5日目 北の街ブラン(後編)
さきほど道化師なみの鮮やかさで滑稽な落馬をやってのけた雪まみれのアレンは、ローレリアンが馬から降りるなり、興奮しきった様子で胸ぐらをつかんできた。
ここでもまた、ローレリアンはアレンの役者ぶりに感心した。
ローレリアンの胸ぐらをつかむ手には、これでもかというほどの力がこめられているのに、アレンの態度自体は理不尽なご主人様に取りすがる召使そのものだったのだ。物陰からこちらの様子をうかがっている人間の眼には、自分達の様子はただの旅の主従の内輪もめくらいにしか見えていないだろう。
眼だけで怒っている召使は、話している内容が周囲に聞こえない小声で、主人に抗議してくる。
(この大馬鹿野郎!
いきなり街の住人を刺激するような暴挙に出やがって!
いま、おまえの護衛をできる者は俺しかいないんだぞ!
物陰に俺の部下が配してあるプレブナンの街中と、ここは違うだろうが!
大勢に周囲を取り囲まれでもしたら、どうする気だ!)
ローレリアンは唇だけで、うっすらと笑った。
(大丈夫だ、アレン。
かつてわたしが、勝算のない暴挙になど走ったことがあるか?
わたしがどういう男であるかは、おまえが一番、よく知っているはずだがな)
アレンの拳から、力が抜ける。
いつも王子の側にいるアレンは知っている。
王子の水色の瞳が、こんな風に輝いているときには、いつも奇跡のような出来事が起こるのだ。
何も知らない普通の人々は、その出来事を偶然の僥倖だと思うのだが、じつは王子の緻密な思考と計略から、それらの奇跡は生み出されてきたのである。
(ほら、見てみるがいい)と、ローレリアンは足元に投げ出された遺体のそばに立っている看板を指さした。そこには、まだ新しい紙が10枚ほど貼りつけてある。雪によって紙に書かれた文字が消えてしまわないように、看板には小さな庇までつけてある念の入れようだ。
(これは裁判の経過記録と判決の公示だ。ちゃんとローザニアの法規にのっとって、判事不在のさいに審議が必要な事件が起こった事例として代理判事の選出が行われ、粛々とオトリエール伯爵の裁判が行われたと記載されている)
(反乱を起こした民衆は、自分たちで法廷を開いて伯爵を裁いたのか)
(そのようだ。
起訴内容の記録は3ページもあるぞ。罪状認否を求められたオトリエール伯爵は『おまえたちは嘘を並べ立てて、わたしを陥れようとしている』と答えたようだが。
この期に及んで、厚顔きわまりない男だな。今年の建国節のころには、国の司法機関でも伯爵を逮捕拘留のうえ起訴する準備が整う予定だったというのに。
しかし、証拠固めが済むまで、怒れる民衆は待ってくれなかったというわけだ)
(確かに、過去になされた伯爵の悪行の数々は、極刑に値するものばかりだとは思うが)
(国の司法機関の起訴を待たずに自分たちで行動を起こしたやり方が正しいかどうかはさておいて。
彼らは、あくまでも自分たちの正当性を主張したいんだ。
この公示書を見れば、よくわかる。
じつに素晴らしい内容だよ。
一連の手続きから、裁判の進め方、法律の解釈、専門用語を駆使した記録の取り方。
これは素人には出来ない真似だ。そうとう法律や公文書の扱いに慣れた知識人でなければ、ここまで立派な裁判記録など書きあげられはしない。
つまり、反乱民の中には貧しい人々の切迫した気持ちをあおって、集団としてまとめ、行動を起こさせた扇動者がいたということだ)
(反乱のリーダーか?)
(リーダーが扇動者であれば、この反乱を収めるのは、それほど難しくはないだろう。
問題となるのは、扇動者が別にいて、リーダーが傀儡である場合だ。
そうなると、反乱を収束させる糸口に、なかなかたどり着けなくなる)
(俺たちには、あまり時間がないというのにな)
(そうだ。王都の宮廷貴族たちが反乱の事実を知って、明日は我が身と震えあがり、恐怖に駆られて第9師団を動かしたりしたら……。
考えたくもないな。
自分の身の安全も心配だが。
それよりも、もっと心配なのが、王国軍が反乱民を虐殺することによって、反乱の機運が国中に飛び火する可能性だ。
案外、それこそが扇動者の目的なのかもしれないぞ。民衆の怒りをうまく煽れば、国家体制の転覆だって可能になるからな。
だからこそ、あくまでも正しいのは自分たちだと、扇動者は世間に喧伝したいのだろう)
はあと、大きくアレンは息を吐いた。
(ケツに火がついた気分ってのは、こういうもんなのか)
ローレリアンの瞳から、不敵な輝きは消えない。
(だから、これから扇動者のところへ、案内してもらおうとしているんじゃないか。
扇動者が唯一、法律通りにできなかったのは、処刑後の遺体を見せしめにさらすという行為だ。
我が近代文明国家ローザニアの法律では、処刑された犯罪者の遺体は速やかに検視をすませたのち、所定の共同墓地へ埋葬しなければならないことになっている。
しかし、民衆の怒りは伯爵を私刑にしなければおさまらないところにまで来ていたから、遺体をさらしものにする行為は止められなかったのだろう。おそらく、火あぶりや八つ裂きといった残虐な方法で処刑が行われそうになるのを、くいとめるのが精いっぱいだったのではないかと思う)
(火あぶりに八つ裂きって、いつの時代の話だよ。開祖聖王陛下の御世でさえ、一番重い罪に対する罰は公開での斬首だったのに)
(人は恨みや憎しみの感情に翻弄されると、いくらでも残酷になれる生き物なのさ。人間以外の動物は、食料を得る目的以外で、相手を殺したりはしないだろう。
ここまで明確な正義の主張で反乱を統率してきた扇動者は、頭がよくて自尊心が高いやつだろうと推測できる。
きっと彼は、反乱民の要求をのんで伯爵の遺体をさらしものにせざるを得なかった現実を、野蛮で恥ずべきことだと感じているはずだ。
そのへんの自尊心をくすぐってやれば、伯爵の遺体を埋葬して祈祷をあげた神官に、暴力はふるえなくなる。
うまく誘導すれば、この一連の出来事の正当性を証明しようとして、扇動者みずからが、わたしの目の前にあらわれてくれるにちがいない。それも、紳士的な態度でね)
(だから、さっきおまえは、大声で『我がローザニアは、いつから処刑のあと遺体を見せしめにさらすような、前時代的野蛮国に成り下がったのですか!』なんて怒鳴ったのか)
(そのとおり)
アレンの手が、ローレリアンの外套の襟元から離れていく。
(わかった。頭がいいやつ同士の頭脳心理合戦なんてもんには、俺じゃあ立ち入れねえよ。
黙って、おまえについて行くことにする)
(ぎりぎりまでは、手出しも口出しも無用だぞ)
(承知した)
これで話は終わったとばかりに、ローレリアンは、ほほ笑んだ。しゃべる声の大きさも、周囲に聞こえる程度にもどす。
「では、クローネくん。
あれこれ納得していただけたようなので、お願いしますよ。
すぐそこの神殿へ行って、この街では身元不明者や犯罪人の遺体をどこに葬っているのか、聞いてきてください。
ついでにスコップや遺体を運ぶ手押し車などが借りられたら、なおよろしい。
ああそうだ。雪の上で重たいものを運ぶなら、橇のほうがいいのかな?」
アレンは露骨に顔をしかめた。
「まさか、ユーリ坊ちゃま。
俺に墓穴掘りまでやらせるおつもりなんですか?」
鼻の上からずり落ちた眼鏡を人差し指でもとの位置にもどしながら、ローレリアンはすまして言い放った。
「あたりまえでしょう。
きみ以外の、誰がやるというのですか」
「一人じゃ無理ですって!
お願いですから、手伝ってください!」
「わたしの仕事は、お祈りすることですよ。
つい先ほど、きみだって、そう言ったじゃないですか」
「うっきいい――っ!
ひどい! ひどすぎる!
やっぱりあなたは、召使を酷使する、ろくでもない御主人ですよ!」
「おや、やっとわたしのことを、ご主人様と呼びましたね?」
「そりゃ、言葉のあやというものです!
ついうっかりの失敗です!」
悔しがって、アレンは地団駄を踏んだ。
その背後から、ふいに話しかけてくる者がいる。
「あのう、わたくしはブランの神殿の神官長で、名はサイアムと申します。
失礼ですが、おたく様も、聖職位をお持ちでいらっしゃる方のようにお見受けいたしますが」
「ひゃあ、びっくりした!」とわめくアレンは、もうずいぶんと前から、法衣姿の男がこちらへむかって歩いてきていることに気づいていたが、そんなことはおくびにも出さない。
ローレリアンと神官長の間から飛びのきつつ、しっかり相手の様子も観察する。
半白髪の初老の男であるサイアム神官長は、聖職者同志の初対面の挨拶を行う礼儀としてローレリアンが首に巻いていた襟巻を取るなり、卑屈な笑みを口元に浮かべた。法衣の詰襟についている襟章の色を真っ先に目でとらえ、ローレリアンの職位が自分より上だと見て取ったのだ。
対するローレリアンは、握手の手をさしだし、さわやかな青年の態度で言う。
「朝から騒々しくて申し訳ありません。
わたしは王都より派遣されてまいりました、巡回神殿査察官のユーリ・サントマリと申します。
この度は、ブラン周辺に住まわれる人々の困窮ぶりに御心を痛められました大神官長猊下より、現地へ訪れて様子を報告するようにとの御下命を賜り、視察にまいったしだいです。
どうぞ、よろしくお願いいたします」
重い雲におおわれた北国の空を見あげて、アレンは思った。
―― いつのまに俺たちは、大神官長猊下から御下命を受けた特使になっちまったんだろう? リアンは、貴族のバカ息子から、もう少しましな青年神官へ、役どころを変えるつもりなのか?
王子の身分をかくして人々の中に溶け込むときのローレリアンは、その場その場で状況に合わせて、完璧な嘘の人物へなりきってしまう。市井で育ち、さまざまな経験を重ねてきたローレリアンにとって、架空の人物に成りすますことは、別段難しくもないらしいのだ。
そんなとき、護衛についているアレンは全神経を研ぎ澄まして、ローレリアンが吐きだす嘘を、わが身へ取りこんでいく。自分の芝居もローレリアンの嘘にあわせて変えてやったほうが、二人の言動に、より真実味が増すからだ。
隠密行動の成否は、おたがいの行動を、どこまでフォローしあえるかにかかっている。
その信条は、アレンが『王子殿下の影』と呼ばれるようになってから、ローレリアンとともに築いてきた掟のようなものだった。
王子の肩書を持つ稀代の詐欺師と芝居上手の護衛隊長は、じつはこんなところでも、良き相棒なのであった。




