7日目 大空へ
夜が明けて嵐は去り、天を覆っていた雲も徐々に消えつつある。
暗いうちからひたすら先を急いでいたガイ・ボージェの目の前には、雲間から差し込む陽光に照らしだされた眩しい雪の平原が広がっている。
雪からの反射光は眼を容赦なく痛めつける。
先ほどからガイの目は激しく痛んでおり、なんとか目を守ろうとするために流れ出る涙が眦の周辺に乾いて貼りつき、まばたきもままならない状況に陥っていた。
陽光に照らされた雪は予想通りゆるみはじめ、ガイの足を濡らしている。
足を覆うのが雪のみだった時には足先が凍えていただけだったが、日が高くなるにつれ氷水が容赦なくガイの靴に染み込んできて、足にめぐる血を冷やし、皮膚を侵す。今やガイの両足は腫れあがり、一歩ごとに激痛を生じる始末だ。
しかし、どこが痛もうが、限界まで疲れていようが、ガイは先へ進まなければならなかった。
自分が懐に抱えている密書は、鉱山に立てこもる大勢の人の命と、その命を救わんとしている我が国の王子の身の安全を守るための大切な書簡なのだ。自分の命とひきかえになろうとも、この書簡はメイデンに届けなければならない。
切迫した自分の呼吸のせいで、ガイの身辺にはもうもうと白煙がまとわりつく。
その白煙をかき分けるように、ガイの身体は、前へ、前へと、進んでいく。
――雪の神ヘキサよ。たのむ。あと少しでいいから陽光に耐えてくれ。俺の進む道を、救いのないぬかるみにするな!
ガイが心の中で叫んだ瞬間だった。
視界の前方に、動く小さな黒い影が見えた。
ガイは足元へ手をのばし、雪を握りしめた。
握りしめた雪を自分の顔に擦りつけ、眼のまわりにこびりついた涙の滓を拭い取る。
動くようになった瞼を何度もしばたいて、くらむ目をこらすと。
急激にふくらむ歓喜の感情が、ガイの身体を内側から壊してしまいそうだ。
純白に凍りついた雪原のむこうから、頑強な荷役馬にひかせた橇が近づいてくる。
動く影に気がついたら、耳も遠くの音を拾うようになった。
馬橇の鈴の音が聞こえる。
その馬橇に立てられた旗の色は黒。
メイデンまであと数メレモーブのこの地で黒の旗を立てて周辺の偵察に走る馬橇といえば、年頭のころより冬場の行軍訓練と称して北の地を移動し続け、オトリエール伯爵領で反乱が勃発した時から効力が生じる命令書により、メイデン近郊での待機に入っていた聖王子ローレリアン直属の親衛部隊に所属する斥候のものに間違いなかった。
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斥候の馬橇との接触に成功したガイ・ボージェは、ただちに王子の親衛部隊が駐留本部として接収していたメイデン郊外の地方貴族の館に案内された。
王子の親衛部隊の司令官といえば、隻眼の将軍アストゥール・ハウエル卿である。経験豊かな髭の伊達男は、オトリエール伯爵領からの連絡を今か今かと待ち構えていたもので、凍えてぼろ布の塊のようになったガイから密書を受け取って一読すると、誇らしげに胸をはり、各所へ命令を発しはじめた。
「よしよし。いよいよ我ら親衛部隊が殿下からの勅命で働けるときが来たぞ!
嵐をやり過ごすために農家へ分宿させた全部隊へ集合をかけろ!
進軍の道をひらくために、馬橇も集められるだけ集めるんだ!
なにがなんでも今日中に、伯爵領の鉱山までたどり着いてやる!」
将軍の副官ランセニエ卿が質問をぶつけてくる。
「閣下、王都への連絡はどうされますか?」
アストゥールは不敵に笑った。
「伝書鳩を飛ばせ。そうだな。けちらずに全部空に放っていいぞ」
「全部ですか?」
副官はあきれた様子だった。
鳩の帰巣本能を利用して通信文を運ばせる方法は、この時代において最速の通信手段である。ただ、鳩は生き物なので、普段から王都の鳩舎で飼いならして帰るべき場所を教え込んだり、軍隊が行軍する際に専任の世話係をあてがい安全に鳥かごを運ばなければならなかったりと、管理にえらく手間がかかるのだ。今回も、極寒の季節に鳩を凍えさせないよう担当者は大変な苦労を強いられたと、副官は報告を受けていた。ハウエル将軍は、その貴重な鳩を、たった今、すべて手放してよいと言い放ったのである。
不満顔の副官にむかって、将軍は強く念を押す。
「全部だ。ここは王都から380メレモーブも離れているんだぞ。幸いにも天気は回復してきているから、鳩は飛ぶだろう。だが、長距離を迷ったり、数日間嵐で狩りに出られなかったせいで腹ペコ状態の猛禽に襲われたりもするだろうから、王都への帰還率は、よくて一割ってところだろうさ。
いいか、ランセニエ。ここぞというところで、物惜しみをしてはいかん。
王子は無事で、反乱の顛末は完全に王子の手中へ掌握されている。
この情報は最速の手段で、間違いなく確実に、王都へとどけねばならんのだ」
副官は表情をひきしめ、敬礼した。
「了解いたしました! わたくしめの浅慮を、おゆるしください!」
そのあと副官は足音も高く駆け去っていく。
よく訓練された伝書鳩は、分速1メレモーブの速さで古巣へもどろうとするらしい。王子の親衛部隊を率いるハウエル将軍は、少しでも早く確実に情報を運ぶ重要性を十分に理解している様子。今日の日没までには間違いなく、必要な報告が王都へとどくだろう。
そう思った瞬間、床に片膝をついてうずくまっていたガイの身体から力が抜けた。
もう彼の肉体に余力は残っていない。暖かい室内へ案内されて血の巡りがもどってきたら手足の先にひどい拍動痛が出現したし、頭の芯がしびれて気が遠くなりそうだった。
「おい、大丈夫か!」
一瞬の間のあと、ガイは隻眼の将軍に抱き起こされていた。
彼の頬には、これでもかというほどの数の略章が縫い付けてある、立派な黒い軍服の胸が触れている。
ガイは心の中で苦笑した。
――まったく、あの王子の側近は、かわった人間ばかりだ。
ずぶ濡れで小汚い密偵のガイを、床に膝をついて躊躇することなく介抱してくれる将軍様なんて、前代未聞である。
「ごくろうだったな、ガイ・ボージェ。よく大任を果たしてくれた。
衛生兵に手当てをさせるから、あとは、ゆっくり休むがいい」
――ほら、もう俺の名を覚えてくれているし。
まだ気絶はできない。
ガイは気力をふりしぼって訴えた。
「わたくしは、今現在も任務中であります。閣下の部隊が出発なさるまでの一刻だけ休ませていただきたく存じますが、そのあとはどうか鉱山までの道案内役として、同行をお許しくださいますよう」
「無理をするな」
「少しでも早く、聖王子殿下のご無事を、この目で確かめさせていただきたいのです」
強い願いをこめて、ガイは将軍の腕をつかんでしまった。彼の腫れあがった手は、まだ濡れた手袋の中にあったから、将軍の軍服の袖には染みが広がった。
しかし、将軍は嫌な顔ひとつ見せなかった。
それどころか優秀な副官がとっくに手配していた衛生兵にガイを引き取らせるまで、作戦参謀たちと先の相談をしながら、凍えた密偵の世話をしてくれたのである。
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衛生兵から手当てを受けて乾いた服に着替えさせてもらい、暖かい毛布にくるまれたガイ・ボージェは、王子の親衛部隊が行軍する道を開く馬橇の集団の先頭に近い車両に乗せられた。部隊の補給物資の隙間に風よけの空間をつくり、その陰に毛皮を敷いて寝かせてもらうという、特別な配慮もしてもらっている。
身体は疲れ切っていたが、極限まで興奮しているせいなのか、眠気はガイのもとに訪れてこなかった。周辺には、まもなく行軍を開始する軍隊の喧騒があふれている。
横たわっていると、嵐の名残が去って雲より青空のほうが目立つようになった天穹がよく見えた。
その大空を、多数の鳥が横切っていく。
独特の鳴き声と羽が風を切る音が、無数に折り重なって遠ざかる。
30羽以上はいるだろう。
きっと、あの鳩すべての足に同じ通信筒をつけるのに結構な時間を要したのだ。
だが、鳩は大空へ放たれた。
まっすぐ、王都へむかって飛んでいく。
雪に洗われた大気は陽光に輝いている。
風もほとんどない。
こんなに美しい空を見たのは、生まれて初めてだった。
涙が出た。
熱い涙だった。
嗚咽の声が漏れ出ないように、ガイは喉に力をこめなければならなかった。
鳩が飛んでいく大空を見て、ガイは自分がこの世に生まれたことを、初めて神々に感謝したからである。




