29.ヴェレッツァという国
「私に出来る事があるのであれば、出来得る限りの事はしたいです。ただ……」
「ただ?」
どうしたいのか、の答えとして。
私が持ち合わせているのは、個人的な感情だけで。
「そもそも私自身は、ヴェレッツァという国を全く知りません。足を踏み入れたこともなければ、歴史すら何一つ……」
この瞳が、ヴェレッツァという国の深い部分に繋がる物なのだとしても。
名前以外何一つ知らない状態で、何かが出来ると思えるほど自惚れてはいないから。
「そう、だったな……」
「殿下。本日の午後の執務の残りは僅かですので、一度終わらせてから改めてお時間を作りませんか?」
そう言って指示された先の書類の束を見て、殿下も一つ頷く。
明らかに前よりもずっと減っているのが私にも分かるほどだから、追加さえされなければ今日の執務は本当にあと少しだけなんだろう。
「セルジオ」
「お任せください。方々への指示も、すぐに手配いたします」
「陛下への言伝も頼んだぞ」
「はい」
相変わらず意思疎通が完璧な主従を久々に目の当たりにして、口を挟む隙も無いまま。
けれどその内容は明らかに私の為だと分かっているから。
「カリーナ」
「宮殿には戻らず、私の仕事部屋で待機していますから。お仕事が終わり次第、呼んで下さい」
「あぁ」
その間に、私は私で用意しておきたいものがある。
すぐには完成しないかもしれないけれど、色々と試してみたい事はあるのだ。
今の私にできる最大限の事は、食の癒しと呼ばれる血の奇跡の能力を使う事。
それがもしかしたら、ヴェレッツァと呼ばれていた国の人たちの力になるかもしれないから。
ただのお菓子なら、きっと警戒されないはず。
そう思いながら、なるべく長期保存の効くクッキーやクラッカーの試作をしていたら。
予想以上に早く呼ばれてしまって、焼き上がりまで行けなかった。
けれど。
「ヴェレッツァの初代国王様は、英雄様と世界を救うための旅をされていたのですね」
「あぁ。そしてヴェレッツァという名も、英雄から贈られたらしい。違う世界のとある国の言葉で『美しい』という意味なのだとか」
「ヴェレッツァアイと名付けたのも、英雄様だったのですか…!?」
「そのようだな。…だからかもしれぬ。英雄の子孫である我らドゥリチェーラの王族は、皆一様にヴェレッツァアイを美しいと感じる」
なんて。
用意されていた資料を読みながら、殿下が時折説明をしてくれるから。
ついつい新しい知識を得る事を純粋に楽しんでしまっていて。
そして会話が続けば、当然殿下もいつも通りになるわけで。
「特に私にとっては、カリーナのその瞳は唯一無二だ。何よりも美しく、誰よりも愛おしい」
「ぅ、ぁ……で、殿下……」
そっと頬に添えられた手のひらと、見つめてくる瞳の熱があつくてあまくて。
つい、そのまま雰囲気に流されそうになってしまっていると……。
「ご夫婦仲が宜しいのは構いませんが、今はそういった事はお控えいただけるとありがたいのですが?」
「ぁわっ…!!ご、ごめんなさいっ…!!」
「ちっ…。セルジオ、邪魔をするな」
「申し訳ありません。ですがあちらの国から提示された期間は決まっておりますので。妃殿下がそれまでになるべく多くの知識を得られる事の方が、今は先決なのではありませんか?」
なんて。
ちゃんと常識人が止めてくれる。
今回ばかりは殿下も、口では文句を言いながらすぐに引いてくれるので。
ありがたい反面、本当に大切な事なのだと改めて気を引き締める。
「全く……。いっそのこと、身勝手なあの国を滅ぼしてしまいたいな」
「そのような私怨で、国を滅ぼそうとしないで下さい」
「分かっている。何より私以上に、兄上やかの国の民たちの方が余程その思いは強いだろうしな」
「陛下が、ですか…?」
国を滅ぼされた人たちが、攻め入ってきた国を恨むのは分かる。
けれど、どうしてここで陛下が出てくるのか分からなくて。
思わず問いかければ、少しだけ悲しそうに殿下が笑う。
「兄上は……幼い頃ヴェレッツァと直接交流があったのだ。殺されてしまった王子と、大層仲が良かったと。そう、聞いている」
その、殺されてしまった王子というのは。
きっと私の実の母の、兄にあたる人なんだろう。
私にとっては伯父さん、だろうか。
その名の通り美しかったヴェレッツァは、今では侵略してきた国の整備が行き届かないせいで荒れ果てていて。
人々は圧政に苦しみながら、日々をただ必死に生きるだけになっているだとか。
侵略してきた国は、今までもそうやって領地を増やしてきているだとか。
その後も色々と学んだけれど、それでも殿下が最後に一言。
「あくまでこれは、資料でしかないがな」
と言い放ったその言葉が。
どうしても、忘れられなかった。