この日のために
◆◇藤峯シンヤ◇◆
五里守まつ子。
表札に書かれた名前を確認し、1度ノックをしてからボクは扉を潜った。
そこには死んだようにベッドの上で眠る老女と、その傍らで老女の手を握りしめているまひるさんが居た。
「入っていいって言ってないけど……」
まひるさんが棘のある声で呟いた。しかしその棘に鋭さはなく、萎びた薔薇のようだ。
ボクはまひるさんの隣に座った。暫く、無言で傍に居続けた。
「おばあちゃん。ベッドの上から落ちてたって……」
やがて、ポツリとまひるさんは呟いた。ボクはその嘆きに耳を傾ける。伝搬されてくる悔恨に集中し、ココロの奥深くを探る。
「床の上で、苦しそうにもがいてたって……ごめんなさい」
まひるさんから、身を裂くような想いが伝わってくる。油断すると、ボクまで泣いてしまいそうだった。でも、ボクは泣くためにここに居るのではない。辛い思いをしている、まひるさんに寄り添うために、ここに来たのだ。
「命は取り留めたけど……もう満足に動くことも、話すこともできないだろうってお医者さんが……」
ボクは拒絶されるかもしれない恐怖を抱きつつ、まひるさんの肩を優しく抱いた。肩に追いた手が振り払われることはなかった。
「わたし馬鹿だ。大馬鹿だ……」
まひるさんの肩が震えていた。
「おばあちゃん、きっとわたしを恨んでる」
「そんなことないよ」
ボクはまひるさんの自棄的な言葉を否定した。すると、まひるさんから憤る気持ちが伝わって来た。
「勝手な事言わないで。酷い言葉をぶつけて、その上おばあちゃんを放っといて外に飛び出すような、最低なわたしだよ。恨んでるに決まってる」
「そんなことないよ」
ボクは同じ言葉を続けた。まひるさんの怒りが強くなる。
「藤峯クンに何が分かるって言うの」
「だって伝わってくるから」
ボクは、正直に彼女の想いを伝える。
「まーちゃんは悪くないって、伝わってくるから……」
まつ子さんの瞳は閉じたままだ。でも、夢の中でまひるさんの懺悔を聞いているのかもしれない。まつ子さんはひたすら、ココロの中でまーちゃんは悪くない、まーちゃんは悪くないと繰り返していた。
「あれは無理したワタシが悪かったって。そう言ってるよ」
「ほ、本当……?」
まひるさんがようやく顔を上げた。
「本当さ。まひるさんにも伝わらないかな?」
ボクは彼女のおでこに、自分のおでこをくっ付けた。共感能力を相手に分け与えるなんてことが可能かどうか分からない。でも、まひるさんに1ミリでもまつ子さんの気持ちが伝わって欲しいと願った。
「……分からない」
まひるさんは悲しそうに呟いた。
「でも、まつ子さんは間違いなくそう思ってるよ」
そう言って、ボクは彼女の頭を両腕で優しく包み込んだ。すると、まひるさんはようやく頸木から解き放たれたのか、嗚咽を上げ始めた。彼女の涙で肩が濡れ、服が肌にしっとりとまとわりつく。
ちょっと前まで、緊張と恥ずかしさで彼女に触れることすら躊躇われたのだが、今はそんな風に感じないのが不思議だ。ただ、彼女が愛おしくて愛おしくて堪らなかった。
***
◆◇五里守まひる◇◆
翌日、おばあちゃんは目を覚ました。でも、ほぼ寝たきりの状態であることに変わりなく、お医者さんの言うとおり、もう満足に動くことも喋ることもできない状態だった。もう、おばあちゃんと話すこともできないのかと、わたしは悲しく思っていたが……
「まひるさんの走る姿を見たい」
文化祭最終日を終えて、再度見舞いに来てくれた藤峯クンがそう言った。
「最期に、大会でまひるさんが走る姿を見たい。優勝する姿を見たい。そう思ってる」
藤峯クンはおばあちゃんに目配せしながら、少し悲しげに告げた。
「無理だよ……」
「どうして?」
「だって、おばあちゃんの世話をしなくちゃいけないじゃん。大会に参加するなんて、ましてや優勝なんて絶対無理」
金銭的な面から考えて、明日には病院を退院しなければならない。そして最期の時が来るまで、わたしはおばあちゃんの面倒を見続けるつもりだった。
「何だ。そんなことで悩んでいたのか」
しかし、わたしの悲壮の決意を、藤峯クンはそんなこと扱いしやがりカチンと来た。
「そ、そんなことって何さ!」
「ボクにまかせて」
藤峯クンはわたしの憤りを無視し、胸を太鼓のように叩いた。
「ボクがまつ子さんの面倒を見るよ。いいよねまつ子さん?」
藤峯クンが勝手に話を進める。
「ちょ、ちょっと待って! 藤峯クンにそんな迷惑かけられないよ」
「迷惑上等。ボクは散々まひるさんに迷惑を掛けてきたんだ。だから、少しはお返しをさせてよ」
「でも、藤峯クン関係ないし……」
「関係ないってのはちょっと傷つくなあ。ボクはもう十分な位、関係あるよ」
「でも、介護ってすっごく大変だよ」
「かもね。でも多分、まひるさんより上手くやれるんじゃないかな?」
藤峯クンは挑戦的な視線を送ってきた。彼の不遜な態度に、何だか腹が立ってきた。
「な、生意気な……介護を舐めないで」
「でもボクは共感能力者だから」
藤峯クンは誇らしげに、胸を張りながら言った。
「ボクほど介護に適した人間は居ないと思うけど」
藤峯クンはその綺麗な蒼い瞳を力強く輝かせながら、わたしに言った。
「この能力を、まひるさんとまつ子さんを助けるために使わせてくれ」




