秘密事
静まりかえった教室の中でオレは、ひたすら皆の帰りを待っていた。コンパスの針を使って一人で机にイニシャルを彫ったり、黒板に落書きしたりして暇を潰した。それらが飽きてきた頃、廊下から足音が聞こえてきた。
……きっとハナケンが帰ってきたんだな。
ハナケンが呼ばれてから、もう十五分以上経っていた。そろそろ帰ってきてもいい頃だ。
……ハナケンが帰ってきたら、驚かせようか。
オレは教室のドアの横で腰を下ろしてスタンバイした。
足音が教室のドアの前で止まった。オレは、ちょうど重なるようにして反対側に立ち、ドアが開くのを待った。ドアが開いたら、とびきり驚くように「わっ!」と言おうかな。
オレのイタズラ心に、確実に火がついた。
しかし、ドアがなかなか開かない。おかしいと思いつつも、今飛び出したら驚かせる計画がパーになるので、じっと我慢した。
……あ〜早く開かんかな〜。
と、その時、反対側から、「はぁ〜」と言うため息が聞こえてきた。
……ヤバい、バレたかな?
オレはそう思ったが、直後に「いや、何かの勘違いだろう」と思い、計画を続行した。すると、大きな音と共に、勢いよくドアが開いた。
「わっ!」
負けじと勢い良く言うと、ドアを開けた人の正面に立って、相手の顔を見ると同時に、「びっくりした?」と言った。
ハナケンかなぁと思う人の顔を見たとたん、多分、オレは冷や汗をかいていただろう。
それはハナケンのぽちゃっとした顔ではなく、すっきりとした顔立ちの女の子だった。
「……」
梓だった。無表情のまま、何かを言おうとしたのか、口を開けて立っていた。
「……」
「……おはよう」
「……お、おはよう」
梓は笑顔でそう返答すると、もう一つため息を吐いて、自分の席に座った。時計をぼ〜っと見つめている。ドアの前で立ったまま固まっていたオレの方は、ようやく体が動き出して、同じように自分の席に座った。オレが席に座ったのと同じくらいに、梓は何かを思い付いたような、そんな表情で口を開いた。
「みんなは?」
「今、生徒指導に呼ばれとるよ」
梓のぼ〜っとしてトロ〜ンとしていた目が、生き返った。
「え、みんなだよ?」
「うん、みんな呼ばれたんよ」
梓は驚いて、さっきのオレみたいに固まってしまった。
「え、なんで!? だって……みんなでしょ? え、何があったんだろ」
梓の生き返っていた目が、ちょっとだけぐったりした。
「まぁ……もう少ししたらみんな帰って来るから。……多分ね」
オレは、慰めているのかいないのか分からないような口調でそう言うと、教室のドアを開いて、廊下に三年A組の連中がいないか確認した。
廊下には、B組やC組の連中が次々と集まっているのが見えていて、いつも通りに騒がしかった。そんな他クラスの様子を目の前にして、改めてA組の静けさへの違和感が募った。
しばらくしてもクラスメイトが帰ってくる気配は無いので、オレと梓は、うろちょろしたり、席に座ったり立ったり、窓の外を見たり、出来る限り思い付くだけの退屈しのぎをした。窓から外の世界を覗くと、一昨年の先輩達が卒業記念に植えていた桜の樹木が見えた。ここらへんの地域は、全国的にも桜の早咲きが有名で、それと同時に早く散ることでも有名なのだ。我が校の桜の花弁も、まだ三月に入ったばかりなのに、もう春の突風に飛ばされている。
「あのさぁ……」
梓が自分の席に座りながら、外で舞い散る桜をなんとなくぼ〜っと見つつ、一人事のような口調で話しだした。
「あのさぁ、今皆がいない内に、潤だけには知ってもらいたい事があるんだけど……あ、何にも疚しいことじゃないから。潤なら黙っててくれるかな〜と思ってさ。ちょっといいかな」
そのなんとも言えないしゃべり方と雰囲気に、オレは「ぇ、ぁ、ぉうん」と言う変にぎこちない返事をするしかなかった。
「潤ってさ、私がどこの大学に行くか知ってるっけ?」
知ってる。有名私立大学の修央大だ。確か、英語が得意な人が集まって、外国とのコミュニケーションを深めるための学科だったような気がする。梓は昔から通訳になるのが夢で、そのために『語学なら修央』の修央大学志望だったはずだ。
「修央だろ?」
「うん。その入試の時にマーク方式のアンケートがあって、『留学に興味ありますか?』ってのがあったの。それで、ヤル気が聞かれてるのかと思って、『はい』って書いてあるところを塗り潰したの」
「なるほど〜……それで?」
「それで……これ見て」
梓は鞄の中から、どこかの風景が描かれているクリアファイルを取り出した。その中には、きれいな白い紙が入っていた。
「なになに〜?」
読んでみると、すごい内容が書かれてあった。
「え〜っと……合格おめでとうございます。と共に、貴女は今回、本校主催の『海外コミュニケーション強化プロジェクト』に、その内の1人である推薦留学者に選ばれましたことをご報告いたします。日時・日程・場所は以下の通りです……って、すごいじゃん! やったな梓! 海外留学ってやつだろ? これ。……すごいなぁ〜海外留学かぁ。しかもこれ、研修前に雰囲気を味うために旅行も行けるんじゃね! すごいなぁ〜」
しっかり褒め称えたつもりだったが、梓の顔にはいつもの笑顔がない。その顔は、どこか寂しげで、こっちが心配になるほどだ。
「……その次の行、読んでみて」
梓に言われるままに、次の行を読み上げる。
「……集合、二時。集合場所、紅葉国際空港Aゲート前。集合日時、三月一日。……えっ、今日!? 三月一日って、今日じゃん!」
要するに、梓は今日の昼過ぎまでしか日本にいられないって事だ。
「で……この飛行機はどこに到着なん?」
「どこだったかな……多分、裏に詳細が書かれてるはずなんだけど」
オレは急いで裏返して、到着場所と予定時間を探した。上から一文字も逃さないように探していくと、『カリフォルニア州・ロサンゼルス』と書かれていて、到着予定時刻は八時四十分と書いてある。
「なんか……すごい急だな。頑張って来いよ」
今のはちょっぴり冷たかったかな。本当はもっとかっこいい言葉をかけるのがいいのかもしれないけど、オレの国語力ではもう後が続かなかった。
「うん……まぁ私一人だけって訳じゃないから。楽しんでくるね!」
確かに紙には『その内の一人である……』と書かれているため、どうやら一人ではないのは本当そうだ。なんか逆に励まされているようで、複雑な気分になった。
「いつ帰国する予定?」
「明後日。あ、でも、研修でこっちにはいないから、紅葉に帰ってくるのは来年か再来年くらいかな。詳しくはまだ分かんないけど」
梓はアハッと笑って見せた。
「来年!?」
留学って言っても、一週間くらいなのかと思ってた。一年間だったら、その間にオレの存在なんか忘れてしまうんじゃないのか?
「……それ、今から取り消しってできんのん?」
「多分……無理だと思う……」
「そっか。だからあの時……」
オレの中で次々と不明だった部分が繋がった。昨日見た大量の段ボール箱も、すれ違った引っ越し屋のトラックも、梓からの「今日しかない」の一言も、全てはこの事だったんだ。もしかしたら梓のお母さんが梓の好き勝手を許したのも、梓の子供時代の最後だからだと思ったからなのかもしれない。オレもつくづく鈍感だったなぁ。後ろめたさからか、床を見ながらチラチラとオレの方を見る梓を見ながら、後悔の念が後を経たなかった。あの時、CD店にいたチンピラなんか蹴り飛ばせば良かったんだ。そうだ。卒業式が終わったら、真っ先に梓のためにCDを買いに行こう。
「なぁ、昨日の夜、CD店に行った時、買いたいCDがあったんだろ? 何買おうと思ってたん?」
「KAIの新曲が出たじゃん? あの卒業していく女の子の歌。昨日の夜に一緒にラジオ聞いた時の曲。あれが無性に聴きたくなってさ。なんか私と似てる境遇だったし。えっと……ノスタル……」
「ノスタルジック・メモリー」
「そうそれ。それの二番の歌詞も気になっちゃってね。ほら、一番しか歌わなかったじゃない? それとも、一番だけしかないのかな」
確かにあの時、ラジオではKAIは一番しか歌わなかった。まぁ普通の音楽番組でもめったに二番を歌うことはないから、その時は不思議には思わなかった。しかし、改めてそう言われると、急に二番が聴いてみたくなった。あの純粋な気持ちを歌った一番の歌詞と比べて、二番はどんな歌詞なんだろう。そして、歌の中の世界の二人は、どうなったのだろう。超長編小説の上巻を読み終え、まだ発売していない下巻に描かれている続きの部分が無性に気になるのと同じ気持ちだった。
「じゃあ、オレが留学祝いにプレゼントしようか?」
「えっ、いや、そんなつもりで言ったんじゃないから! ちょっと興味があっただけだから」
梓はいつもよりもちょっと大きく目を開けて、昨日お母さんがそうしたように、袖口で口を隠した。やっぱり親子だな。
「いいの、いいの。卒業式終わったらちょっとは時間あるだろ?」
「まぁ……ちょっとなら余裕あるけど」
梓はチラチラと窓の外を見た。
「じゃあその時に一緒に買いに行こうで! なっ?」
「でも……なんか悪いなぁ」
またチラチラと窓の外を見た。そんなに気になるもんでもあるのか?
「気にすんなって」
……いろんな意味でね。
実は、正直、来年から大学生と言うことでお小遣い制が無くなり、その上バイトもしていないオレの手元には、ほとんど余裕なんてなかった。でも、なにか残しておきたかった。何か残しておかないと、きっと梓はオレの事なんて忘れてしまうだろとさえ思っていた。なんでもいい。形に残して、せめて懐かしい思い出の中の一部だけでもいいから、オレのことを覚えていて欲しい。……なんで今のオレはこんなに必死なんだ? ちょっと考えすぎたかな。と、財布の中身をチェックしながら、とっさに平静さを取り戻そうとする。
“ノスタルジック・メモリー”……懐かしい思い出……か。