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◇10月14日午後9時37分◇
自宅までの夜道。
わたしは、あきらかに異質な気配を感じていた。
しかも、わざとわたしに悟らせようとしているのがわかる。
わたしは、立ち止まった。住んでいるマンションまでは、あと三分ほど。街灯だけが煌々としている。まるで、その灯の真下にいるときだけ、スポットライトのなかで脚光を浴びるタレント時代に戻ったようだ。
どこから?
足音はない。気配のような……いえ、もしかしたら、たんに風の音なのかもしれない。それが、縦横無尽にわたしの周囲をさぐっているようだ。
「だれ?」
わたしは、声に出した。
返事はない。足音がしたけど、それは召使のものだ。
「イオさん!?」
わたしの声に驚いたからなのか、それとも彼も気配を察知したからなのか、召使はわたしの前に出てきて、あたりを警戒するように視線をはしらせる。
〈なるほど、あの二人が言っていたように、優秀な守護者がついているのか〉
突然、男の声が響いた。
どこ? 発生源はわからない。いずこの闇から。
低く、ドスのきいた声。
不気味な地鳴りを連想させた。
どこかで、聞いたことがある?
気のせいかな……。
「あ、あなたはだれ!?」
わたしの問いは、無視されるかと思った。でも、ADSLでネット検索していたころのような間があいてから、答えが返ってきた。
〈今回のネームは、『信長』だったかな?〉
「信長……? 豊臣秀吉ではないの!?」
〈それは、おまえと遊んでいたヤツだ〉
そのとき、わたしと召使の前に、なにかが落ちた。
〈それと、もう一人からの贈り物だ〉
「?」
それは、いま落ちたなにかを拾え、ということだろうか?
この謎の人物が、投げてよこしたようだ。
召使が拾った。わたしに差し出す。
わたしたちは街灯の真下に移動し、それがなんなのかを確認した。便箋を入れる封筒のようなものだった。なかには、写真が入っていた。
「これは……」
わたしの姿が写っていた。
あの夜のものだ。メールで呼び出されて、思い出の場所を訪れているときの……。
封筒の表を見た。そこには『徳川家康より』と書かれてあった。
「え……?」
わたしは、なんの真似なのかを問おうとしたんだけど、できなかった。
声の気配は、もうどこにもなかったからだ。
◇10月14日午後10時05分◇
わが家についたとき、ドッと疲れが身体を押しつぶした。玄関で座り込んでしまった。およそ一〇分ほど、その姿勢でいただろうか。
頭のなかは整理できていない。そもそも、いまなにを考えているのかも混乱している。シャワーを浴びたことも、よく覚えていなかった。浴びおわってドライヤーを髪にあてているときに、やっと認識できた。
その後もしばらく、ぼうっとしていたけど、じょじょに思考力がよみがえってきた。
豊臣秀吉。
徳川家康。
そして、信長……。それはつまり、織田信長ということでしょう。
その三人が、わたしのまわりで、なにかを企んでいる。
本名のわけはない。さきほど、信長と名乗る男の声は、今回のネームは、と言った。そのセリフからは、コードネームのようなものを連想させる。スパイとか、テロリストのように。
豊臣秀吉は、わたしに本や雑誌を送りつけてきた。それが爆弾のことを暗示していたのは、もうまちがいない。
徳川家康は、わたしにメールを送信し、思い出の場所に誘い込んだ。でも、そこではなにもせず、ただ写真を撮っただけ。その写真は、いまテーブルの上に置いてある。
織田信長は、唯一、直接わたしに接触してきた。まあ、姿は見ていないけど。なにしに来たんだろう?
この写真を渡すためか?
わたしは、問題の写真を食い入るように観察した。
あのあと……信長の気配が消えてから、召使経由で、ファインダーに写真の鑑定を依頼した。一見しただけで、彼は次のような見解を述べた。
かなり精度のいい望遠レンズを使用したもので、おそらく遠くの海上から撮影したのだろう、と。しかし機材のわりに、撮影技術は素人レベル。たしかに遠くから撮ったものだとしても、いつものファインダーの写真にくらべれば、その質は低い。
秀吉、家康、信長……この三人は、いったい何者で、なにが目的なの? 同じ目的のために動いているのか、それとも三人バラバラなのか?
わからないことだらけだ。
その三人のなかに、クライアントだった中村さんを殺害した犯人もいるのだろうか?
◇10月15日午前5時48分◇
まったく眠れなかった。
ムリヤリ眠ろうとしたって、どうせ眠れない。だったら、起きちゃおう。
今日は、会社を休むつもりだ。きっと会社のほうも、わたしに出社されるよりは、おとなしく休んだほうがありがたいはず。
小鳥のさえずる声が聞こえる。こんなに朝の音に敏感になったのは、久しぶりだ。心地のよい静けさを壊したくはないけど、わたしはテレビの電源を入れた。
ニュースをやっていた。中東のどこかの国で、爆弾テロがあったらしい。陽介のことを自然に思い浮かべた。
世界が平和でありますように──。
しかしその願いは、いつまでたっても叶わない。必ずどこかで紛争はおこっている。無関係の人々が死んでいく。
遠い国の出来事のはず……でも、いまこの日本でも、なにかがおころうとしている。しかもどうやら、わたしはその近くにいるようだ……好むか、好まざるかに関係なく。
わたしに、なにができるのだろう。
なにをしなければならないのだろう。
こんなとき、陽介だったら、なんて言うのかな?
会いたい。
もう一度……。
「ダメ!」
部屋に籠もっていると、感傷的になりすぎる。わたしは手早く支度をすると、外へ飛び出した。
朝のラッシュまえに電車に乗ったのは、どれぐらい御無沙汰だっただろう。記憶をさぐっても、思い至らなかった。目的はない。とりあえず、都心に向かった。
東横線から山手線へ乗り換えて、池袋についた。そのころには、電車や駅構内はだいぶ混雑していた。
本当は、渋谷か新宿で降りようかとも思ったんだけど、そんな気分じゃなかった。なんだかいまは、池袋の気分……。なんとなく。
それって、どういう気分だ?
自分でも、なにを考えているのかわからない。
じつはこの街には、高校生のころに二回来たことがあるだけだった。だから、JRの駅から降りても、迷宮のような地下で迷ってしまった。
どこかに行きたいところがあるわけじゃなかったから、どうでもいいんだけど。
行き着いたところは、北口?
階段を上がると、人は多いけど、なんだか野暮ったい街並みが広がっていた。どこかゴミゴミしていて、オシャレ感がまるでない。
よりによって、ここかよ、って感じ。
出てすぐのところにあるビジネスホテルを通り過ぎたところで、やっぱり帰ろうと踵を返した。
そのとき、ドンッとだれかにぶつかった。
「いたっ!」
思わず、声に出しまったほどだ。
人通りは結構あるけど、そこまで歩道上の人口は密集してない。
ぶつかってきた何者かは、あやまりもせずに駅から離れていく。突然方向を変えたわたしのほうに非があったのかもしれないけど、それでもムカつく。
男だったのはわかったけど、それが若いのか、中年なのか、どんな服装をしていたのかは、不思議とわからなかった。
「ん?」
わたしは、手のなかの違和感に、やっと気がついた。
なにかを握っていた。
右掌を開いてみる。
小さく折り畳まれている紙が、そこにのっていた。
こんなもの知らない。
いつ? どうやって、わたしはこれを!?
「いまの男……」
それしか考えられなかった。
紙を広げてみる。一〇センチ四方のメモ帳に、黒のペンでなにかが書いてあった。
横書きで、数字が並んでいる。三列。
携帯の番号?
三人分の番号ってことかな。
瞬時に、信長、秀吉、家康の名を思い浮かべた。
ここに、かけろってことかしら?
わたしは、一番上の番号にかけてみた。
「あなたは、だれ?」
『鳴かぬなら、鳴かせてみせよう、ホトトギス』
男の声。しかし、わざと声音を変えているふうだった。
「なにがしたいの!?」
『夜の鳥は、何時に鳴く?』
そこで、一方的に切られた。
「ちょ、ちょっと!?」
わたしは、すぐにかけなおしたけど、通じなくなっている。留守番電話サービスにも切り替わらないし、『電波の届かないところに──』という音声ガイドすら流れない。
夜の鳥は、何時に鳴く?
それをわたしに伝えて、どうしようというのだ。
鳴かぬなら──というフレーズは、だれでも知っている歴史上の人物をあらわす有名な言葉だ。
鳴かせてみせるのは、豊臣秀吉。
では、爆弾がどこかに仕掛けられている!?
それは、夜の鳥が鳴く時間に爆発する……!?
わたしは、霞ヶ関駅に急ごうとした。伝言板で、あの公安刑事にコンタクトをとらなければ──。
すぐに、その考えを捨てた。
だれも信用できない。信用してはいけない……そんな予感があった。
一つの懸念が脳裏をよぎったのだ。
わたしに、ちょっかいを出そうとしている目的はわからない。でもその人物は、わたしのすぐ近くにいるのではないだろうか?
わたしの行動は、すべて把握されている。
わたしの生活パターンも、考え方も、すべて──。
公安か、職場か、もしくは……。
あたりを見回した。
召使は、少し離れたところで立ち止まっていた。
その表情は、心配げだ。
あなたは……あなたたちは、味方なの?
そう問いかけそうになった。
これまでの召使との光景がよみがえってきた。
彼らがわたしのストーカーになったのは、パレットでデビューしてから二年が経ったぐらいだった。いまから四年前になる。陽介とつきあいはじめたころと重なる。
あなたたちは、わたしと陽介を監視するために、わたしのまわりに現れるようになったの?
公安? それとも、敵対する組織?
わたしが公安刑事たちに警視庁へ連行されそうになったとき、自転車で追いかけてきた召使の必死な形相が思い出された。
そういえば、埠頭で《シャドウ》の伝言を教えにきてくれたときも、わたしの身を本気で案じていた。爆弾を解除するときも……。演技じゃなかった。ずっとアイドルを演じてきたわたしだから、わかる。
それは、絶対に。
いつも美しく、ありのままの写真を撮ってくれるファインダー。
姿はわからないけど、あたたかく見守ってくれるシャドウ。
彼らは、わたしの影だ。
公安刑事も、職場の人間も味方ではない。もしかしたらそのなかに、敵がいるのかもしれない。
ならば、わたしの唯一の味方は、彼らだけだ。
自分の影を信じよう。
それは同時に、自分自身を信じることになるような気がした。
ずっと、こっちをみつめていた召使に、わたしはうなずいた。
ここからは、わたしたちの反撃だ。