっかくような、痛みが走る。けほり、と咳をすると、魔王様が顔を顰めた。
「血の匂いがするな。怪我をしたのか」
「申し訳ありません。喉を、少し。いつものことです」
本当ならこれくらい歌っていても喉を傷めることなどないが、兄たちと旅をするために毎晩歌い続けた喉は、潰れかかっていた。そう言う意味でも、私は歌えなくなればますますお荷物になっただろう、追い出されるのも当然だったのだ、と悲しい気持ちになる。
「……少し待て」
と、魔王様は軽く体を起こすとパチン、と指を鳴らした。
「はい。お呼びでございますでしょうか。偉大なる我らが王よ」
虚空から、孔雀のように派手な身なり、紳士的な態度ではあるが、ひと目で悪魔とわかる風貌の青年が現れて慇懃に頭を下げる。
「何か喉に良いものを持て」
「畏まりました。では、こちらはいかがでございましょう。聖なる森に生息する特殊な花の蜜を集めた蜂蜜でざいます」
孔雀の悪魔はひょいっと小さな小瓶をどこかからか取り出す。金色の綺麗な蜂蜜が、透明な硝子の小瓶の中に入っていた。魔王様はそれを受け取ると、私に手渡す。
「使え」
「……あ、ありがとうございます」
「良くなったら、また歌え」
小瓶の中身を一口含む。甘く、まろやかな蜂蜜は喉に優しい。
私はふと、血を吐いた時、ジーク様が飴をくださったことを思い出した。
「……」
「他のことを考えているな」
「あ。少し、昔のことを。兄は、私にあまり優しくありませんでしたが、一緒に旅した仲間の中で一人だけ、親切にしてくださった騎士様がいたのです」
ご迷惑をかけるだけかけて、私は勝手に恨んだのだと、こうして落ち着いてみて、申し訳なくなってくる。
あの方は職務を全うしただけ。親切にしてくださっていた。それを勝手に裏切られたような気持になって、あの方のこれまでの親切を忘れてしまっていた。
「そなたの、」
「はい?」
ぐるん、と視界が反転した。
気付けば、魔王様が私を地面に押し付けている。長い魔王様の黒髪がベールのようになり、私の視界を狭くする。
「そなたの対は我だ」
「本当に、私が勇者なのですか。そうだとしたら、兄は一体なんなのでしょう」
兄は今も、勇者として、魔王を討伐するために、世の為人のために、旅を続けているのだ。私に優しくはなかったけれど、それでも兄が世界のために戦おうとしているのは誇らしかった。
「過去の勇者の血を引く、その辺の人間種どもよりは多少強いだけの凡人であろう」
容赦なく、魔王様は言い放つ。
私は一度絶句し、しかし、思考を回転させた。
兄がそうではなかったとしても、それでも、やるべきことは、かわってはならないはずだ。
「……それでは魔王様。私が本当に、勇者だというのなら……私は、魔王様を封じることが、できるんですよね?」
「そうだと申している。で、如何する。そなた、我を封じるか」
「……そうしようとしたらきっと、魔王様は私を殺しますよね」
今はお優しいが、きっとそうなさるだろうと私は思った。
それに、私はまだ覚醒前らしく、きちんと封印はできないだろう。子守歌で眠らせることはできるが、これは一時的なものに過ぎない。
「……私と一緒に、いてくださいませんか?」
「と、言うと?」
「そうですね、私が死ぬまで、私の側にいて、魔王様は悪いことはなさらないでください。私は……魔王様が、私に優しくしてくださったのが、どうしても、嬉しい。でも、魔王様は……きっと、人間にとって良くないのですよね。だから、私が死ぬまでは悪いことをなさらないで欲しいです。私が本当に、勇者なら」
私の寿命が尽きるまでは、世界は平和、ということにして貰えないだろうか。
お伺いを立てるように、魔王様の顏を覗きこむと、赤い目が面白そうに細められた。
「我にとっては人の一生など瞬きの間。そんな僅かな間でよいのか」
「一応、勇者としての自分の一生分の責任は果たして、あとは、後世にお任せします」
困ったように笑うと、魔王様も笑った。皮肉めいた笑みだったが、私への悪意はない。
「では歌え、そなたは我のものである」
再び魔王様が私の膝を枕にして横になられた。
深い森の中で、魔王様と勇者が二人。
いつまでもいつまでも、幸せに暮らせるだろうか。祈りを込めて歌う。