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真冬の闘争  作者: 小夜
第五章 聖王子が宮を離れて
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7日目 夜明け前 その1

 そろそろ夜明けが近い、残夜と呼ばれる頃合いだろうか。


 暗がりで目を開けたガイ・ボージェは、手探りで背嚢からブリキの缶を出した。夜明け前は一日のうちで一番気温が下がる時刻だ。仮眠に入る前、寒気に体温を奪われないよう防寒対策はしっかりしたはずなのに、指先が冷え切っていて感覚がない。


 何度か失敗したあと、やっと缶のふたが開いた。中からマッチを一本つまみ取って、石壁に擦りつけようとしたら、これもうまくいかない。指に感覚がないから、力加減が分からないのだ。いらいらしながら何度か挑戦したら、やっと細い軸木に火がついた。


 黄燐が燃焼する煙でむせそうになりながら、安全灯に火を移す。坑道で使用する特殊ランプは、横風にも強いので重宝する。


 マッチも便利な発明品だ。まだ王都周辺でしか手に入らない代物だが、こんなに簡単に火がつく道具は他にない。あと何年かたてば、全国で手に入るようになるに違いない。


 安全灯の明かりをたよりに、まずは時計を見る。


 午前5時すぎ。冬の夜明けはまだ数時間先だが、深夜に荒れ狂った嵐はおさまってきている。彼が避難したのは街道沿いの小さな農機具小屋だ。隙間だらけのドアからは、容易に外の様子をうかがい知ることができた。


 この程度の雪なら、行動を再開しても大丈夫だろう。


 そう判断して、外してあったカンジキを、もう一度ブーツの上に縛りつけた。


 立ちあがって足踏みをして紐の結び目にゆるみがないかを確認。凍えた指で縛った割には、しっかり装着できている。


 ポケットからコンパスを取り出して、方角を見る。大丈夫だ。地図とコンパスがさし示す方向は、まちがいなく一致している。昨夜はいよいよ道を見失いそうだという状況になるまで、かなり無理をしてしまった。


 雪は小止みになってきているが、冷え込みがひどい。ガイの身体は指先だけでなく、爪先や鼻先、耳先といった末端部分のすべてが氷のように冷たかった。大気にさらされている頬は、こわばって痛む。だが、この冷え込みは自分に幸運をもたらしていると、ガイは思った。


 この地方の雪は天気が良いと、すぐに溶けだしてしまうのだ。一晩の嵐で腰の位置まで積もった新雪に日光があたると、ゆるんだ雪に身体が埋まってしまうため、人は移動できなくなってしまう。凍ってくれていた方が雪の上を渡って歩いていけるので、移動には都合がよいのである。


 夜明け前に行動開始するのも、雪が凍っている時間になるべく移動距離を稼ぐためだ。


 闇の中で雪原を移動することには危険も伴うが、ガイは一刻も早くメイデンにたどり着く決心だった。


 ガイが鉱山から出発する直前、ローレリアン王子は彼を神殿の聖具室にそっと呼び込んだ。彼に周辺を見張らせながら密書を閉じる封蝋に王子の印璽を押すためだったが、そのあとの王子の行動にガイはあわてた。


 密書をガイに渡しながら、王子は変装用の眼鏡を外し、吸い込まれそうになるほど美しい水色の瞳でガイを見つめてきたのだ。


 そして、言った。


「ガイ・ボージェ。くれぐれも無理はしないように。天候が悪化して、これ以上進むのは危険だと判断したら、自分の身の安全を優先しなさい。食料は節約すれば一週間はもつし、この天候だ。王都で鉱山攻撃の王命が出たところで、現地に命令が届くまで4、5日はゆうにかかるだろう。急ぐ必要はない」


「わたくしの身を案じてくださる必要などございません」と答えようとしたら、口を開く間もなく、ガイの頭は王子の両手で抱きよせられてしまった。ガイの身長は王子より頭ひとつ分高かったから、身をかがめて王子の肩に自分の頭を預けるはめになったのだ。驚いたなんてものではない。


 ガイは王家の密偵を代々務めてきた特殊な家系の出身だ。子供のころから体術の訓練に明け暮れ、命令には絶対服従するよう教育されてきた。そういう人間が王族の前に直接姿を現すことなどめったにないし、あったとしても平身低頭で床にひざまずき、視線をあげることすら許されないのが通例だ。


 それなのに、この王子は、ガイの頭を抱きながら言うのだ。


「オトリエール伯爵領の反乱は、この国を導く立場の人間にしてみれば、恥以外のなにものでもない。こんな事態のためだけに、お前のような優秀な者に、命の危険など冒してほしくないからね。無事に帰ってきなさい。あなたの行く道に、神々の祝福があるように」


 恐れ多くも、頬と頬が触れ合った。


 身をはなす瞬間、王子はもう一度ガイの目を見て微笑まれた。


 とても優しく、微笑まれた。


 ガイの心は、驚きと、混乱と、畏怖の念で乱れた。


 こんな王族には、今まで会ったことがない。


 密偵など、人をだまし、陥れ、時には暗殺まで請け負う、汚れた人間だ。


 その密偵にむかって、お前は優秀だと言ってくださる王族など、いはしなかった。


 道行きの心配をして、祝福を下さる方などいなかった。


 そもそも食料の在庫の見積もりは、一日二回の食事を配って5日分ではなかったのか。その食料をさらに節約して7日もたせるということは、王子も反乱民とともに、少ない食事に耐えるということなのか。あの王子が自分だけ十分な食事をするとは思えない。ガイの身の安全とひきかえに、王子も飢えに耐えようというのか。


 王族とは君臨する者だ。君臨する者は、けして人前で自分の膝を地につけたりしない。でも、あの王子はちがう。床から立ちあがれない老婆がいれば、そばにひざまずいて話を聞く。母親が幼子に祝福をと願えば、子を抱き上げて笑いかける。人々からお話をとねだられれば、話を聞きたがる者たちのそばへ自分から近づいていく。


 ガイにまで、ためらうことなく手を触れてくる。


 王子の側近だって、どうかしていると思う。


 王子の側にいつも控えている若い男は、『王子殿下の影』と呼ばれる凄腕の護衛であるはずだ。あんたは普段は王宮で暮らす、偉い騎士様なのだろう? でっかい手柄をいくつも立てて、輝かしい名誉も手にしているはず。王族の犯してはならない威厳を守ることだって、あんたの責務だ。それなのになぜ、あんたは王子が病人の世話をしに行こうとするのを、止めようともしない? 病人の世話など、一国の王子がする仕事ではない。あいつは、なぜ、王子を止めない!?


 結局、ガイの疑問のすべてに答えを与えたのは、王子の暖かな微笑みだった。


 あの微笑みを思い浮かべるだけで、ガイの胸はねじ切れそうになる。


 聖王子殿下。国の民から敬愛をこめて、そう呼ばれるお方。


 あなた様は、真実、民とともにあろうとなされるお方なのですか。


 オトリエール伯爵に虐げられた民の不幸を嘆き、今日の事態を自らの恥だと憤られる、あなた様。


 あなた様のような方は、いままでおいでにならなかった。


 きっと、これからだって、おいでにならない。


 無理をしてはいけないと、あなた様はわたしへお命じになられたが。


 それは受け入れられない御命令というもの。


 わたしは持てる物すべてをかけて、あなた様の身に降りかかる危険を排除する覚悟。


 その覚悟が結局は、あなた様が守ろうとしているものを、守ることになる。


 荷物を背負い、農機具小屋の扉を開くと、ガイは凍りついた雪原へ足を踏み出した。


 ローザニアは大国。主要街道は国によってつねに保守されている。安全灯を高くかかげると、ちらつく雪のむこうに立つ棒切れが見えた。道が雪に埋まっていても旅人が方向を見失わないように、冬になる前の準備として晩秋から道沿いに立てられる棒である。雪闇の中では、等間隔に立つこの棒切れがガイの命綱になる。


 ざくり、ざくりと、踏み出す足の下で硬い雪が音をたてた。


 吐く息も凍てつき、息を継ぐたびに頬のまわりがこわばる。


 足音と息継ぎの音は、闇の中で無限にくりかえされる。


 その音がガイには、一分一秒でも早く密書を目的地へ運べと急き立てる、己の心の声のように聞こえていた。

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