女の戦い … 2
モナと義姉のアンナが馬車に乗って王宮へ着いた頃には、秋の日はすでに、とっぷりと暮れていた。
王宮の車止めには、ひっきりなしに舞踏会へ招待されている貴族の馬車が乗りつけられている。舞踏会が始まるのはもう少し夜が更けてからなのだが、華やかな装いで場を盛り上げる女性たちには、それなりに支度の時間が必要なのだ。慣例通り早めに登城した貴族たちは、それぞれの控室で化粧直しをしたり、待合所に準備されている軽食を食べたりして、会場へ案内されるときを待つ。
馬車に同乗してきた侍女や従僕の手を借りて、かさばるドレスを苦労してさばきながら床の上に降り立ったモナは、やれやれやっと王宮へたどり着いたと思いながら、あたりを見まわした。国賓を迎える出入り口にもなる王宮南翼の玄関ホールには煌々と明かりが灯されており、各所に置かれた花瓶に活けられている花の香りが甘く匂っている。
そのすがすがしい匂いをかぐと、ほっとしてしまう。
悪いなと思いつつ、手にした扇を少し開いて、パタパタと顔をあおいでみたりも。
馬車のなかでモナは、アンナの香水の匂いに辟易としてしまったのだ。狭い空間にモナとアンナと侍女が二人いると、どうしても馬車のなかの温度があがる。温度があがると身にまとった香りは、より強く香るようになるのである。
義姉が今日の日のために買った香水は、有名な調香店の秋の新作らしい。侯爵家の屋敷へ納品にやってきた店の店員は、お嬢様もおひとついかがですかと強く勧めてきたけれど、あのとき買わなくてよかったわとモナは思った。アンナはモナと香りをおそろいにして「仲良し義姉妹」を演出したがっていたので、がっかりしていたが。
ひょっとしたら、あの店員、アンナお義姉さまに香水を勧めるようにって、頼まれていたのかもしれないわね。
晴れがましい表情をしている義姉の様子を盗み見て、扇の影で苦笑するモナである。
車寄せには順番待ちの馬車が列を作りはじめていた。
後ろの人へ場所を譲るために、モナとアンナは玄関の奥へと進む。
天井が高い玄関ホールには、人の声が作るざわめきと靴音がこだましていた。アンナの侍女のカエラが、ヴィダリア侯爵家の女たちに割り当てられている控室の場所をたずねに離れていく。
その、ほんの少しの待ち時間が、モナには苦痛だった。
たったいま玄関ホールへ入ってきた女性がローレリアン王子と婚約したと噂されているヴィダリア侯爵令嬢だと気付いた人々が、挨拶をしようと、いっせいに視線を浴びせてきたのだ。
しかし、貴族の世界では、面識のない者が初対面でいきなり相手に話しかけるのは失礼にあたるとされている。とくに相手が未婚の女性である場合には、あいだに紹介者をはさむのが常識である。
その場に居合わせた人々は、まずは誰かが令嬢の付き添いのファシエル・パルデール卿夫人アンナに声をかけないかと、固唾をのんで見守っている。そして、その第一声を発する人物が、どうか自分の知り合いであるようにと、願っているのだ。
―― ああ、この緊迫した空気を、誰か、なんとかして!
モナが心の中で悲鳴をあげた瞬間、最初の声が話しかけてきた。
「モナシェイラさま、こんばんは」
陽気な響きをもった若い声には、聞き覚えがあった。
モナは嬉しくなって、声のほうへふりむいた。
「こんばんは、ラッティ」
声の主は水色の宮廷服を着た賢そうな顔立ちの小姓である。年齢はまだ12、3歳くらいの子供だが、彼は優雅なしくさで淑女に対する宮廷人の礼を披露して言う。
「そちらにおいでのお連れ様が、パルデール卿夫人でいらっしゃいますか」
「ええ、そうですよ」とアンナが、ほほ笑みながら答えた。
王族に直接仕える宮廷の小姓には、独特の特権がある。高貴な人に愛玩動物のように可愛がられている子供として、貴族たちもみな彼らを大切に扱うのだ。だから、このような場所で彼が侯爵令嬢に話しかけても、誰もとがめはしない。
その特権をよく理解している賢い少年は、愛くるしい笑顔をアンナにむけた。
「ぼくは、ローレリアン王子殿下にお仕えしております小者です。主の王子殿下より、パルデール卿夫人から御許可をいただいて、ほんのしばらくのあいだヴィダリア侯爵令嬢をお借りしてくるようにと命じられました。お許しいただけますでしょうか」
許すもなにも! アンナは興奮気味に言った。
「ええ、もちろんですわ。どうぞ、義妹をお連れください」
水色のお仕着せを着せてもらっているラッティ少年が、ローレリアン王子お気に入りの小姓であることは、宮廷人ならだれでも知っている有名な事実だった。アンナは大喜びで義妹の背中を前へおしだし、その様子を見守っていた貴族たちは、いっせいに羨望のため息をついて、あたりの空気をゆらした。
** **
ラッティは王宮の複雑な廊下を迷うことなく通りぬけて、モナを南翼の奥まった一角へ連れていった。
途中で出会った人と、モナは何度も宮廷人の作法にのっとって挨拶をかわした。
相手はまず、約束にしたがってラッティに声をかける。
「おや、坊や。殿下のおつかいかね?」と。
相手はラッティが案内している若い淑女が、ヴィダリア侯爵令嬢モナシェイラであることなど百も承知のうえで、まず少年に声をかけるのだ。
ラッティのほうも心得た様子で答える。
「こんばんは、フラーム男爵閣下。ごらんのとおり、お客様をご案内しているのです。
モナシェイラさま、こちらは財務省次官のフラーム男爵閣下です。
男爵閣下、こちらは内務省長官ヴィダリア侯爵閣下のご令嬢モナシェイラさまです」
紹介をまって、モナは優雅に淑女の礼をする。
「モナシェイラでございます。どうぞ、お見知りおきくださいませ」
「こちらこそ、ご高名なる『すみれの瞳の姫君』に思わぬところで御挨拶がかない、望外の幸せでございます。以後、よろしくお願い申し上げます」
相手はラッティが王子の命令で動いていることを知っているから、それ以上余計なことはしゃべらない。しかし、これで立派に、また一人、モナには宮廷人の知り合いが増えたことになる。
ラッティは挨拶をかわした相手と離れると、必ずモナに、その人物がどんな人なのかを教えてくれた。
「フラーム男爵は財務省の官僚ですが、貴族としての格は、かなり下のほうになります。領地も地方の痩せた土地で地代収入がほとんど望めないので、官僚のわずかな俸給だけで家族を養っているという噂です。そういう人ですから、国庫の赤字をいかに減らすかの方策について熱心に考えておいでで、リアンさまとは気が合うのです」などと言って。
しかも、彼の情報には、かたよりがなかった。ローレリアン王子の陣営に属する人物についてだけでなく、敵側のことも日和見を気取っている者についてもよく知っているので、モナはひたすら感心してしまった。
「ラッティ、あなた、すごいわねえ。以前、自分は宮廷人からだって一目置かれているって自慢していたけれど、本当だったのね。驚いたわ」
ほめられた少年は、照れくさそうに笑った。
「モナさま。宮廷の小姓というものは、昔っから高貴な方々の人間関係の潤滑油として働いてきたんです。お仕えしている方の周囲のことをよく知っていなければ、小姓は務まりませんよ。
いちいち紹介者をあいだにはさむ算段をしなければ誰とも口がきけないなんてルールがあると、いざというときに身動きが取れなくなりますからね。だから王族に仕える小姓には、自分の判断でお仕えする方が不自由なく動けるように、人間関係の調整をする役目が許されているんです。
もちろん、ぼくら小姓だって、分というものはわきまえていますよ。小姓が自分の判断で紹介者になれるのは、主を通して名前を教えていただけた方同士に限られます」
生真面目な表情になったラッティは、モナの顔をじっと見た。
「モナさまも、そのおつもりでぼくに誰かをご紹介くだされば、ぼくもその方のお名前を記憶して、モナさまが動きやすいように人間関係の調整のお手伝いをするように、心がけますので。
もちろんそれだけでなく、ぼくはモナさまにも一生懸命お仕えする決心ですので、どうぞ、なんなりとお命じください」
モナは思わず、身を引いた。
「わたしが、王子殿下の腹心の部下を使うなんて……」
ラッティは躊躇せずに言い切った。
「だって、モナさまは、ローレリアン王子殿下の伴侶になられる方じゃありませんか。ぼくはモナシェイラ妃殿下にお仕えできて、とても嬉しいですよ」
「まだ、妃殿下じゃないわよ」
「でも、もう決まったことです。
リアンさまの周囲の者は、みなモナさまのことを、すでに妃殿下とみなしてお仕えする心づもりですからね。
モナさまには、その資格が十分にありますよ。
みなが、そう思っています」
ラッティの宣言を証明するかのように、廊下の角を曲がったら、その場にいた近衛護衛部隊の士官と隊員が、モナを見つけて最上級の礼をしてきた。
「こんばんは。お仕事ごくろうさま」と声をかけると、彼らは「姫君からねぎらいのお言葉をちょうだいし、光栄でございます」と返してくる。
おそれ多いのはこちらのほうですと、言いたくなった。
近衛護衛隊の隊士、それも騎士の称号を持つ士官は、子供のころのモナにとっては憧れの人だった。どうして女の子は剣が使えても近衛連隊には入れないのかしらと、大真面目で思っていたほどだ。
そういう人たちから、最上級の騎士の礼を捧げられるなんて……。
戸惑っているあいだに、部屋の入口の前に控えていた侍従が扉を開けてしまう。
扉が開くと同時に、人の声がモナのもとへおしよせてきた。