旅立ちの朝
あれからオレは、すぐにベッドに倒れ込んで、知らない間に眠っていた。ものすごく内容の濃い夜を過ごしたので、疲れが限界に達していたのだ。いつの間にか辺りは真っ白に少しだけ水色が入ったような光が降り注いでいる。近くの田んぼに無造作に生えている雑草の上には、ちょこんと朝露が座っていて、虫が草を蹴るたびに柔らかい地面へとダイブする。
今日から三月。
暖冬と言う異常気象の影響で、もう桜の花が咲いている。こんな日には、こんな言葉がお似合いだろう。
【春眠暁を覚えず】
あと五分だけ寝ていたいなぁ〜なんて思って、ついつい二度寝をしてしまう。そんなだから、朝起きたら、時計は八時半を指していた。……そう、思い切り寝坊したのだ。
カーテンがひらひらと春の風で揺れている。その隙間から、朝日が煌びやかに降り注ぎ、オレの体を優しく照らしている。優しい朝日に包まれながら、寝不足で頭がぐわんぐわんしているオレは、いつもの何倍もの早さで制服を着た。カバンの中には何も入れなくていいのに、なぜか大量に教科書を詰め込んで部屋を飛び出した。
日本の朝は、なんでこんなにも慌ただしいのだろうか……それは、寝坊してしまったからなのだが。
縺れる足で必死に階段を降り、下の階につくと、いつもは置いてあるはずの朝ごはんが、今日は置いてなかった。
「母さん! なんで起こしてくれんかったんや! ……しかも朝ごはんも無いし!」
台所で食器洗いをしていた母さんも寝不足のようで、いっそう老けて見えた。
(これを言ってしまうと、大変な事になるので、あえて心の中で呟いた)
「……えっ!? あんたまだ家にいたの!? もうとっくに学校に行ってるのかと思ってた」
母さんは持っていた皿をアニメみたいに床に落としかけたが、なんとかナイスキャッチしてひとつため息をはいた。
「あんた、じゃあ、何も食べてないんでしょっ? なら何か作らないと……」
母さんがタオルで手を拭きながら、冷蔵庫をごそごそと探った。
「あ、いいよ。いいよ。あと十分で学校に着かないと行けないから」
「十分?」
「うん。だから、帰ってからなんか適当につまんどくよ」
「そう……じゃあ、気を付けて行ってらっしゃい」
「おぅ」
オレは短く朝の挨拶を済ませると、玄関まで走って、お気に入りのスニーカーのかかとを潰すようにして履いた。
……高かったんだけどな。
……まぁ、今は仕方ないか。
オレは勢いよくドアを開けると、その勢いのまま、自転車置き場まで走った。自転車置き場につくと、自転車の籠に目がいった。
……あ、忘れてた。
そこには、綺麗なオレンジ色の花弁が、朝露に濡れてキラキラしている。このカリフォルニア・ポピーを、このまま学校まで乗せて行くわけにはいかないと思い、鉢を抱えて玄関まで引き返した。
「母さん! これっ!」
「えっ、これどうしたの?」
「まぁ……細かい事はいいから! とりあえず、どっか置いといて!!」
「……分かった」
「んじゃ!」
「行ってらっしゃい……」
自転車置き場まで帰ってきたオレは、とにかく急いで自転車に跨り、ばっちり充電した携帯電話で、残り時間を確認した。
「あと……四分二十七秒か。今までの最高が四分一六秒だから、まぁ大丈夫だろう!」
なんだかよくわからない希望で胸をいっぱいにし、学校に向かった。そう、昨日通った道はわざと遠回りをしていたのだ。なんとなく遠回りしたかったからと言うより、梓と話しているのが、久しぶりで、楽しかったから。ただそれだけ。
……あっ、ウォークマン忘れた。引っ越し屋のトラックとすれ違いながらそれを思い出すと、なんだか少し気分が落ちた。そんな事を考えながら、それはそれは必死で自転車をこぐと、目の前に見慣れた校舎が見えてきた。
「よっしゃ、ラストスパート!!」
オレは今まで出した事ないくらいのスピードで校門をくぐり抜けた。
……よっ、しゃ〜……ギリギリ……セーフ〜……
死ぬかと思った。この時ばかりは本当に死ぬかと思った。
靴箱で靴を脱ぎ、上履きに履き替える。と同時に、正面にある時計で時間を調べた。
「始業のチャイムまであと……四十八秒!? やばっ!!」
色々といらない荷物を積んで、いつもよりも重いカバンを抱えながら、必死で階段を上った。
三年A組と書かれたプレートを見つけ、悲鳴を上げている足の筋肉に、最後の力を振り絞らせ、野球部並のスライディングで教室まで突入した。
「よっしゃ!! セーフ!! ……って、あれ??」
その部屋の中に、オレ以外の人影は無かった。
……えっ、なんで?
オレは何か思ったのか、無意識で黒板の横に設置されている伝達黒板と言う小さいサイズの黒板の字をまじまじと見つめていた。
「……明日の予定……集合、九時四十分までに教室……えっ、九時四十分!? うわっ、やらかした〜」
その時に初めて気付いたのだ。寝坊なんかしていなかった。むしろもっと寝ていても良いくらいかもしれない。その後、オレは何を思ったか、失った睡眠時間のためにも、その場でいいから、もう三十分くらい寝てしまおうかな……とか思いながら、汗だくの顔を腕で拭った。まずはこの汗をどうにかしないと。オレは急いで学ランを脱いで、一番近くの机にそれを置き、扇風機をつけた。今日は昨日よりも暖かいが、それでもまだ扇風機をつけるような暑さではない。こんなとこクラスメイトに見られたら、間違いなく変人扱いされるだろう。まぁ、オレはハナケンみたいに人気者でもないから、そんなことどうだっていいけど。
遠くの方で、階段を急いで降りる音がした。
「早くせんと怒られる〜」
「ヤバいヤバい!」
もうそろそろ下級生が体育館で、何時間か後に行われる、卒業式のために色々準備する時間かな。懐かしいな。オレも去年はあんな感じで階段を降りてたよな。
下級生の姿を見て、また一段と、“卒業するんだ”と言うのを実感した。