女の戦い … 5
小姓のラッティ少年につれられて、ふたたびモナは迷路のような王宮の廊下を歩いた。
南翼の表側に近づくにつれ、廊下の照明は明るくなり、人の気配も増えてくる。廊下をゆきかう人のほとんどは、今夜の舞踏会に出席する貴族たちがつれてきた召使だ。彼らは、主が宴の前に小腹を満たせるように酒肴を運んだり、知り合い同士の控室のあいだの連絡に走ったりしなければならず、いまが一番忙しい。
ざわめきのなかを歩きながら、モナとラッティは雑談を楽しんだ。
二人は旧知の仲だが、いまでは働く場所も立場もちがう。親しき仲にも礼儀ありだよなあと思いながら、ラッティ少年は話をしていた。
モナは昔も可愛いお姫様だったけれど、最近はそれに大人っぽさが加わって、とても印象的な美しい女性になったとラッティは感じている。この時代の女性の18という年齢は、女盛りのはじまりだ。とくに、貴族の世界では結婚適齢期のど真ん中にあたり、夜の宴ではどの令嬢も、なめらかな肩や、ふくよかな胸をアピールする装いで、初々しい色気を振りまくようになる。
今夜のモナの装いも、胸元が大きく開いた舞踏会用のドレスだ。
まだ外見は少年そのもののぼくに対して、モナ様は警戒心なんか欠片もお持ちじゃないようだけれど、ぼくだって立派な男なんだから、目のやり場にこまるよと思うラッティである。
男としての好奇心に満ちた眼でモナを見てしまう自分がどうにも嫌で、ラッティはついつい、辛辣なことを言ってしまう。
「モナ様。さきほどはなんとかごまかせましたけれど、人前であまりうかつなことを口にして、殿下をこまらせるようなことはなさらないでくださいね」
モナは手にした扇を所在なさげにもてあそびながら、気のない返事をする。
「あの程度でも、だめ?」
「だめに決まっているでしょう! なんですか、あれ!」
「なんなら相手から喧嘩をふっかけてくるようにしむけて、上手に足をすくってさしあげるわよ――と、言っただけじゃない」
ラッティは指先でこめかみをおさえた。
「清純なお姫さまは、そんなこと言いません」
「わたしは清純なお姫さまじゃないもの」と、モナは笑った。
「清純なお姫さまには、宮廷生活なんかできないわよ。
そのいい例が、王太子妃殿下じゃなくて?
大国イストニアの王女に生まれて蝶よ花よと大切に育てられたアディージャ姫は、国同士の政略で結婚させられたおかげで、すっかり心を病んでしまわれたわ。
アディージャ様がお部屋に引きこもって暮らしておいでになるのは、外の世界が怖いからだと、わたしは思うのよ。
いきなり異国の宮廷生活に放り出されて、誰を信じたらいいのかもわからない状態で、アディージャ様は途方にくれたでしょうね。
そのころはまだ、エレーナ王妃陛下も王宮においでではなかったから、アディージャ様が女性王族としてなにをなすべきなのか、教えてくださる方もなかったし。夫の王太子殿下も、よい導き手とは言えないしね」
ラッティは背筋に冷たい汗を感じて、立ちどまった。
「モナ様、それは王室への批判です。リアン様に敵対する誰かに聞かれでもしたら、まずいことに」
モナは立ち止まることなく、先へ進む。薄絹を重ねたドレスは、彼女の歩みにあわせて優雅な衣擦れの音を立てた。
「だから、あなた相手に愚痴ってるんじゃないの」
追い越し際、モナは扇の先で、意味ありげにラッティの肩をたたいた。
「さっき、あなたは、わたしの人間関係の調整も手伝ってくれると言ったわよね?
なら、覚えておいて。
リアンの敵は、わたしにとっても敵なの。
リアンに害をなそうとするやつは、誰だろうと許さない。
必要なら、あらゆる手をつくして、追いこんで――」
「モナ様……!」
動けなくなったラッティは、おびえた瞳でモナを見あげた。
モナは広げた扇の陰で笑っている。
ラッティは見てしまったのだ。扇が広げられる瞬間、モナの唇は音を出さずに動いていた。その唇の動きは、まちがいなく『殺してやる』という危険な言葉を紡いでいた。
「どう? わたしの扇の使い方。
これって、貴婦人の社交には便利な道具よね。
だから、鏡の前でずいぶん、使い方を研究したのよ」
ふざけた口調にもどったモナは、何事もなかったかのように笑っている。今日のモナは娘らしく耳元の髪だけを髪飾りでまとめて、柔らかなカールを作った後ろの髪を背中にたらしていた。おかげで彼女の笑顔は、春の優しい日差しのように見える。
でも、この方には綺麗事だけでは済まされない、醜い世界で生きていく覚悟がおありになるのだと、ラッティは思った。きっと、この方は、王子を守るためなら何でもするだろう。
王子のほうは、国を守らなければならない立場だから、モナ様を一番大切にできないこともあるにちがいない。
そんなことは百も承知で、モナ様は最愛の人のためだけに生きるのだ。なんと激しい、愛情だろうか。
「ひとつ、いいことを教えてさしあげますよ」
ふたたび歩きだしながら、ラッティは言った。
「今夜、リアン様が舞踏会に聖衣でご出席なさるのは、モナ様へ誠の証しを示したいからです」
「あら、どういうこと?」
「リアン様は王子として王都へもどられてから、一度だって舞踏会でご婦人と踊られたことがありませんでした。『踊る神官なんて滑稽なだけだ』というのが殿下の言い分ですが、本音はちがうところにあります。この国の王子が誰かと踊れば他の者にも公平にしなければなりませんから、殿下は宴のあいだじゅう踊っていなければならなくなるでしょう? それじゃあ、仕事になりませんよ」
モナは、くすくす笑う。
「ローレリアン王子殿下は、お仕事が大好きですものね」
「ですから、今年の春の建国節で王子殿下がモナ様と踊られたのは、異例中の異例でした。
あのダンスで宮廷人たちはみな、モナ様がローレリアン王子殿下にとっての特別な人だと、知ることになったんです。
殿下は、これからも何かひとつくらいは、モナ様だけにしかしない『特別』を残しておきたいみたいですよ。
だから今夜も、お見合い相手の王女方と踊らなくて済むように、あのお姿なんです。
殿下は生涯、モナ様以外の女性と踊られることはないでしょう」
ラッティがモナの様子をうかがうと、彼女は赤らめた頬を両手でおさえて、可愛らしく照れていた。たたんだ扇は無造作に握られ、妖艶な女を演じる小道具としての役目を果たさなくなっている。
こっそりラッティは、安堵のため息をついた。
ローレリアン様は、このモナ様の無邪気さを守るために、きっと全力をつくされるだろう。モナ様の明るい笑顔には、あらゆる人を幸せにできる不思議な力があるから。
うらやましいなと、思った。
自分もいつの日か、モナ様とリアン様のように、生涯ただ一人の大切な相手として思いあえる人と、巡り会えるのだろうか。
「さあ、あちらのお部屋がヴィダリア侯爵家の女性に割り当てられている控室になります」
階段を登って廊下の角を曲がり、最初の部屋の扉を指し示して、ラッティは「おや?」と首をかしげた。扉は開け放たれており、部屋の内部からは大勢の人の声が聞こえている。
「なにがあったの?」
控室へかけこもうとするモナを、ラッティが止める。
「状況が確認できるまでは、部屋のなかにはお入りにならないでください」
モナを廊下に待たせて開かれた扉に近づきながら、ラッティは深呼吸をくりかえし、落ち着けと自分に言い聞かせた。
近衛護衛隊士を一人でも、アレン隊長から借りてくるべきだったかと後悔する。モナ様は剣の使い手だし、ここは王宮の中なのだから、そうそう身の危険はあるまいと思ったのだが。
部屋の中央には人だかりができており、その中心にいたのはモナの義姉であるファシエル・パルデール卿夫人アンナだった。ぐったりと寝椅子に身をあずけている彼女の顔色は、ひどく悪い。
「それでは、2、3、わたくしの質問にお答えください」
夫人の前にひざまずいて、脈を取りながら問診をしている初老の男には見覚えがあった。宮廷医のアンク・シジェムである。
シジェム医師の質問にぼそぼそと答えながら、パルデール卿夫人はハンカチで口元をおさえ、こみあげてくる吐き気と闘っているように見えた。
まさか、飲食物に毒でも?
全身に冷水を浴びせられたような感覚がわきおこり、ラッティは寒気を覚えた。
ヴィダリア侯爵家の控室に置く軽食や飲み物の手配をしたのは、ラッティなのた。用心に越したことはあるまいと、飲食物はすべて黒の宮の調理場で信用のおける料理人に作らせたものを、毒見まで済ませて持ちこんだはずなのに。
モナ様の義姉君様に、万一のことがあったらどうしよう?
どう責任を取ればいいのか、見当もつかない。
被害にあわれたのがモナ様でなかったのは、不幸中の幸いだけれども……!
まだリアン様との婚約は正式発表になっていないのに、モナ様が狙われるなんて!
やっぱり、ローザニアの聖王子の御妃という立場は、人殺しをしてでも手に入れたい魅力的な地位なんだ。
「ラッティ?」
モナが心配そうに、ラッティの肩へ触れてきた。
「す、すみません……!」
目にいっぱい涙をためて、ラッティは震えた。
頭の中では、言葉の嵐が吹き荒れている。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――と。
「あなた、大丈夫?」とモナが言った瞬間、部屋のなかでシジェム医師が朗々と診断を告げた。
「おめでとうございます、パルデール卿。奥方様の御懐妊は、ほぼまちがいなかろうと、お見立て申し上げます」
ヴィダリア侯爵家の控室に集まっていた人々は、「おお!」と喜びの声をあげた。現侯爵の長男であるファシエル・パルデール卿のもとに生まれる子供は、ヴィダリア侯爵家の跡取りである。
「でかしたぞ、アンナ!」
飛びつくような勢いで、モナの長兄ファシエルが妻を抱きしめた。
これでやっと、ことの真相がわかったと、モナがうなずく。ここの近辺の部屋は、どれも女性用の控室だ。部屋のドアは、アンナ夫人の不調の知らせで集まってきた男たちが、女性の部屋のなかで悪さをしているわけではありませんと、証明するために開け放たれていたのだ。
「あらあら、お兄様ったら、嬉しそうだこと」
泣かなくていいのよと、ラッティの頭をなでながらモナは笑う。
神経質そうな細面の顔をいつも不機嫌にゆがめている兄が手放しで喜んでいる姿を見るのは、妹としても、やはり嬉しいのである。
「ファシエルお兄様とアンナお義姉様のあいだには、一時期、冷ややかな空気があったのだけれど。
王都大火のおりに、アンナお義姉様が侯爵家の女主人として、いろいろがんばってくださったものだから、お兄様も惚れ直しちゃったみたいなのよね。
やっぱり、愛のある夫婦関係って素敵!」
ひどく驚いたせいで気が遠くなりかかっていたラッティは、半べそで訴えた。
「おめでたいのは大変結構ですけれども、パルデール卿夫人は舞踏会へ出られる体調には見えませんよ?
モナ様の後見役は、どなたがなさるのですか?」
「あらまあ、ほんと」
間の抜けた声をあげたモナは、肩をすくめ。
「ねえ。もう面倒くさくなっちゃったから、わたしも、お義姉様といっしょに帰っちゃだめ?」
「だめに決まっているでしょう! ああっ、どうしよう! どうしたらいいんだよぉ!」
ラッティは赤くなったり青くなったりしながら、地団駄を踏んだ。
ローザニアの聖王子の妃の地位を得た女性は、世界中の若い女たちから羨望のまなざしで見られる。
その地位を目の前でみごとにさらわれてしまった他国の王女殿下たちなどは、きっと嫌味のひとつでも言ってやろうと、舞踏会へ出てくるモナを待ち構えているにちがいなかった。