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◇10月9日午後6時01分◇
会っておきたい人がいた。
わたしは定時が過ぎると、すぐに会社を飛び出した。場所は、目黒区八雲。都立大学駅から歩いて一〇分ほどのところにあるマンション。
「あら、衣央ちゃん」
その女性は、わたしの顔を見ると、満面の笑みを浮かべた。
名前は坂下久美子さん。年齢は、たしか三七、八歳だったはず。派手な茶髪で、ロックシンガーテイストのかっこいい女性。
陽介のお姉さんだ。
現在は出版社で雑誌の編集をしているけど、陽介が死ぬまでは、同じように紛争地帯を取材する記者だった。
「どうしたの?」
わたしを部屋のなかへ招き入れるなり、久美子さんは、そうたずねてきた。事前の電話もなしに、突然押しかけたんだから当然か。
「あの……ヘンなこと、聞きますけど……陽介から……」
わたしは、そのさきを言おうかどうか迷ってしまった。
「え、陽介?」
「は、はい……陽介から、連絡とか……」
久美子さんは、キョトンとしている。
「どうしたの、衣央ちゃん? おかしなこと言わないで。陽介から連絡なんてあるわけないじゃない」
その様子からは、ないようだ。あたりまえか。わたしのほうが、どうかしてる。
もう陽介は、この世にいないんだから。
「あ、いえ……ごめんなさい。なんでもありません」
「仕事で辛いことでもあった?」
「ちがうんです。なんでもないんです。いまのは忘れてください」
わたしは、必死にごまかした。
陽介が生きているわけがない。でも、生きていると主張する人間がいるのも事実……。
久美子さんにそれを伝えたら、どんな顔をするだろう。
「ねえ、困ったことがあったら、なんでも相談してくれていいのよ……あなたは、わたしの妹のようなものなんだから」
「ありがとうございます。でも、大丈夫ですから。また来ますね」
わたしは、まるで逃げるように久美子さんの部屋を出ていった。
「ちょ、ちょっと、衣央ちゃん!?」
背中に久美子さんの声が当たったけど、わたしは立ち止まらなかった。陽介が生きているかもしれない──その一言を飲み込んでしまったことで、久美子さんを裏切っているような気持ちになったからだ。
◇10月9日午後9時07分◇
『思い出の場所』、で頭に浮かんだのは、ここしかなかった。
芝浦ふ頭──レインボーブリッジの眺めがきれいなここだ。
以前、テレビで紹介されていた場所。彼は、デートスポットなんて知らなかった。海外が多かったし、流行の雑誌とか読まない人だったから。
だから、たまたまテレビでやっていたここが、二人のデートコースになった。ありきたりな場所だけど、わたしにとっては、いまでも神聖な地。今日は金曜だから、何組かのカップルが車でやって来ているようだ。わたしが言うのもなんだけど、もっと凝ったところに行かないと、破局するな、こいつら。
わたしは、ゆりかもめを使って、ここまで来た。最寄りの駅から七、八分歩いた。彼がいたときは、彼の車で来ていたから、初めての道のりだった。一人でここを訪れなければならないという孤独感に襲われていた。
潮の香りが、濃い。レインボーブリッジの夜景が虚しかった。
指定された時間は、すでに過ぎている。
やはり、だれかのイタズラか……。
でも、だれかがメールを送ってきたことは確かだ。だれが?
思い当たるとすれば、あの公安刑事。彼らなら、わたしたちがここをよく訪れていたことも調べあげているはず。
わたしは、周囲を観察した。
あやしい人影はない。
もし、公安刑事があのメールの送り主だとすると、目的はなに? わたしに、ゆさぶりをかけているの?
だとしたら、ムダなこと。陽介は本当に死んでいるし、彼もわたしもテロリストではないのだから。
そのとき、人が近づいてくる気配がした。
急激に──。
わたしは、危険を察知した。
振り返る。
「イオさん!」
やって来たのは、召使だった。
「なによ、ビックリするわね!」
召使は、めずらしく息を切らしていた。いつもは余裕でわたしのことをストーキングしているのに……。
ちょうど、わたしが警視庁に連れていかれそうになって、自転車で追いかけてきたときのようだ。あのときと同じように、切迫しているのだろうか。
「イオさん、気をつけてください!」
「どうしたっていうの!?」
「さっき、シャドウが……」
「シャドウ?」
三人目のストーカー。その正体は、不明。
だけど、影だけは確実に存在している。
「あなたに接触してきたの!?」
「はい!」
「なんて?」
「イオさんに、危険が迫ってるって!」
「姿を見た?」
「いいえ……やっぱり、影だけです」
「声を聞いた?」
「聞きました」
「どんな声?」
召使の表情が曇った。
「それが……」
召使が言うには、なにか変声機のようなものを通した声だったらしい。シャドウは姿だけじゃなくて、声もわたしたちに聞かせたくないようだ。
「とにかくイオさん! ここは危険です、はやく離れましょう!」
「待って」
わたしは、周辺を眼でさぐった。
見られている……そう感じた。
「ファインダーは、いるの?」
「た、たぶん……」
二人は、つるんでいるようで、つるんでいないから、おたがいのことはあまり知らないみたい。
「どうしたんですか!?」
「……だれかに見られているような気がするのよ」
「じゃあ、彼ですよ」
「ちがうわ。あの盗撮魔は、視線を感じさせない」
そう。だからわたしは、知らないうちに写真を撮られているのだ。
「彼をさがしてきて」
「はい」
召使は、わたしの命令を一度は了承した。
「あ、でも、イオさんを一人にできません」
「わたしはいいから!」
強引に行かせた。戻ってきたのは、それから三〇秒も経っていなかった。
「どうしたの!?」
「あそこにいました」
召使が指さした方向に──倉庫の陰に隠れるように、ファインダーがいた。おそらく、わたしのために見えやすい位置に出てきたのだろう。
「それじゃあ、このまわりの写真を撮るように言って」
「わかりました」
召使は伝令し、それを聞いたファインダーが、この周囲の写真を撮りはじめた。
ただのイタズラではなく、なにかの意図があって、あのメールを出したのなら、どこかから、わたしのことをうかがっているはずだ。
「もういいわ」
やはり伝令でそう知らせて、撮影を終了させた。かなり撮りまくってたから、写っている可能性は高い。
「ねえ。どんな危険か、シャドウは言ってた?」
伝令から帰ってきた召使にそうたずねた。
「いえ……ただ危険が迫っているとしか」
危険って、どんなよ。
殺されたクライアント。
公安。
それらと、なにか関係があるのだろうか?
陽介が生きているかもしれないと言ったあの公安刑事は、なにを企んでいるのだろう。彼らの言葉には、すべて駆け引きがある。裏表がある。
その意味を読み解かなくては……。
わたしは、なにに巻き込まれたの!?