毎朝コーヒーを欠かさない人
理想の一日とは、どんなものだろうか。適度に運動したり、お惣菜ではない料理を食べたり。何をするにしても、何かが欠けていたら、「理想の一日」を過ごすことは不可能である。
つまり、理想の一日を終えるかどうかの前に、始められるかが大変重要だと如月は常日頃から考えていた。今まで理想の朝を実現するために、TO DO LISTを作成したり、朝日記を書いてみたり、朝ヨガを導入してみたり、ランニングウェアを買ってみたり。
しかしどれも長続きすることはなかった。なぜならこれらの行動をする前に、そもそも起床できなかった。眠りの美女の如く半永久的にベッドに縛り付けられているわけではないが、「理想の一日」を始められる時間に起床することが無理なのだ。
南京錠で施錠されているかの如く、如月の瞼は開かれない。このとき如月の瞼の開閉をコントロールできるは、身体であり、如月という精神ではない。
日常生活は如月という精神が身体をコントロールしているが、睡眠を介して、如月はその操縦権を手放している。手放された権利を手にするは、生理的欲求である。身体の主体は、欲求になるのだ。
欲求が満たされることで主権は放棄される。欲求が眠りについて初めて、如月の精神が身体の主体となるのだ。しかしその頃には残念ながら「理想の一日」を始めるための「理想の朝」は早くも終止符が打たれている。決して如月の意思が軟弱というわけではない。
主権の奪略に幾度となく失敗している如月は、譲渡されるのを大人しく待つことにしている。いつかまた奪略を計画する日が来るかもしれないが、今のところその見通しは立たない。
「理想の朝」を構成するものを、過ぎた時間から行う気力のない如月は、とりあえずコーヒーを飲む。
如月がなぜ特に好んでいるわけでもないコーヒーを飲むのか。それはコーヒーを淹れたからである。インスタントをやめて、ドリップを最近は好んでいる。
ではなぜ、手間を掛けてまで、コーヒーを淹れるのか。それは、コーヒーを淹れる過程を好んでいるに過ぎない。金と時間をかけて、朝の貴重な時間をコーヒーに入れる。コーヒーを入れるその時間を摂取することが、目的なのかもしれない。
水道水をケトルで温め、ポットとカップを温める。次にケトルに注がれる水は、浄水。如月の家の中で最も働いている家電はおそらくケトルである。ケトルなくして如月の日常は成り立たない。嗚呼ケトル、偉大な家電。
フィルターを折り、ひっくり返し、挽かれた豆を測り、お湯を注ぐ。日々計量や蒸らす時間などを変え試行錯誤しているが、美味しくなっているのか否か判別不能。
注ぐ技術は下手の横好きであることは見て取れるため、上達するための努力は惜しまず、朝から4杯ほどコーヒーを胃袋に流し込むことになる。
無論待っているのは胸焼けである。
朝定刻に起きれぬ事へのやるせなさを、コーヒーとともに流し去り、胸焼けと共に行動を開始する。これが如月の朝である。