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プロローグ
わたしは、数人のストーカーにつきまとわれている。
三人……いや、四人か。
彼らにつきまとわれてから、もう四年。いまも、後ろからついてきてるのがわかる。
自宅へ帰るための夜道。ほかに人けはない。
わたしはチラッと振り返って、その存在を確認した。
三メートルほど離れたところに、キモオタがいた。おかっぱみたいな髪で、猫背。いつも同じようなトレーナーを着ている。
といっても暗闇だから、いまはそこまで見えない。明るいところでもよく見かけるから、そう断言できるだけ。
『キモオタ』という呼び方は、わたしが名付けた。その名のとおりオタクっぽくて、気持ち悪そうだったから。本当の名は知らない。知る必要もない。
……でもその感想は、出会った当初の思いにすぎない。いまでは少しちがう。
「ちょっと!」
わたしはキモオタに、声をかけた。
「は、はい……イオさん」
突然の呼びかけに、うろたえたようだ。
わたしは、キモオタめがけて近づいていった。
「そういえば、紅茶をきらしちゃってた。買ってきて」
わたしは、ぶっきらぼうに命令した。
「わ、わかりました!」
「わたしの好きなメーカーは、知ってるでしょ?」
「も、もちろんであります!」
わたしと会話できた喜びを噛みしめて、キモオタは闇夜のなかに消えていった。これから、夜でもやってるスーパーか、コンビニにでも行って、命令どおりの品を調達してくるはずだ。
最近のあいつのあだ名は、こう。
『召使』──。
〈カシャッ〉
そのとき、フラッシュの光が、わたしの眼に差し込んだ。
写真を撮られたみたい。
わたしは、フラッシュの方向に睨みをきかせた。
二〇メートルぐらい離れた電柱に隠れて、盗撮魔がカメラをかまえていた。街灯の明るさで、そこだけ闇夜に浮かび上がっている。
背が低くてボサボサの頭。デニム製のベスト(大むかしの刑事ドラマに出てくるようなダサいやつ)をまとい、額にバンダナを巻いている。顔はよくわからない。いまが夜だからではなくて、昼間でもシッカリと見たことがないのだ。バンダナのほうが目立っちゃってるというのもあるけど、召使とちがって、わたしには必要以上に近づいてこないから。
いまぐらいの距離から、いつもわたしのことをカメラで狙っている。
「イオさん、買ってきました!」
わたしは思いがけず、心臓が破裂しそうになった。召使がビニール袋をさげて、わたしの背後から声をかけたのだ。
「もう買ってきたの!?」
さすがに速すぎる。たぶん、わたしが紅茶を切らしていたことを知っていて、あらかじめ買ってあったのかもしれない。こいつなら、それぐらいの情報を仕入れるのは簡単だ。
なぜなら、わたしよりも、わたしのことをよく知っているから。
「あ、彼が呼んでます」
召使に言われて、わたしも気がついた。
盗撮魔が、手招きしていた。
ちなみに『盗撮魔』というのも、わたしがつけたあいつの名前。たまに『ジーベス』(あのベストから)とも呼んでるけど。
「わたしに来いっていうの!?」
ふざけるな、っての。
「生意気! 召使、あんたが行ってきて」
わたしの命令は絶対だから、召使は盗撮魔のところ──電柱の陰に向かっていった。すぐに帰ってくると、召使は一枚の写真をわたしに差し出した。
わたしは街灯の下に移動して、その写真を見た。
そこに写っていたのは、今朝、出勤しているときのわたしだ。
自分で言うのもなんだけど、正直、美人だった。
タレ眼がちだが、パッチリとしていて、大きい瞳。口は小さく、上品に見える。全体的に洋風顔だけど、その最大要因は、鼻の高さの絶妙バランス。これ以上高いと、アクが強すぎて「濃厚クォーター顔」になっちゃう。逆に低いと、特徴が薄い和風顔になりさがっているだろう。
右眼下の泣き黒子が、白い肌にはえていた。
隠し撮りだとは信じられない。表情をちゃんと切り取っている。
どうしてだろう? なんてまぶしい笑顔なんだろう。
あのころの……スポットライトを浴びていた華やかな過去を思い出す。あのころは、こんな表情をよくしていた。
ちがうか。
あのころの笑顔は、創られたものだったっけ……。
まあいいや、そんなこと。
わたしは、撮影の主に眼をやった。やっぱり電柱に隠れて、カメラをかまえている。
『盗撮魔』は、キモオタ同様、出会ったころのあだ名にすぎない。いまはあいつのことを『ファインダー』と呼ぶことが多い。
召使。ファインダー。
そして三人目が……。
わたしは、暗い夜道のさきに視線を移した。
そいつのことは、『シャドウ』と呼んでいる。
直接本人を見たことはない。わたしだけでなく、召使もファインダーも、その姿を知らない。だれもコンタクトをとったことがないのだ。
そんな人間はいないんじゃないか、と疑問に感じるかもしれないけど、シャドウは確実に存在している。
それはわかる。いままでに、その影だけは眼にしているから。
だから『シャドウ』。
彼の存在に気がついたのは、二年ほど前からだっけ?
召使たちにつかれた(憑かれた)よりは、ずっとあとのこと。でも正確な時期は覚えていない。いつのまにか、影を感じるようになっていた。
いつもわたしを、まさしく影から見守っていてくれる。
召使にしても、ファインダーにしても、なぜだかストーカーなのに、嫌いにはなれなかった。それは、四年間で築き上げた情のようなものだろうか。
だれも、わたしに敵意を抱いていない。
わたしのことが好きなんだから、それは当然なんだろうけど、ニュースで報じられるストーカー像を見るかぎり、そうでない人間も多いようだ。愛しすぎて憎しみに変わる、みたいな。わがものにして、わたしの自由を奪おうとする不届き者がいないことは、わたしにとって幸運なことかもしれない。
そのなかでも、シャドウからは、とくにあたたかいものを感じるのはなんでだろう。
わたしは、そこにいるかどうかもわからない彼に向かって、声をかけそうになった。やめておいた。そこには、ただ暗闇が広がっているだけかもしれないから。
わたしは、また歩きだす。
召使がついてくる足音が伝わる。ファインダーもまちがいなくついてくるだろう。きっと、シャドウも。
闇夜でも怖くないのは、こいつらがいるからか。
三人──。わたしは、四人かもしれないと言った。
最後の四人目。
わたしは、それのことを『インビジブル』と名付けている。
彼、ですらない可能性がある。だから、それ、と表現させてもらう。
それだけは、本当にいるのかどうかもわかっていない。影すらも見たことがない。召使に聞いても、そんなものは知らないという。ファインダーにも召使経由で質問したけど、やはり答えは同じだった。
だけど、わたしは微かな気配を察知したことがある。
いえ、それすら気のせいかも……。
その四人……三人が、わたしにつきまとっているストーカーだ。
ただの一般人が、そんなに多くつきまとわれるわけはない、って思うでしょ?
そう。わたしは、ただの一般人じゃないから。……いいえ、なかった。
名前は、大沢衣央。
これでも、一年半前までは芸能人だった。
芸名は、衣央をカタカナにして『イオ』。
女子大生四人組で、アイドルグループを結成していた。
『パレット』というグループ名だ。人気はそこそこ。水着で雑誌のグラビアを飾ったこともあるし、CDも二枚出した。オリコンチャートの最高順位は、三六位だったかな。微妙。
大学卒業を機に、グループは解散した。
四人のうち芸能界に残ったのは二人だけ。しかも、ちゃんと第一線で活躍しているのは一人しかいない。業界にとどまったもう一人は、もはや深夜の通販番組か、MXでしか見かけない。
わたしもふくめて残りの二名は、タレントを廃業。でも一人は、アナウンサーを目指して活動していたはずだっけ。たしか、インターネットのお天気サイトでリポーターをやってるって話だった。
つまり、まったくのカタギになったのは、わたしだけ。
いまでは、あのストーカーたちだけが、わたしの華やかな過去の面影。
せつない。
でも四人のなかで一番美人だったのは、わたしなのにな……。
どうでもいいか、いまさらそんなこと。
わたしは、家路を急いだ。
つまらない一日が終わり、そしてまた、退屈な一般人としての朝が来る──。
1
◇10月7日午前8時47分◇
いまは、普通のOL。会社は、代官山にある。店舗の内装やインテリア、レイアウトをデザインする新興の企業だ。『ツクダニーズデザイン』という社名で、その名前から「ツクダニ」と略称されている。
ひときわ見栄えのする七階建てビルの二階から五階が、うちの会社。その上は、どこかの通販会社が入っていて、一階は共通の玄関ホールになっている。全体ガラス張りのホールをくぐると、なんだか気持ちも引き締まってくるようだ。
わたしの部署は営業部で、三階にある。営業部は五課に分かれていて、わたしが所属するのは第四課。フロアは課ごとにパーテーションで区切られているので、ほかの課の様子はよくわからないけど、四課のオフィスは居心地が悪いぐらいに洗練されている。ありきたりな表現をすれば、とってもオシャレ。さすがに、インテリアデザインの会社だけのことはある。
「おはようございます」
「おはようございます」
こちらからも、むこうからも、隙間なく挨拶が飛び交うのが朝の恒例行事。まだ眠いのに、この挨拶だけで体力が削られていくようだ。
眼についた人全員との挨拶が終了すると、やっと自分の席につける。社員の女性率は、すごく高い。しかもオシャレ感をとても大切にしている会社だから、きれいな人が多い。もちろん求人要項には、そんなこと書かれていない。だけど、容姿も採用の基準に入っていることはまちがいないはず。
あまり多くない男性社員も、イケメンぞろいだった。
「あ、イオさん、課長が呼んでましたよ」
その、ムダに顔のいい男性社員の一人、山田一郎が声をかけてきた。顔のよさのわりに名前の平凡ぶりが、いたたまれなくなる。
わたしは座ったばかりだというのに、席を立った。
「さきに励ましておきますけど、気にしないでいきましょう」
山田は言った。課長から、わたしが叱られると信じているようだ。
わたしは愛想笑いを返して、課長のもとに急いだ。
本当に、叱られた。
「キミのこの書類、まちがいだらけ。三〇分以内に修正して」
朝からこれだ。帰りたくなる。
課長は、三〇代後半のやはりイケメンで、オジサン臭を極限まで消し去っている。さわやかで、独身。女性社員からの人気も高い。
中途の転職組で、ここに入ったのは、わたしが就職した半年ぐらい前らしい。年齢と実力のわりに、まだ課長なのはそのため。海外が長くて、外国語がペラペラ。何語かわからない言葉で、流暢に電話しているのをよく耳にする。それを聞いているときは、素直にカッコいいと思う。
でも、おかしなこともある。わたしでも知ってるような英文を知らなかったことがあるんだけど……。わたしが不思議そうな顔をしていたら、英語は苦手なんだ、って言ってた……。どういうこと?
キレ者で、上層部からも部下からも信頼があつい。もうすぐ部長に昇進する、という噂もある。わたしにとっては、眼の上のタンコブでしかないんだけど。
「それと──」
わたしが戻ろうとしたら、話を続けやがった。
「昨日、クライアントから苦情があったぞ。まあ、デザインに関してだから、キミのせいというわけじゃないようだが……。だが担当になったからには、ちゃんとフォローしておいてもらいたい」
「わかりました。午後にでもたずねてみます」
ほかの女性社員には、やさしく接するくせに……このタンコブ、わたしにだけキツく当たる。
理由はわかってる。わたしが落ちこぼれだからだ。顔だけしか取り柄がない、と思われてるんだ。
ルックスだけなら、ここのレベルの高さのなかでも、一番をはれるだけの自信がある。でも、結局はそれだけ。
きれいな顔と、元アイドルだったという過去だけが、いまの自分をささえている。
でもここは、芸能界じゃない。
たしかに営業でも、それは役に立つ。相手が男性だったら、ほぼ美人には弱い。ゲイじゃなければ、ね。
むかしのわたしを知っていたり、ファンだったりした人となら、有利に交渉も進められる。だけど、そんなことを武器にしている女なんて、世間では認めてくれない。
タレントのときとは、価値観を変えなければならない。
それが、わたしにとっての、社会人になるということ。
まわりの女子たちが、心のなかで嘲笑しているのはわかってる。
芸能界でもダメで、こっちの世界でも使えない。
ここに入れたのも、コネだ。パレット時代に、この会社の雑誌広告に使ってもらっていた縁から、就職できた。
メンズからは、同情されている。
山田なんて、あからさまに、そんな瞳を向けてくる。わたしのファンだったみたい。一年先輩なだけなんだけど、いまではわたしの保護者きどり。入社当初は、もっと口数も少なくて、おとなしい印象だったみたいだけど、わたしが入ってからは、よくしゃべるようになったって。そんなに嬉しかったか、わたしが同僚になって。
「お昼休み、いっしょにとりませんか?」
ほら。
「ごめんなさい、クライアントのところに行かなきゃならないので……」
そう断ると、わたしは書類の修正に専念した。山田の顔は見ないようにした。用事がなくても断っていただろうから、どこか後ろめたかったのだ。
◇10月7日午後1時32分◇
昼食を外でとったあと、そのままクライアントのところへ向かった。電話でオファーをとったところ、店舗の運営会社ではなく、オーナーの自宅に来てくれということだった。
場所は、中目黒にある高級マンションだ。
念のため、課長にも連絡を入れた。
『自宅?』
「はい、いまついたんですけど」
『ダメだ、やめておきなさい!』
課長の声が、強く言った。
『そこは、どういうところだ!?』
「え? マンションです。高そうな」
『いいから、帰ってこい!』
「大丈夫ですって。ヘマはしません」
わたしは、そう応えると携帯を切った。
なに慌ててたんだろう。課長がフォローしとけって言ったのに。
どうせ、また失敗すると思って気が変わったんだ。
かまわずに、わたしはマンションに入っていった。高級なので、当然のごとくオートロックが待ち構えていた。教えられていた番号を押していく。すぐに応答があった。モニターにも、クライアントの顔が映し出された。
『わざわざすまんね、こんなところまで。まあ、入ってくれよ』
脂ぎったヒゲづらの成り金オヤジだった。
名前は、中村吉彦といったはずだ。実際に会うのは初めてになる。むこうは、わたしのことをタレント時代から知っているようで、わたしが担当になるんだったら、と契約を結んでくれたようだ。
クレームということだったはずだけど、意外に機嫌はよさそう。事前の電話では、秘書らしき人が応答していたので、オーナーの声は聞いていないのだ。っていうか、声を聞いたのも初めて。
わたしは、ホッとして部屋へと向かった。
◇10月7日午後1時40分◇
インターフォンを押しても、反応がなかった。
どうしたんだろう? わたしは、三〇秒ほど待って再び押してみた。やっぱり、応答はない。
なにか、手の放せない用事でもできたのだろうか。
自由に入っててかまわない、ということかもしれない。そういう思いから、ノブを回してみた。鍵はかかっていなかった。
「……おじゃましま~す」
わたしは、玄関に入った。
靴は、すべて仕舞われていた。本人しかいないようだ。ヒールを脱ぐと、わたしは廊下を進んでいく。
広い家だった。いまの自分の部屋より、何倍の面積があるだろうか。現役時代は、それなりのマンションに住んでいたけど、これほどじゃない。
応接室と思われる部屋への扉が開いていた。
わたしは、遠慮なくそこへ向かった。
ソファに座る男性の後ろ姿があった。
なんだ、普通にいるじゃない。
「あの……ツクダの大沢ですけど……」
そのとき、携帯が鳴り出した。軽快なメロディー。パレット時代の曲だ。表示を見た。課長からだった。
「もしもし?」
『いまどこだ!?』
「部屋です、クライアントの」
『バカ! はやく出ろ。そんなこともわからないのか!』
「大丈夫ですって。いま眼の前にいますし」
『いいから──』
わたしは、切った。
だいぶ、焦っていたようだけど……。
もしかして、わたしのことを心配してるの? 仕事的なことじゃなくて……。
そんなことないか。
「あの……、どうかされたんですか?」
わたしは、クライアントの肩をさわった。
こういう光景を見たことがある、と直感した。
二時間サスペンスで、このあとのシーンはきまっている。
クライアントの身体が、崩れた。
倒れた男性の顔が、こちらを向いた。まるで些細な悪ふざけのような青白い顔色。表情がない。一目で死んでいることがわかる。胴体から、おびただしい血流。それが、フローリングを汚していた。
反射的に、胃液が逆流していた。
なんとか、吐くことをこらえた。
わたしは、何歩か後ずさりした。正確な歩数は、数えられなかった。
悲鳴が喉をつく。
いいえ、それすらもわからない。
声は出ていなかったかも知れない……。