【ろくろ首】(1)
梨田祐璃は、パソコンを打つ手を休めて、通りに面した窓際の席から夕刻の町を行き交う人たちを眺めていた。
やがて、赤い夕日の射し始めたオフィスに、重たげな足を引きずって帰ってきたのは新人の旗屋欽之助である。
「ただいま戻りましたあ」
物憂げな帰社の挨拶に、祐璃は、チラリと長い睫毛の一瞥をくれて「おかえりなさい」と声をかけた。
「よお、ハタキン。向こうの反応はどうだったよ?」
入り口近くの、先輩と思しき社員が大仰な振りで、欽之助を出迎える。
「ちょっとマル先輩。何ですか、あの人たちは?」
マル先輩と呼び掛けられたのは、丸川尚二、ここ美次建設、不動産部門の中堅社員である。
「どうだ。いい人生勉強になったろう」
「勉強というか、亭主と息子の嫁の悪口ばかりでしたよ。それを延々と6時間以上聞かされた僕の身になってくださいよ。それに、その間の飲食代まで払わされたし」
「まあまあ、大きく商売をするための接待費と思えば安いもんだろ?」
「何言ってるんですか。うちの不動産部門には、接待経費は認められてないじゃないですか」
「そうですよねえ?二川さん」
「ああ、そうだよ」
二川と呼び掛けられた初老の社員は、自席から顔を上げずに、落ち着いた口調で返答した。彼は二川長治、この会社の超古参社員である。
「やっぱりそうだ」
しかし丸川は、欽之助の不満などものともせずに押し返す。
「ばあか、それを小にとらわれ大を失うってんだ。いいかあ、お前は、あのおばちゃん連中がどんな人物か分かっていないだろ?」
「そりゃ、聞かされてませんもん」
「俺がな、あえて事前情報を与えず、ただ『とにかく会ってこい』と押し出したのは、ハタキン、お前に大事なことを教えるためだったんだぞ」
「何ですか?大事なことって」
「俺はな、お前が自分自身で何かをつかむことを覚えて貰いたかったんだ」
丸川の先輩風に吹かれた欽之助は、だんだんトーンが下がってきた。
「はあ、それはどうも・・・」
その彼に声をかけたのは、向かいの席の佐山みゆきだった。
「ねえ、ハタヤン。マルちゃんのいうことなんか本気にしちゃダメよ。ちゃっかり、右も左もわからない新入社員をパシリに使っただけなんだから」
「え、どういうことですか?」
「あのねえ、あの人たちは、団地の自治会に長い間巣食っている女郎蜘蛛なの。団地の住人や噂なんかも、誰より詳しいわ。それで、誰が転居を考えてるとか、小金を貯めてるとか、いろんな業者に耳打ちする代わりに接待を受けてるってわけ。マルちゃんも懇意にして貰って時々いい思いをしてるようだけど、やっぱり、あれでしょ。相手するのは疲れるし、お金もかかるし、それで、ハタヤンが何も知らないことをいいことに代わりに接待させたってわ〜け」
「ええ!ひどい!そんなの、自分でやってくださいよ!」
みゆきにネタをバラされて、欽之助に詰め寄られる丸川。「このおしゃべり女め」と睨みつけると、みゆきは下を向いてペロリと舌を出した。
「おい、ハタキン。お前は日頃世話になっている先輩より、こんな元コギャルの言うことを間に受けるのか?」
今度はみゆきをネタに巻き返しを図る。
確かに、みゆきは、髪は脱色しているし、メークも濃い。スーツはきちんと着こなしているものの、スカートは膝上15センチ、元コギャルと言われて、思わず納得してしまう状況証拠が揃っている。
それを自覚してか、しなくてか、みゆきも気色ばんで言い返した。
「ちょっと!何言ってんのよ!私これでも、音大出てるんだからね!」
「へえ」
わざと手を大振りに上に向けて、丸川が応じる。
「もう、そんな見栄は聞き飽きたってえの」
そこまで、聞くともなしに聞いていた佑璃。
「ああ、また始まった。しょうがないなあ」
と、呟いてそっと席を立つ。
「もう!見栄かどうか、主任に聞いてみてよ!」
「はい、はい、佐山さんの言うこと、本当よ」
そのまま、佑璃も会話に加わった。
「あ、佑璃・・・、じゃなかった、主任」
不意を突かれた丸川が言い直す。
欽之助も佑璃の一言に反応して聞き返した。
「本当ってどっちがですか?」
「どっち、って?」
「えっと、佐山さんが音大出ってことと、僕がマル先輩のパシリをしたことと」
佑璃は、少しいたずらそうに笑って答えた。
「う〜ん、そうね」
そして、細い肩から伸びた長い腕をゆったりと胸の下で組むと、佑璃のたおやかな細身が際立った。
「どっちもかな」