18
◇10月16日午前10時52分◇
重い怪我を負っているとは考えられなかった。久美子さんに先導されて、わたしたちはさきを急いだ。
どこをどう通って、どこに向かっているのかわからない。だけど、久美子さんの足取りは滑らかで、よどみがない。太股を撃たれているはずだけど、歩調はむしろわたしよりも速いぐらいだ。
ハンカチやファインダーのバンダナを巻いて、肩と太股の傷には本当に簡単な応急処置しかしていない。あふれてくる血流が、久美子さんの身につけているレザーの黒を赤く染めていた。
わたしの後ろからついてくるファインダーと召使のダメージも大きいようだ。出血こそ止まっているけど、頭を拳銃で殴られたあとが痛々しく腫れている。ファインダーの低い身長が、何センチかは伸びたかも。歩くのもつらそうだ。お腹を膝蹴りされた召使も、いまだに呼吸を乱している。
「わたしの話を聞いて……」
久美子さんが足を止めずに、そう口を開いた。
午前の街中を進む、傷だらけの四人組。
わたしも側頭部が切れているはずだ。だけど不思議と、まわりの好奇の眼が気にならない。
いえ、ちがう。久美子さんが通る道に人影がほとんどないのだ。
ここは、東京のはずなのに。あきらかに、そういう路地を選んでいるんだ。
「わたしの親は……わたしと陽介の親は、当時、ずいぶんと名を馳せた学生運動の活動家だった。全共闘の時代よ。その影響からか、わたしも陽介も、大学の学生運動に興味をもったわ……」
静かに流れてくる告白が、どこか奇妙だと思った。
「時代錯誤もいいところよね。陽介の運動はかわいいものだったけど、わたしはいつしか地下に潜った。大むかしとはちがって、日本での活動なんて、たかが知れてる。だから海外に渡ったの。所属した組織は、パレスチナとのパイプがあったのよ。レバノンのベカー高原で、キャンプに参加したわ。戦士になるための訓練よ」
わたしは、なんの話を聞いているんだろう。久美子さんの体験が日本人のものだということが、わたしの常識ではとても不自然に感じた。
「わたしは、だれにも負けなかった。格闘術も、殺しのテクニックも、爆弾のあいつかいも」
「聞きたくありません!」
わたしは、たまらずに声をあげた。わたしのなかの久美子さん像が、もろくも崩れていく。
「いいから、聞いて! あなたには、聞く義務がある」
有無をいわせぬ言葉だった。
「中東を拠点に、わたしはあらゆるテロ活動をおこなったわ。いま思えば、思想なんてなかった。テロを起こすことそのものが、目的になっていた。一つの組織のために動くのではなく、いくつもの組織に雇われたわ。反米反イスラエルをとなえている集団ならば、どこでもよかった」
「陽介は……陽介も……?」
「いいえ。陽介は、まったくテロ活動とは無縁よ。わたしのことも知らなかったはず。あの子は、心の底から平和を願ってたわ」
それを聞いて、少し安堵した。
「わたしは、紛争ジャーナリストという表の顔に隠れて、裏でイリーガルなテロ工作を続けていった。そのうち、最強のテロリスト、生ける伝説《ハマーム》とまで呼ばれるようになっていったわ」
「陽介を殺したのは……!?」
「わたしじゃない……信じて。たしかにモサド本部は爆破したわ。でも、陽介が巻き込まれたショッピングモールのほうは、わたしじゃない。わたしはできるかぎり、一般市民を巻き込まないようにしていた。だけど……わたしも雇われたことのある組織が仕掛けた爆弾だった。だから……わたしが殺したようなものかな……」
悔いるように、久美子さんは語った。
「陽介の死で、わたしは正気に戻ったわ。いままで、なんてことをしてきたんだろう、って……」
「それで、日本に帰ってきたんですか?」
「そうよ。あの子への罪滅ぼしかもしれない……遅すぎたけどね。せめて、陽介が大切にしていた人だけは守らなければならない……そう思うようになったの」
久美子さんは、そこで立ち止まった。
わたしは、まわりの景色を見て、ここがどこなのかをやっと理解できた。
公園。
どういうルートをたどってここまで来たのかは、ぜんぜんわからない。でも、ここは確かに知っている場所だった。日比谷公園だ。
こんなところに……という感覚が強い。逃げるんなら、都心から離れていくと考えるのが普通じゃない?
ここからなら、警視庁もすぐそこ。公安刑事とも、ここで接触したことがあるし。
「あなたに、保険をかけてあげる」
久美子さんが、しっかりとわたしの瞳をみつめた。
「いい? これから、こう言うのよ」
わたしは、教えられたセリフを必死に覚えた。一五分ほど時間が経過しただろうか。園内の人影が、いつのまにか無くなっていることに気がついた。
平日とはいえ、白昼にだれもいないなんて……。
すると、前方から数人の男たちが近寄ってくるのが見えた。
先頭に立っているのは、あの公安刑事だ。
声が届くほど近づくと、むこうのほうからしゃべりかけてきた。
「坂下久美子はどこにいる?」
わたしは「ここにいるじゃない」と答えようとしたけど、チラッと振り返ってみたら、そこにいるはずの久美子さんの姿はどこにもなかった。
召使とファインダーがいるだけだ。
「知らないわ」
咄嗟に、そう答えていた。
「仲間だったんですね?」
信長、秀吉、家康、彼らのことを問いたださなければならない。
「仲間じゃないよ。暴走すれば、敵と同じだ」
彼の声が、冷淡に感じた。
「きみは、知りすぎた」
「わたしたちを消すつもりですか?」
「一番、都合のいいシナリオは、こうだ。爆弾を仕掛けたのはきみたちで、中村吉彦を殺害したのも、きみだ。逮捕をするのは捜査一課で、われわれ公安は一切、関知していない。もちろん、例の三人も存在しなかった」
「ディレクターの里崎さんと、山田一郎はどうなったの?」
「安心してくれ。彼らは、さっき保護した。監禁されていたよ、ヤツらの隠れ家で。それぞれ一年半も閉じ込められていたから、かなり衰弱していたが」
そう、とわたしは静かに相槌をうった。
「残念な知らせもある。二人の誘拐と監禁も、きみたちにかぶってもらう。まあ、主犯は坂下久美子ということにしておけば、きみの罪も少しは軽くなるだろう」
公安刑事は、そこで笑みを浮かべた。
「悪く思わないでくれ。これでも妥協しているんだ。本当なら、殺さなきゃならない。それを生かしておいてあげるんだから」
その恩きせがましい言葉に、とてつもなく腹が立った。
「そんなこわい顔するなよ。いくらきみが無実を訴えてもムダだ。証拠はすべて、われわれが捏造する。裁判でなにを言っても、有罪は覆らない。裁判官も、こちらの息のかかった人間が担当するからね」
すると、スーツのなかに手を入れた。腋に吊ってあったと思われる拳銃を取り出していた。
「それとも、死を選ぶ?」
まるで、食べたい料理を選ばせているような軽い口調だった。
銃口が、何気なくこちらを向いている。
「犯罪者として生きるのがいやなら、それでもかまわない」
「野外音楽堂──」
わたしは、覚えたばかりのセリフを言いはじめた。
「ん?」
「C9列8番」
「なにを言っている?」
「座席の下を調べて」
「そこに、なにがある?」
「あなたたちが熱望してるもの」
公安刑事は、なんのことか想像できないようだった。
「Cファイルよ」
「Cファイル!?」
本心からの驚きが、よく伝わってきた。
「あ、あったのか!? 世界に潜むテロリストや組織の潜伏先、逃走ルート……金の流れなどが記されているという……まさか、本当に実在するのか!?」
彼が、背後に控えていた部下に指示を出す。その部下は自身の襟元に向かって、なにかをしゃべりはじめた。インカムで遠くにいる仲間と連絡をとっているんだ。この位置から野外音楽堂までは、歩いて七、八分といったところだろうか。付近に配備していた場合、すぐに確認できるはず。
それでも、一五分ほどが経過した。
連絡をとった部下が、彼に耳打ちした。
本物……公安刑事のそんなつぶやきが聞こえた。
「CIA、SIS、ドイツのBND、イタリアのSISMI、オランダのAIVD、ロシアのSVR、そしてモサド……世界各国の情報部が、喉から手が出るほど欲しているというあれが……」
どこか、呆然とした声だった。
「使い方は、あなたたちの自由。だけど、わたしたちに危害を加えたら、ある情報が各テロ組織に送られることになる」
「?」
「すべてのリーク元は、警視庁公安部……と」
「なに!?」
それがなにを意味するのか、わたしにはわからなかった。
「なんだと……!? おまえ、それがどういうことなのか、わかって言ってるのか!?」
彼の語調が、あからさまに変わった。
わたしは、答えなかった。というより、わからないんだから。
「もし、どこかの国でテロリストが検挙されたとして、その情報がうちから流れたものだということになってしまったら……そのテロリストが所属する組織は、まちがいなく、うちを標的にする……」
なるほど。そうやっていけば、しまいには世界中のテロ集団が、公安を目の敵にするようになる、ということね。
それが、わたしにかけられる保険。
公安刑事が、拳銃をしまった。
「取引に乗ろう」
「あなたたちは、そのファイルをどう使うつもり?」
「うまく使うさ。もちろん、テロリストたちを一網打尽にするなんて偽善を言うつもりはない。外交のカードにする。各国に小出しに情報をあたえ、見返りとして、わが国の利益に結びつける。フ、これからは外務省ではなく、われわれが外交を仕切れることになる」
「ずいぶん、正直に話すんですね」
「きみの存在も、われわれの武器の一つだ」
「だれが、あなたのために働くもんですか」
「この国のためだ」
「それが、偽善です」
彼は、声を上げて笑いはじめた。
「ハハハ! やはり、私が見込んだだけのことはある」
「見込まれてたんですか?」
「そうだ。また会おう」
「あなたのこと、なんて呼べば?」
「好きに名前をつけてくれ」
本名を言うことはないだろうとあきらめていたけど、偽名やあだ名すら口にするつもりはないようだ。
なら、好きにつけさせてもらおう。
偽善、偽名……なんだか『偽』という字を使いたい。
「偽太夫」
わたしは、自信をもって告げた。
「いいだろう」
彼は嫌がることなく、満足そうに答えた。そして、部下たちを引き連れて去っていく。
全員が見えなくなると、公園内には人の姿が戻っていた。