7日目 我らが剣は飾りにあらず
ローレリアン王子が宮を離れてから7日目の朝、王子の婚約者であるヴィダリア侯爵令嬢モナシェイラは王子の宮の客室で身支度を整えていた。
前夜は王妃陛下が黒の宮の訪問中に体調を崩され、そのままこちらで御静養ということになったので、王妃陛下の侍女であるエテイエ子爵未亡人ジャンニーナと交代で枕元に控える宿直役を務めたからである。
心を許せる人間に見守られて一晩ゆっくり休まれた王妃陛下は、すっかり顔色もよくなられて、朝食も人並みに食べられるところまで回復されていた。しかし、今日一日くらいは多忙な王妃業を休んでいただかなければと、モナは固く決心している。ローレリアン王子が宮に不在であることを隠しとおすため、宮廷内の貴族たちの動向や黒の宮に出入りする人間の言動には細心の注意を払っていたけれど、身内の心の問題にまでは気がまわっていなかったのである。いまさらと思いつつ、重苦しい反省をくりかえしてしまうモナなのだ。
深いため息が、また出てしまう。今は自分の傷心にひたっていてよい時ではないのに。
鏡の中の自分を見つめて、モナはつぶやいた。
「服装は昨日着ていた外出着そのままだけれども、午前の予定は初等教育義務化を検討する専門家会議への出席だけだから、なんとかなるわね。王子の病気見舞いにふさわしいようなシンプルな上着を選んだから、襟元だけでも派手にしようと思って、華やかなレース使いのブラウスを着てきたのは正解だったわ。大丈夫。会議の席で宮廷服姿の男性に見下されたりはしないはずよ。
午後は王妃様のサロンへ代理で出席して貴婦人方の相手をしなくちゃならないから、お昼までにドレスの準備をしておいてって、北翼の部屋付きの侍女へ伝言を頼んでおかなければ。
ていうか、今日のサロンには、どのくらいの人が集まるのかしら。雪で足元が悪い日くらい、お休みにしちゃえばいいのに!」
社交も王族にとっては大切な仕事だ。嫌がってもしかたがないのだが。
もっと現実的なことを考えようとして、自分の黒髪に櫛を入れながら、鏡へ微笑みかける練習をしてみる。
我ながら艶やかで好感が持てる笑顔だと思う。自分の感情を見た目から完全に消し去って、周囲から期待されている表情に入れ替える力にも、近ごろずいぶんと磨きがかかってきた。化粧もこなれてきている。否応なく肌の手入れなどにも時間をかけているからか、少女時代に悩みの種であったそばかすも目立たなくなってきたのだ。今、目の前の鏡に映っている自分は、少女の面影も残しているけれど大人の色香も感じさせる、庶民の憧れの対象、聖王子の婚約者ヴィダリア侯爵令嬢に間違いなかった。
――髪だけは侍女に結ってもらおうかしら。
艶が出るまで梳かし終えた髪をつまんで、またため息をつく。簡単な形になら自分でも結えるけれど、公式の席に出る時のモナに期待されているのは、聖王子の妃となる女性にふさわしい気品ある外見と態度である。間に合わせみたいな髪形は許されないだろう。
そう思ったモナは、立ちあがって部屋から出ていく。
三つばかり先の部屋には、王妃の侍女が何人か控えている。そこへ直接行って用事を頼もうと思うあたりが、職業人であり、物事に合理性を求めるモナらしい行動なのだ。自分のところへ人を呼びつけて手配を頼む時間が、もったいないと考えてしまう。
客室は3階にあった。黒の宮は300年前は城塞だったという古い建物だ。分厚い石壁に囲まれた朝の廊下は冷え切っており、窓が小さいせいであたりは薄暗い。
夕べの雪はどのくらい積もったのかしらと思ったモナは、その小さな窓へ近づいていった。
ガラスへ顔をよせると、雪からの反射光が目を刺した。空にはまだ雲が残っていたけれど、その雲の切れ間から、精霊のはしごと呼ばれる光の筋がいくつも降りてきている。丘の上にある王宮からの眺めは、時々こうした幻想的な風景になるのだ。
ちょっといい物が見られたわと、和んだ気分で視線をおろす。確かめたかったのは、夜の間に降った雪の具合なのだから。
客室が並ぶ廊下の窓からは、黒の宮の勝手口まで通じる坂道が見下ろせた。黒の宮は王宮の東端にあって、レヴァ川に面する部分は崖と接しているが、宮の住人の生活を賄う御勝手の入り口までは、馬車が入れる程度の道が通じている。そこから食品や石炭などのさまざまな生活物資を運び入れるためである。
宮廷の格式にこだわりを持っていないローレリアン王子は、護衛だけをつれて街へ外出する時などに、この勝手口を使っている。荷馬車用の坂道は荷物の搬入だけに使われる南東門に通じているので、人目を避けて外出するには都合がよいからだ。
人目を避けて王宮外へ出られるということは、逆もまた成り立つ。
つまり、南東門を警護する衛兵さえ黙らせることができれば、人目を避けて黒の宮へ入れるということだ。
なんということだろう。
モナが見下ろしている坂道を、男達が集団で登ってくるではないか。人数はざっと見積もって30人程。彼らは南東門からここまで入ってきたに違いなかった。
窓にはりつき、大声をあげて近衛護衛隊へ注意喚起するべきなのかしらと思った瞬間、頭上で非常事態を知らせる呼子笛の音が鋭く鳴り響いた。古い城塞を改築した黒の宮の屋上は歩廊になっているので、巡回している兵士が宮へ近づく集団に気づいたのだろう。
たちまち階下が騒がしくなった。黒の宮の執政機能を担う部門や王子の生活空間は主に2階へ配置されている。午前8時より前の今現在、近衛護衛隊の配置はまた夜間態勢下にあるから、少ない人員で貴人を守るべく、2階へ総員が集合しようとしているのだ。
氷鉄のアレンに鍛え上げられた近衛護衛隊士の動きに、迷いなど微塵もなかった。各人が自分の持ち場と定められた場所へ、足音も高く駆けていく。
逆に、階段を駆け上って、モナのほうへ突進してくる男もいた。
モナの護衛隊長レミ・スルヴェニール卿である。忠誠心篤い赤毛の巨漢は、どうやらモナにつきあって、黒の宮の士官当直室にでも泊まったものと見える。あわてて軍服の上着をひっかけてきたようで、金ボタンはまだ上部のふたつしか留められていない。
「レミ!」
「姫さま!」
なにかというとモナに振りまわされがちなスルヴェニールであるが、ひとたび有事となれば、これ以上頼もしい護衛はいない。呼びかけに答える声も落ち着き払っていて、ふてぶてしいくらいだ。
「あの集団は、どこの誰なの?」
「窓から連中の顔ぶれを見た侍従が言うには、アントレーデ伯爵家の嫡男ラザレフ卿を頭首と仰ぐ若手貴族の一団だということです。いずれも名門貴族の子弟ばかりなので、何らかの手段を講じて南東門の衛兵を懐柔したのではないかと」
「なんでそんな連中が、朝から黒の宮へ」
「彼らの父親世代には、カルミゲン公爵の引退に伴って更迭されそうな者が多いですから。自分達まで、その騒ぎに巻き込まれるのが嫌なのでしょう。おそらく自己を売り込むために、王子殿下の御前で何か訴えたいのだと思われます。
とにかく、どうぞ姫さまはお気持ちをゆるりとお構えになって、王妃陛下のおそばで共にお待ちくだされ。階下の護衛小隊を率いているのは、アレンの腹心のシムスです。きやつなら、大した労力を割くこともなく、とっとと馬鹿どもを追い払いますゆえ」
「ちょっと待ちなさいよ」
モナの表情は、思案で硬くなる。
「ねえ、押しよせてきているのは、名門貴族のお坊ちゃまたちでしょう?
あいつらは傲慢の塊みたいな連中よ。おとなしくシムスの制止を受け入れるかしら?
『王子殿下の影』の異名を持っていて最高栄誉の叙勲を二度も受けているアレンなら、あの連中と対等に張りあうこともできるでしょうけれど。
嫌な言い方だけれど、シムスは下級貴族出身よ。誰かほかに、権威を振りかざせそうな人はいないの? お坊ちゃまたちを従わせられるほどの権威を持つ人は」
スルヴェニールが唸った。
「やつら、ここにはアレンがいないと確信しているから、行動に出たのでしょうか。
夜間態勢下の時間を狙ったのは、護衛が少ないからだけでなく、やつらが逆らえないほどの身分の者がいない時間帯を狙いたかったからなのか?」
「どうしよう……」
モナは深く、思案の水底へ沈んでいく。
青年貴族たちがシムスの制止に従わなければ、シムスは剣を抜かざるを得なくなるだろう。相手は名門貴族の子弟だ。万が一怪我でも負わせたら、シムスは責任を問われる。それが分かっていても、シムスは青年貴族たちを止めなければならないのだ。なにしろ護衛に守られているはずの王子は宮にいない。その事実を外部へもらすわけにはいかないのだから。
狭窄した視野しか持たない大貴族連中は、オトリエール伯爵領で領主が誅殺された反乱を武力で制圧しろと騒いでいる。
近々行われる政権交代劇で表舞台からの退場を余儀なくされる重臣たちの中には、ローレリアン王子を心底憎んでいる者もいるに違いない。
そんな状況下で、王子が宮に不在である事実が明るみに出れば、王子の身の安全の確保は難しくなる。武力衝突に巻き込まれるのも怖いが、王子が宮の外にいる状況を起死回生の機会とみて、刺客を放とうとする輩が出現するのも怖い。
反乱の武力制圧が強行されれば、貴族に虐げられてきた平民だって、黙ってはいないだろう。近代化が進むローザニア王国で情報の隠ぺいなど、もはや不可能だ。一地方の反乱が各地に飛び火すれば、王国は先の見えない大混乱に陥ってしまう。
そこまで考えて、モナは顔をあげた。
彼女のすみれ色の瞳には、強い決意の光が宿っていた。
スルヴェニールが、驚きに目をむく。
彼の目の前で、聖王子の妃となるはずの女性は恥じらうこともなく上着を脱ぎ捨て、スカートをたくし上げて、隠し持っていた剣を鞘ごとつかみ取ったのだ。
スカートが衣擦れの音をたて、ふたたび姫君の足を覆う。
それと同時に姫君は走りだし、スルヴェニールのすぐわきを、風になびく豊かな黒髪と純白のブラウスがすり抜けていった。
大きく舌打ちをして、スルヴェニールはあとを追う。
自分で自分を殴りたい気分だ。
すらりと伸びた女性の足を見てしまったせいで、とっさに姫君を止める手を出しそこねた。大急ぎで姫君を王妃陛下の部屋に押しこんで、外には出さないつもりで3階へ駆け登ってきたというのに。
きっと姫君は王子を守ろうとするだけでなく、アレンの代理として黒の宮の警護責任を担っているシムスに、詰め腹を切らせるような真似はさせまいとも考えておいでになるはずなのだ。ご自分のことは二の次で、無茶な行動を起こされるに違いない。
この宮の主である王子殿下も、婚約者である姫君も、そろって困ったお方なのだ。御身の価値というものを、軽く考えておいでになる。お二方の身に何かがあれば、王国の民すべてが明日への希望を失ってしまう。
階段を駆け下りたら、宮の中庭をめぐる回廊に出た。
姫君は恐ろしく足が速くて、どうしてもつかまえられない。いつも外出されるときには、動きやすい編み上げ靴を愛用されているからだ。
回廊のむこう側では、青年貴族の集団と近衛護衛部隊がすでに対峙していた。
姫君が予測されたとおり、青年貴族たちは身分を笠に着て、勝手口の施錠をやぶり厨房や倉庫が主に置かれている一階を通り抜けてきたのだ。
先頭に立つ男が、偉そうに言っている。気取った表情と贅沢な服装が鼻につく、いかにも大貴族の跡取り息子といった風情の男だ。
「兵士諸君。無粋な真似はやめたまえ。我らは王子殿下に不敬をはたらく者ではない。純然たる王国への忠誠心を証明すべく、殿下の御前へ参じた忠義の徒である。
我らは全員、王国宰相カルミゲン公爵の縁者ばかり。殿下の御前へまかり越すに、不足ない身分であると思うが、いかがかな。
道を開き、我らを王子殿下の御前へ案内するがよかろう」
護衛部隊の先頭には、アレンの腹心の部下であるシムスが立っていた。この男は若さに似合わぬ切れ者だが、陽気で気さくな性格が外見ににじみ出ているせいで、相手に警戒心を抱かせない柔らかな雰囲気を持っている。
しかし、今日の彼が全身にまとっていたのは鋭い覇気だった。背後から恐ろしげな気配が立ちのぼるほどである。彼には、この場から一歩たりとも、青年貴族達を奥へ通すつもりはないのだ。
朝の回廊に、若き近衛護衛士官の声が朗々と響き渡る。
「いかに貴君らがやんごとなき身分であろうとも、お許しもなく早朝から王子の宮に大挙して押しかけるなど、王家に対し奉り、不敬以外のなにものでもない!
ここより一歩でも先へ進もうとなさるなら、我らは貴君らの逮捕拘留も辞さぬ覚悟。
即刻この場から、退去されよ!」
青年貴族も負けじと叫ぶ。
「護衛兵ごときが、戯言を申すな!
そこの将校に申しつける!
一刻も早く殿下のもとへおもむき、我らが来訪したむねを奏上せよ!
我らの顔ぶれをお知りになれば、必ずや殿下は、謁見を許されるはずである!」
「王子殿下は御病気にて静養中である。御寝所に、こんな馬鹿げた騒ぎを報告するなど言語道断! 殿下より謁見の栄誉を賜りたくば、しかるべき筋に願い出たうえ、許しを得てから出直されよ!」
「現場の一将校に、我らの覚悟を馬鹿げた騒ぎなどと誹謗する資格があると思ってか!?
思い上がりもはなはだしい!」
「思い上がっておられるのは、貴君らのほうである!
王子殿下は我が国において、国王陛下に次ぐ高貴なご身分にあるお方。
貴君らがいかな大貴族の縁者であろうとも、殿下と身分の尊卑を比すること自体が、無礼かつ不遜なのだ!」
馬鹿丁寧に延々とつづく言葉合戦は、不毛きわまりない内容だった。
――だけど、十分に時間を稼げたのは、上出来ってものだわ。あとでシムスの舌の滑らかさぶりを、褒めてやらなくちゃ。
近衛護衛隊士の集団の後ろにたどり着いたモナは息を整え終えたあと、不敵な笑みを唇に浮かべながら、そんなことを考えていた。
そして、彼女の背後に貼りつくようにして立っているスルヴェニールに言う。
「要するに、連中が王家の名誉を傷つけてしまうように仕向ければいいのよ。そうすれば護衛隊が剣を抜いても責任問題にはならないし、やつらの逮捕拘留だって簡単にできる。その命令を下すのが聖王子の婚約者であるわたしなら、あいつらと身分の上下を争うことになっても、対等だと言えるしね。
レミ、あなたも、ここだと思うきっかけをつかんだら、迷わずに剣を抜きなさいよ?」
「姫さま、お願いですから――」
危険なことはやめてくださいという、スルヴェニールの懇願を最後までは聞かず、モナは落ち着き払った声で前方の護衛隊士の集団に命じた。
「道をあけなさい」
ヴィダリア侯爵令嬢を王子の伴侶として認め、敬愛してやまない近衛護衛隊の面々は、整然と命令に従った。気持ち良いくらいそろった足さばきで、集団の真ん中に道が作られたのだ。
モナは、その道を悠然と通り抜け、剣をふるう間合いを残して青年貴族の前に立った。
彼女の一歩後ろの右側にはシムス、左側にはスルヴェニールが立つ。スルヴェニールは、かなりやけくそ気味であったが。
青年貴族の集団は、気おされて黙りこんだ。
左右に眼光鋭い近衛士官をひきつれ、いつでも抜けるように美しい細工が施された細身の剣を左手にかかげて持つヴィダリア侯爵令嬢は、豊かな黒髪を結わずに流しているせいで、戦場で兵士を鼓舞する戦女神タリニを連想させたのだ。
威厳に満ちた女性の声が、回廊に響き渡る。
「皆さまには、いまさらわたくしが誰かなど、名乗る必要はございませんね?
では、あらためて御警告申し上げます。
王子殿下の私生活の平穏を乱すなど、何人にも許されることではありません。
今すぐ、この場から立ち去りなさい。さすれば、わたくしから殿下へ、どなたにもおとがめなきようにと、おとりなしいたしましょう」
我にかえった青年貴族のリーダー、ラザレフ卿が答える。一瞬でも女に呑まれてしまった悔しさで、彼の頬には朱がさしていた。
「やはり殿下の御病気は、公に発表されたほど重くはないのですね?」
モナは、この男は何を考えているのだろうかと思いながら、冷然と答えた。
「お答えいたしかねます」
「宮にこもられて、殿下は毎日、何をなさっておいでになるのか?」
「お答えいたしかねます」
冷たく質問を封じられ、ラザレフ卿の自尊心はひどく傷ついた。彼は今まで女性から、こんなに高飛車な態度で否定され続けたことはないのだ。女とは、男の権力や財力に媚びる愚かな生き物であるはずなのに。
ラザレフ卿からすれば、モナはいかにも「ついさっきまで王子の側におりました」といった風情に見える。旧勢力の貴族にとって、朝の8時はまだベッドの中にいるべき時間なのである。モナが髪を結っていなかったことも、夜の艶ごとを連想させる誤解を生んだ。大人の女が髪を結わずに人前に出てくるということは、その直前までプライベートな生活空間でくつろいでいましたということを意味するからだ。
中庭に積もった雪から、まぶしい朝日が反射してきている。
輝かしい日の光は、目の前の女性の白いブラウスに吸い込まれ、優美な肢体の影を浮かび上がらせた。レースの飾りがふんだんについたブラウスの下に女性の身体の線を見てしまえば、嫌でもその女性の夜着姿を想像してしまう。
――昨夜は女と同衾か。聖者を名乗る王子よ。
ラザレフ卿の胸に、ふつふつと怒りの感情がわいた。
王子と自分は同年生まれ。
それなのにむこうは、王家の血筋を誇る時の権力者だ。大勢の人間にかしずかれて丘の上にそびえる王宮に住まい、美しくて賢いと評判の美姫を思うがままに従わせている。
対して自分はみじめにも、その権力者に媚びて役職を与えてもらおうとしているのだ。
そうしなければ宮廷闘争の世界では、生きぬいていけない。
どんなに惨めで、悔しかろうとも。
家名にふさわしい地位を得るためには、耐えなければならない。
固く握った拳が震える。
とにかく、ここは我慢だと、自制心をかき集めて平静を装おうとした。
ところが、高ぶった感情が、彼の言葉をねじ曲げてしまったのだ。
「我らは何度も、殿下に拝謁を願い出たのだ。しかし、病気療養を理由に、我らの願いはかなえられなかった。何故なのだ? 御寝所に婚約者殿をはべらせられるほど、殿下はお元気ではないか!」
吐き捨ててしまってから、ラザレフ卿は目を見開いた。自分の口に手を当てて、うろたえる。しかし、あとの祭りだ。出してしまった言葉は、もう取り返せない。
ラザレフ卿の目の前に立つ王子の婚約者は、口元にほの暗い微笑を浮かべていた。彼女は、どう誘導すれば王家を侮辱する言葉を吐いてくれるかと、相手の出かたをうかがっていたのである。その彼女の目の前で、相手が勝手に自滅してくれたのだ。
そして、彼女の背後に立つ二人の近衛士官からは、憤怒の感情がおしよせてくる。
ラザレフ卿の最後の一言は、王子の私生活に対する誹謗中傷に間違いない。貴人の夜の生活に口出しするなど、非常識のきわみである。王子に忠誠を誓う武人たちにしてみれば、許しがたい侮辱だった。
王子の婚約者、若くて美しい侯爵令嬢は冷え切った声で、ひと言ひと言を、やけにはっきり、ゆっくりとしゃべった。自分も失礼極まりない批判の矢面に立たされて、恥ずかしい思いをさせられた当事者なのだ。せいぜい、派手に怒ってやらなければならない。
「わたくし、王子殿下の私生活に、踏みこんではいけませんよと、最初に警告いたしましたわね? それなのに、警告を無視なさるなんて。
もう、あなた方を、穏便にかばってさしあげることなど、できませんわよ?」
「そうですとも」と、スルヴェニールが言葉を継ぐ。
「主を侮辱されて、黙って耐える忍耐など、我らは持ち合わせておりませぬ」と、シムスが続く。
鋭い刃鳴りの音が、空気を切り裂いた。
士官二人の抜刀を確認し、背後の護衛隊士たちも次々に剣を抜く。
最後に侯爵令嬢が、左手に持っていた剣を指揮杖のごとく高く掲げた。戦女神とはかくやと思わせる、堂々たる構えで。
「王子殿下をお守りする、我らが剣は飾りにあらず!
女のわたくしがここで剣を抜かないのは、殿方の矜持を傷つけないための、せめてもの情けと心得なさい!
隊長方、あとは任せましたわよ!」
「御意!」
スルヴェニールとシムスが大音声で拝命確認すると、青年貴族たちは悲鳴をあげ、逃げ道を求めて走りだした。
そのあとを、殺気立った近衛護衛隊士が追っていく。
モナはその場に黙って立ち、逃げ惑う青年貴族たちが護衛隊士に追い詰められ、次々に拘束されていく様を見守った。
荒事の真っただ中で、剣を胸に抱き、顔色ひとつ変えずに。
その豪胆ぶりは、のちのちまで語り草となる。
聖王子の伴侶は戦女神タリニの化身。怒らせてはならない、恐ろしい女性であると。




