7日目 夜明け前 その2
儀式の終わりを待っていたのだろう。ローレリアンが最後の祝福の手を信者の額から離すと同時に、人垣の外から「神官様、こちらにもお願いします」と声がかかった。
夜明けを待つ闇の中でローレリアンは黙ってうなずき、そばに控えるアレンに預けていた聖杖を受け取って立ちあがった。
その聖杖の使い勝手は、あまりよくなかった。適当な長さの棒切れに自ら秘跡の祝詞を書き入れた、にわか作りの聖杖だったからだ。
そんなものでも、ないよりはましだった。聖杖は万物に宿る神々の神気を集め、神官の右手の指先へ霊力を宿らせる聖具ということになっている。名付け、成人、結婚、葬儀といった人の一生にかかわる節目の儀式を行うときには、かかせない道具なのだ。儀式に必要なのは様式美である。道具がなければ、何百年も変らずにくりかえされてきた神事の動作の美しさも半減してしまう。
広い空間のあちこちに、ゆらめく小さな明かりが灯っている。
床には、うずくまったり、横たわったりして、休んでいる男達。
その男達の間を、縫うようにして歩く。
自分を呼びにきた男が、ひとつの明かりの前にかがみこんだ。
その明りは、横たわる老人の顔を闇に浮かび上がらせている。
そばにひざまずき、老人の顔を見ただけで、ローレリアンは首を振った。
昨日の昼から肺炎の症状で苦しんでいた老人は、すでに事切れていた。血が通わなくなった老人の顔は、汚れた麻袋のようにすすけた色で固まっている。
死出の旅立ちに間に合わなかった申し訳なさで、胸が痛む。
不思議なもので、人の命は月の満ち欠けの区切りや大きな天候の変化が起こる時、より神々のもとへ召されやすい。今は夜明け前だからだろうか。病状の悪かった者が、次々に霊界へと旅立っていく。
ローザニアの神教は、死せる者の魂は世に満ちる霊の力と融合し、世界を生かす存在へ還るのだと教える。
告解の儀式が間に合わなかった魂は、まだ霊の力と溶け合ったりはしていないだろう。
――あなたはまだ、そこにいますか?
闇に包まれた空間に目をむけ、死せる魂に呼びかけながら、両手で聖杖を捧げ持ち、低い声で死出の旅立ちを祝福する聖句を詠唱する。
小さな明かりは、ローレリアンと亡くなったばかりの老人の周辺しか照らさない。
けれども闇の中からひそやかに、人々が祈りの形に手をあわせる気配が伝わってきた。
詠唱が終わる瞬間、一斉に聖なる印字が空にむかって切られる。
あたりがあまりにも静かなので、空気がゆれる音が聞こえたような気がした。
聖杖を左手で地に立て、右手の指先を老人の額に当てる。
「神々よ、この者の魂を、ふたたび世界へとお返しします。この者の魂が、大いなる御霊とともに永遠ならんことを」
この文言を唱える時、ローレリアンはいつも打ちのめされる。彼は何度となく、人の死と向き合ってきた。成人前は若い一神官として辺境の街の貧しい人々の死と向き合ってきたし、王子と呼ばれるようになってからは、名すら知るすべのない大勢の人々を死出の旅へと送り出した。
王子の自分が神官でもあることは、神々の導きなのだろうとさえ思う。国を統べる覇者たらんとすれば、自分はこれからも人の死と向き合い続けなければならないだろうから。
聖杖をふたたび背後のアレンに預け、死者の両手をとり、祈りの形に組んでやった。
そして、最後の祝福。
どうか、安らかにと、願いながら。
「神官…様。お願い……です、次は…わしにお祈りを……」
人垣の外から、切れ切れの声が呼びかけてくる。
すぐ近くにいる病人が、告解の儀式を望んでいるようだ。ローレリアンはゆっくりひとつ息を継ぎ、気持ちを改めて、呼びかけてきた男のそばへ行った。
その男もまた、年老いていた。病みつかれた皺の深い顔には、すでに死相が出ている。擦り切れた着衣はおそらく、この男の最後の財産だ。貧しい彼は何も持たずに、いまここにいる。
「告解を望まれますか」
死の床で思いのたけを打ち明けてもらい、安らかに旅立てるように計らうのが、告解の儀式である。型どおりの問いかけは、なんと冷たい響きだろうかと思いながらも、他に良い言葉も思いつけなかった。苦い思いを噛みしめながら、ローレリアンは老人のそばにひざまずいて手を握った。
苦しい息の合間に、老人は話し始めた。
「神々へ…、恨み言を申し上げたら、霊界へ還れませんか……。
でも、神官様。
わしぁ、神々へ……、聞いてみたい。
わしぁ……、何のために、生まれてきたんでしょうか。
苦しいだけでした。
若いころは……、それでも幸せになりたいと思って……、恋もしたし、結婚もした。
でも、働いても……、働いても……、食べていくのがやっとで、ろくなものを食べさせてやれなかった子供は……、病気で……、ぽろぽろ死にました。
たった一人……、育った息子も、去年……、坑道の落盤事故で死んだ。
わしぁ、そのとき……、女神ガイアをののしった。
息子を返せと、ののしっちまいました。
そしたら、まもなく……、女房も死んじまった!
わしも、もう……、死にます。
これは、女神の怒りを買った、罰ですか」
信じられないほど強い力で、老人はローレリアンの手を握り返してきた。老人の最後の力にこもっていたのは純粋な怒りと悲しみで、ローレリアンは返す言葉など思いつけなかった。
彼らを取り囲む人々の中から誰かが、大声で叫んだ。
「ニコラ爺さん! あんたの息子が死んだのは、女神ガイアのせいなんかじゃない!
伯爵が、鉱石の無理な増産を俺たちに強要したからだ!
採掘ノルマを達成しなきゃ、ペナルティがつく。
これ以上給金が減ったら、みんなが困る。
焦った俺は、坑道の天井を支える坑木を立てるタイミングを見誤ったんだ!
みんなの安全を守るためには、あともう少しいけそうかなんて考えながら鉱石を掘りつづけるより先に、坑木を立てなきゃいけなかったんだ!
あんたの息子を殺しちまったのは、現場監督の、この俺なんだあっ!」
人垣を押しのけてよろめき出てきたのは、反乱を主導したグループのリーダーであるモリスだった。「すまねえ、すまねえ!」とくりかえしながら、彼は床に崩れ落ちるようにして泣き伏した。
闇の中に、男の泣き声がこだまする。入坑待機所の高い天井に反射して、こだまが返ってきてしまうのだ。
こだまがひりひりと、人々の肌を打つ。
老人の手から、力が失われていく。
落ちくぼんだ眼窩の奥にあるうつろな目で、老人はローレリアンを見あげた。
「神官様……。女神は……、わし…を……、許してくれますか」
「ニコラさん。ガイアは最初から、怒ってなどおられませんよ」
震える声を絞り出してそう答えたら、老人の瞳に淡い光が映った。
涙だ。最後の涙が、老人の瞳を潤ませている。
だから、瞳に光が映ったのだ。
「そう…かな……。
わしを哀れに思って……、ガイアは……死に際に、あんたを使わされて……、くだされたのかな。
わしぁ、ひとりぼっちで……、誰にも…見送られずに、死ぬんだと……、思ってた」
「あなたは、ひとりではありません」
「そ…だ…ね。わしのために……泣いてくれる…、古い仲間も……いるし。
神官様。あんたも、……泣いて…いなさるね」
それが老人の最後の言葉だった。
二度、三度、胸が大きく上下したあと、苦しみぬいて長い年月を生きた老人の息は途絶えた。
モリスの慟哭まじりの泣き声がひときわ大きくなり、その声に、すすり泣く仲間の声が折り重なっていく。
ローレリアンの頬にも、涙が伝っていた。
瞼が熱くて、喉がつまる。
告解の儀式を続けることなど、とてもできそうになかった。
今はただ、無念の想いを抱いたまま死んでいった老人の手を握りしめて、自分も泣くことしかできなかった。




