春の受難
「私……春君のことが好きなのぉ! だ、だから、わわ、私と……付き合ってくださいぃ……」
放課後の屋上。
緋の色の斜陽。
彼女は顔を真っ赤にさせて、うるうると潤んだ目を眼前の彼に向けた。
眼前の彼は困惑したように目を泳がせた。熱っぽい彼女の視線が肌で感じ取れる。冷や汗。彼は気まずそうに後頭部をかいた。
彼のズボンのポケットには一通の手紙が入っていた。通学路沿いの川の水面に鳥が滑空しているのに興をそそられ、呆けたように春鳥を眺め、それを同級生に笑われ、いつものように下駄箱で靴を脱いだ。下駄箱の中にはピンク色をした手紙が秘し隠されてあった。
息を呑んだ彼は、便意もないのにトイレの一室に駆け込んだ。
鉄柵が張り巡らされている。錆び付いていて、指の腹でこすると灰のようなものがつく。そうして無聊を慰めている。しかし、視線は絶えず鉄扉の方に向いている。
太陽が西に沈み、夕闇が濃く立ち込めている。
ふいに、音を拾った。金属が擦れるような音だ。彼の耳が扉を開く音を拾った。
鮮やかな夕日が人形のように整った女の顔に照らされる。
思わず息を呑んだ。
「私ね、私ね、ずっと、春君のことが好きで好きで……すっごい好きで、ずーっと見てたの。見てたの、見てたの、すっごく見てたの。穴が開くほど見てたの」
女の唇が美しい言語を形成する。
「僕に目をつけるあたり、おまえの目は節穴なんじゃないのか」
「節穴なのは他の女子たちだよ。その点私たちは運命の赤い糸で結ばれてるの、春君は私だけの王子様なの」
「これは……重症だな。王子様が接吻しても目覚めないパターンのやつだ。七人の小人も手を焼くパターンのやつだ」
「あのね、私ね、春君のこと好きすぎて、頭おかしくなっちゃったのかな。こっそり春君の部屋に忍び込んだり、ゴミ箱を漁ったりしてたの。コンビニ弁当ばかりだから肉がつかないんだよ。私が作ってあげるよ、いっぱい、いっぱい、精のつくもの、作ってあげるよ」
「机の位置が微妙に動いていたのもおまえの仕業か」
「そうだよ!」
彼女は花開いたようにニコニコと笑い、彼に向けてピースした。
いかれてやがる、と頭を抱えた彼は、一見して清楚な顔かたちが、ただの張りぼてであることを理解した。しゃべらなければいい女なのに、しゃべったとたん化けの皮がはがれる。
「残念だけど、過去おまえを恋愛対象としてみたことはない」
「うそでしょ」
「うそじゃない」
「うそは体に悪いよ」
「うそじゃない」
「うそは心に悪いよ」
「うそじゃない」
「私にはわかるよ、春君の心の叫びが分かるよ、心にもないことを言って、心が悲鳴を上げてるよ、悲しいうそをつくのはやめて、その病んだ心を早く癒してあげて、目の前の女の子を抱きしめて、自分に素直な気持ちになって」
さあ、と彼女は両手を広げた。
「……仮に人類が滅びておまえと二人っきりになったとしても、おまえを抱きしめることだけはしないよ」
「アダムとイブってこと?」
「仮定の話だよ。仮定の話で地球が滅んでたまるか」
「いっそそうなったらいいのにね。そうなれば、みんな幸せになれるのに……」
「人殺しかよ、おまえは。頭の中お花畑かよ。開墾済みかよ」
「二人だけの世界って憧れるなぁ、住みたいなぁ、ずっと春君の顔だけ見て生活したい、春君を独占したい、だったら、私たち以外の人間が滅べばいいんだよ。さすが春君、名案だね」
当の本人は名案とは思っていない論理。
「とにかく、僕は帰る。ゴーホームだ。おまえの妄言にはもう飽き飽きした」
「飽きたって、私に飽きたの? 将来結婚を誓った仲なのに? おまえは最高の女だって言ってくれたじゃん!」
「それはおまえの脳内活劇でのことだ」
彼は踵を返した。彼女に背中を向ける。
あぁ……と彼女は悲しみのあまり涙腺が緩みかけていた。その場にくず折れ、幼子のように泣きはらした。
「やだよぉ、拒絶しないでよぉ、嫌いにならないでよぉ、私、春君のことが好きなだけなのに、愛してるだけなのに、なんで私を無視するのぉ。無視はいやだよぉ、無視されたくないよぉ、ずっと私の相手をしてよぉ、私だけを見てよぉ……」
さめざめと紅涙を絞る彼女は、湿りを帯びた視界の中に彼の姿を見出した。
彼はすたすたと彼女の元に歩み寄った。
「ほら、何やってんだよ。帰るよ」
彼は泣き崩れる彼女に手を差し伸べた。
ぱちぱちと瞬きを繰り返す彼女。
彼は照れたように頬をかいた。
「やっぱり、おまえのこと放っておけないよ。これでも長い付き合いだろ、僕たちは」
「……うぅ、ありがとぉ」
彼女は彼の手を掴んだ。なんてことないように彼女を引っ張る。
「さて、帰るかね」
「うん……」
二人は肩を並べて階段を下り、教室で各々のかばんを取りに行った。
すると、そこにはバスケ部の格好をした少年がいた。
バスケ部の少年を見て、彼は不思議そうに問うた。
「なんだ、部活は六時で切り上げか」
すると、バスケの部の少年は自嘲するような唇を歪めた。
「もうすぐ定期考査だからよぉー、どの部活も六時で終わりだぜ。ったく、ヤだなぁ、勉強なんてのは」
「勉強よりもゴールにボール突っ込むほうが楽しいもんな」
「そうなんだけどさ、それを知ってか、ゴールにボール突っ込むよりも英単語を頭に詰め込めって監督がうるせぇーんだ」
バスケ部の少年は盛大なため息をついた。
「部活動生は大変だね」
「帰宅部は楽そうでうらやましいぜ」
彼は小さく笑ったようだ。
しばらく話し込んでいると、彼女が彼の教室に入ってきた。彼女は彼とは別の学年だった。
「ん、かばんは?」
彼女は火照った顔を隠すように俯き、かばんを彼の前に掲げた。
「そっか」
彼は優しい目を彼女に向けた。教室を出ようとして、彼女もそれに続く。
それを見たバスケ部の少年は何気ない風に言った。
「ったく、気持ち悪いくらい仲のいい兄妹だな、おまえら」