アニエス嬢の覚醒
ちょっと待って。どうしましょう。
私、アニエス・ヴァレリー・バロー15歳。
そこそこ裕福なバロー侯爵家の末娘です。
バロー侯爵領と言えば、このカスタニエ王国で五本の指に入る名領。
そんな貴族ですが、末っ子ということもあり、これまで政治的に使われることはほぼなかった私。
仕事や社交に忙しい父母にかわり、二人の兄たちと姉、義兄に構われながら、屋敷に引きこもりがちではありますが、得に不自由なくすくすくと普通の令嬢として育ってきました。
なお、父も母も忙しくはありますが、晩餐の時間は必ず合わせてくれる両親で、愛情に飢えているわけでもありませんし、引きこもりがちだとは言っても、姉も、近所に女性の幼友達たちもおりますから、美容や流行に疎いわけでもありませんので、そこに関しては勘違いしないでいただきたい。
とにかく、普通の貴族令嬢として、お見合いをすることも、政略結婚をすることも、特に問題とも思わず生きてきました。
この国では、貴族の子息・令嬢に基本的な勉強は家庭教師を付かせますが、男女問わず15歳になれば高等教育を受けるため、学園に入学することとなります。
そして、大抵の子供たちは、入学のタイミングか、この学園の在学中3年間で、婚約を結ぶことが慣習となっているのです。
私も15歳。この春から学園に通うため、婚約者候補を見つけなければなりません。
姉は家同士の繋がりをより強固にするために、遠縁の侯爵家へ嫁ぎましたし、兄たちのうち一人は、父の仕事で繋がりを持ちたい伯爵領のご令嬢を、婚約者として迎えています。
もう一人の兄はまだ婚約者が決まっておりませんが、今年が学園の最終年度でしたので、いくつかお話が上がっており、そろそろ決まるかな、というところです。
そして、本日。我が家よりも各上の地位ではあられますが、私はお隣の公爵領のご子息、エリック・ファーガソン様とお見合いをするために、支度を整えていたのです。
今日着るドレスは、母と姉が私のグレーの瞳と、柔らかなダークブロンドの髪に似合うだろうと特別に仕立ててくださった少しグレーがかったラベンダー色の大人っぽい色合いのシフォンとレースのドレスでした。
わたしも少し背伸びができるようで、とても気に入っています。
母に似て豪華な大ぶりのウェーブがかかった髪は、控えめになるようにハーフアップに編み込み、ラベンダーを模した金の髪飾りを添えていただくことにしました。
私付きの侍女であるサラが、髪を結わえようとして櫛を取り落としたその時です。
床に響く落ちた櫛の音。
その音で、今、一気に記憶が流れ込んできました。
今までもデジャヴが起こったり、不思議な夢を見たりすることがあったのですが、今度こそはっきりと理解しました。
これ、前世っていうやつの記憶ね…。
今とは全く違う世界で生を受けていた時の記憶。
貴族のような生活とは無縁な、庶民の暮らしだったけれど、家族も友人もいて、とても幸せだったこと。
でもどうしても15歳より後の記憶が思い出せない。ということは、たぶんそういうことなのでしょう。
頭の中がパンクしそうなほどたくさんの情報を処理していっているうちに、私は気が遠のいていくのを感じ、そのまま倒れこんでしまいました。