4日目 宮廷音楽会(前編)
冬の早い日がすっかりくれると、遠く離れた北の地の夜空は重い雲によって闇に閉ざされたが、王都の夜空には冴え冴えとした輝きを放つ寒の月がのぼった。白く優美な姿を月の光に照らしだされたプレブナンの王宮では、いままさに国王主催の音楽会が開かれようとしている。
ローザニア王国第18代国王バリオス3世は文治の王として名高く、さまざまな芸術の庇護者たる慧眼に恵まれた人物であった。王宮で定期的に開かれる音楽会には、国内外の有名な演奏家とともに才能豊かな若手の演奏家も招かれる。その場で国王に認められれば学費の援助や王立劇場歌劇団への入団推薦状がもらえたりするため、ローザニア王国で音楽を学ぶ若者たちは、みないつかは王宮で演奏したいと夢見るのだった。
しかし、音楽会の客席に招かれる貴族たちにとっては、この優雅な催しも、宮廷での人間関係を左右する社交の場でしかなかった。
彼らが気にするのは今夜の演奏家の顔ぶれではなく、自分の席と国王一家の席との距離であり、自分の席の近くに座る貴族の顔ぶれであった。
王室典礼院が彼らの席をどこに決めるかによって、貴族たちは否応なく、その時の自分の立ち位置を確認することになるのだ。いつも演奏会が始まる直前の会場には、これから音楽を楽しもうとする人々の熱気とは別の種類の、異様な緊張感が漂っているのだった。
音楽会は舞踏会などが催される大広間とはべつの、小ぶりな広間で行われる。
広すぎる場所で演奏すると、人の声や楽器の音は艶を失ってしまう。そういうこだわりは、いかにも音楽を愛好するバリオス3世らしいこだわりなのだが、これもまた貴族たちにとっては恐ろしい趣向だ。
小さな会場に入れる人の数は限られるのである。
貴族たちはつねに、次の音楽会が催されるときには自分の席がなくなるのではないかと、おびえていなければならなかった。
招待された貴族たちが会場へ並ぶ椅子にそれぞれ座り、あとは国王御一家の入来を待つばかりとなったとき、王太子妃の後見役であるアントレーデ伯爵夫人は、となりに座る夫と小声で会話していた。
彼女と夫は、宮廷典礼官に案内された今夜の席次に、とりあえず胸をなでおろしたところである。
アントレーデ伯爵夫妻に割り当てられた席は、国王一家のななめ後方だったのだ。国王夫妻のとなりに席を占める王太子夫妻の会話のお相手を務める位置だ。
目の前の空いた席の数を数えながら、夫人はつぶやいた。
「今夜は王太子御夫妻の臨席があるのかしら。
ここ最近の音楽会で国王御一家のお席は、国王陛下と王妃陛下、それにローレリアン王子殿下のための三つであるのが、お決まりでしたわよね」
落ち着かない様子で両手を組みなおしながら、夫の伯爵が答える。
「そうだな。お席が四つということは、王太子御夫妻がおいでになるのかもしれぬ。
ローレリアン王子殿下は、ひどいお風邪を召されて、公務もお休みになられているということだ。聖王子殿下が御欠席ということで、ヴィクトリオ王太子殿下が音楽会へ出てくる気になったのであろう」
「お二人の王子の兄弟仲がお悪いのは、こまったことですわね」
「同席を嫌がって逃げまわっておいでになるのは、王太子殿下のほうだけだがな。
まあ、誰だって、あの聖王子殿下と並べて比較されるのは嫌だろう。
それはそうと、そなたがアディージャ王太子妃殿下の後見役でよかった。
わたしは、てっきり今夜は、国王御一家から遠い席へ追いやられるものだろうと思っていたのだ」
アントレーデ伯爵は深く椅子に沈みこみ、沈鬱なため息をつく。
伯爵の伯父である王国の宰相カルミゲン公爵が体調不良を理由に公式の場へ姿を現さなくなってから、早くも2ヶ月がすぎた。宰相の引退が発表され、国王の次男ローレリアン王子が次の宰相に任命されるのは、もう時間の問題だろうと噂されているのである。
わが世の春を謳歌しつくしたカルミゲン公爵の一族は、誰もが今の地位から追い落とされる恐怖に打ち震えているのだ。
大貴族の夫婦などというものは、夫婦という形式にしばられただけの同居人にすぎないことが多いものだが、いまやアントレーデ伯爵夫妻は沈みかけた同じ船に乗り合わせた同志である。夫の沈鬱なため息に、夫人も同調のため息で答えた。
「気鬱の病にとらわれた王太子妃殿下が、わたくし以外の貴族の夫人と口をきくのさえ怖がられることに、感謝する日が来ようとは、思ってもみませんでした。
聖王子殿下が兄上様に礼をつくそうとなさるかぎり、アントレーデ伯爵家が宮廷から追われることはないはずです」
「いずれにせよ、我がアントレーデ伯爵家の命運は、聖王子殿下のお心づもりひとつに、かかっているということか。
聖王子殿下が、いよいよ兄君の所業にご立腹されて、みずから王位へ着こうとお考えになる日が来ないように、祈るしかないな」
「聖王子殿下のお風邪は、かなり重いのですか」
「そうらしい。
しかし、命にかかわる御病状ではないことも確かだ。
なんでも、片時も王子殿下のそばから離れることがなかったデュカレット卿が、休暇を取って王宮から下がり、ほったらかしにしていた公邸の掃除に励んでいるそうだからな。
連日、家具職人や内装屋が公邸に出入りしていてうるさいと、となりに住んでいるアレッポ男爵がぼやいていた」
「任務のことしか頭にない堅物の近衛護衛士官が、屋敷の掃除ですって?
聖王子殿下から有力者の令嬢と結婚するように、命じられでもしたのでしょうか」
「そうかもしれんな。
アレン・デュカレットは桂冠騎士の称号を持つ男だが、しょせん騎士身分は自分の代かぎりの一代貴族にすぎん。
聖王子殿下がお気に入りの側近に、それなりの肩書を名乗らせたがるのは当然だろう」
じつのところ、アレン・デュカレット卿の公邸に職人を送りこんで改装や掃除に励んでいたのは、王子が留守の間にできることは何でもやろうと誓ったヴィダリア侯爵令嬢モナシェイラだったのだが、そのようなことをアントレーデ伯爵夫妻や他の貴族たちが知るよすがなどない。
モナの思惑通り、宮廷貴族たちは『王子殿下の影』が王宮に不在である理由を彼ら流の思考で解釈し、勝手に納得してしまっていた。宮廷貴族たちにとっては、自身の出世より友情や信念のほうが大切だというローレリアン王子の側近たちの気持ちは、とうてい理解しえな感情だったのである。
伯爵夫妻はそのあと、ローレリアン王子の護衛隊長の悪口を言いあった。
田舎者がいい気になっているだの、時の権力者に媚びるずるい男だのと、さんざんな言い様である。
宰相の引退が間近に迫って権力闘争の敗者になろうとしいている彼らには、その事実が受け入れがたいのだ。
いままでの栄耀栄華が自身の努力から生まれたものではないことなどすっかり忘れて、努力だけで地位を築いてきた若者の悪口を言って溜飲を下げようとする行動など、妬みにとらわれたおのれの愚かさをさらけ出す、醜悪な行いでしかないというのに。
そうこうするうちに時間はすぎさり、いよいよ国王一家御入来のときをむかえる。
典礼官の儀礼丈が床を打ち鳴らす音があたりに響き、客席の貴族たちは、いっせいに立ちあがった。
朗々と響く典礼官の呼び声とともに音楽会の会場へ入ってきた国王夫妻は、今夜も優雅なたたずまいの佳人に見えた。
首をたれ、目の前の空席に国王夫妻が近寄ってくる様子を上目づかいでうかがっていたアントレーデ伯爵と夫人は、そこで際限なく心の奥から湧き出てくる不安にさいなまれる羽目におちいった。
国王夫妻のあとにしがたって、ゆったりと音楽会の会場へ入ってきたのは、伯爵夫妻の予想に反して王太子夫妻ではなかったのである。
若くて美しい肢体を雅な形のドレスで包み、長い引き裾を優美にさばきながら歩いてくるのは、『すみれの瞳の姫君』こと、ヴィダリア侯爵令嬢モナシェイラだった。
令嬢の豊かな黒髪は夜の音楽会にふさわしく結い上げられているが、その髪形はドレスの流れるようなイメージを生かす、今までにない形に仕上げられていた。白いうなじから背中のラインが、じつに美しく見える。
そのうえ髪に飾られているのは、細いリボンと大輪の冬椿一輪のみ。
大きなため息がそこかしこで、漏れ聞こえる。
ため息をついたのは、客席の貴族たちだけではない。演奏家の席で演奏の準備をしていた音楽家や、会の進行役である典礼官や王宮の侍従たちまでが、美しい姫君に見とれているのだ。
必要なのはここだという一点に、たった一輪刺した花の美しさは、音楽会の会場にいたすべての人々のあいだに、言葉にしがたいほどの感動を産んだ。
こんなに印象的で洗練された花の使い方をする女性は、いまだかつてどこにもいなかったのである。
その場にいた貴族の女たちは、みんな自分の贅を凝らしたドレスや過剰な装飾品で飾られた髪を恥かしいと思った。考え抜いて作りあげられた美を目の前にすると、何も考えずに周囲と迎合するだけで自分の装いが美しいと信じていたおのれが、惨めになってきてしまう。
席にたどり着いた国王夫妻は、座る前にふりむいて侯爵令嬢を見た。
その視線には暖かい気配がにじんでいた。
すでに侯爵令嬢は義理の娘として国王夫妻に受け入れられているのだと、貴族たちは嫌でも悟らざるを得ない。
とくに、国王御一家の後ろに席を割り当てられていたアントレーデ伯爵夫妻には、王の横顔がよく見えた。
50歳を迎えた国王バリオス3世の横顔は、とても満足そうに輝いていた。知命の年齢になって国王はやっと、家族に恵まれた幸福を満喫できるようになったのだ。きっと数年後には、ローレリアン王子とモナシェイラ嬢のあいだに生まれた美しく賢い孫を得て、さらに国王は幸せそうに微笑むのだろう。
国王夫妻と侯爵令嬢が着席する様子を見守ったあと、貴族たちも席に着く。
そこでふと、会場中の人間が気づいた。
国王のとなりが、空席であることに。
広間の入り口に立っていた進行係の典礼官が、連絡役の同僚と何やらあわてている。
その様子を遠目に見やった国王は、穏やかな表情をゆがめ、嫌悪の感情をあらわにした。
王の手に、王妃の手が重ねられた。
「陛下……」
夫の心の内を気遣う王妃の呼びかけのおかげで、バリオス3世の横顔に露出した、悪感情の気配はひいていったが。
アントレーデ伯爵の腹の内側では、気分が悪くなるほど激しい勢いで臓物がうごめいている。
王族のために準備された目の前の席は空である。
その空席は、自分の宮廷貴族としての将来に絶望の烙印を押す、ゆるがしがたい現実の証しのようなものであった。
まだ音楽会は始まらないのだろうかと、会場はざわつきだしていた。
しばらく無為な時をすごしたあと会場の扉が再度開き、王宮の侍従の姿をした男が一人、急いで会場へ入ってきた。
姿勢を低く保ち、恐縮をあらわにしながら、その侍従は国王のもとへ歩みよる。
その侍従が誰かに気づいて、アントレーデ伯爵は、ふきだす冷や汗を手の甲でぬぐった。
この男には、面識がある。
王太子ヴィクトリオ付きの実直なる侍従長、ジョシュア・サンズ。
彼は申し訳なさそうに、国王のそばへひざまずいた。
緊張のあまり鋭くなったアントレーデ伯爵の聴覚には、ごく小さな囁き声であるはずの侍従長と国王の会話が、大きく聞こえてくる。
「国王陛下。まことに申し訳ございません。
昼の時点では王太子殿下の御機嫌もうるわしく、音楽の夕べが楽しみであると、おっしゃられておいでになられたのですが。
夕刻ごろより、また御体調の不快がぶり返されまして」
「体裁を取り繕う必要はない。
どうせまた王太子は、酩酊しておるのであろう。
空いた弟の席に、余が弟の婚約者を招待したのが気に入らなかったのか」
「いえ、そのようなことは決して。
すべては、わたくしめの不徳のいたすところでござりますれば」
「もうよい。音楽会を始めよ」
「かしこまりましてございます」
平身低頭で侍従長が下がると、たちまち音楽の演奏が始まった。
国王と侍従長の会話は、すぐ後ろにいたアントレーデ伯爵のもとへやっと届いた程度の小声だったのだが、音楽会の会場に集まっている貴族たちは国王一家の家庭の事情を知っているから、会話の内容を簡単に察することができる。
その事情をあらためて衆目にさらすこともはばかられ、国王の不興を察した典礼官は、あいさつの口上の手順を省略したのだ。
そのくらい、黙り込んだ国王がまとう気配は重苦しかった。
音楽会の一曲目は、楽しい集まりにふさわしい華やかな曲だった。
小編成の楽団の前でクラヴィアの演奏者が軽やかな歌を奏で、伴奏の合奏は舞曲のリズムで明るい雰囲気を盛り立てる。
しかし、音楽会の招待客はみな身を縮め、楽しいはずの音楽を楽しめずにいる。
アントレーデ伯爵の心中には、暗雲が渦巻いていた。
かたわらの夫人も、手元の扇を固く握りしめている。
見合わせる互いの顔には、耐えがたい緊張がある。
夫人が口を開いた。
かすれる声が、伯爵の耳元で言う。
「国王陛下は……、ヴィクトリオ王太子を、いよいよ見限られるのでしょうか……?」
「いや、お怒りではあられるが、この程度のことは、いつものことであろう」
「でも、ローレリアン王子殿下はご結婚によって、ますますその地位を確かなものになさいます。
いまでは、ヴィダリア侯爵令嬢は聖王子殿下の伴侶にふさわしい方であると、下々の民までが認めておりますし。
今後、ローレリアン王子のもとへ期待される王孫などが誕生なされば、愚昧な兄王子はもはや必要ないと、そう陛下はご決断あそばすのではありますまいか?
なんてことでしょう。
わたくしたちの予想は楽観的すぎましたわ。
聖職者のローレリアン王子殿下は兄君からの王位簒奪など望まれないはずだと思っていましたけれど、真実、国王陛下が国の未来を憂えるようになったときには……!」
「黙っていなさい。
おまえの不安はわかるが、そのような話は、ここでするべきではない」
はいとうなずいた伯爵夫人は、はた目からみてもわかるほど顔色が悪く、扇を握りしめた手もかすかに震えていた。
アントレーデ伯爵自身も、先ほどから体の震えをこらえている。
伯父の宰相カルミゲン公爵の進退が決まり、いよいよ栄耀栄華を極めた一族の時代は終わったのだと世間が認識した時、アントレーデ伯爵家はどうなるのだろうかと思う。
頼みの綱としてすがるつもりであったヴィクトリオ王太子夫妻の将来も、きわめて危ういものだ。
自分が国王の立場になって考えてみても、あの兄王子は不甲斐ないと思う。
どうせ後を継がせるならば、優秀な弟王子のほうへ、直接王位を譲りたいに決まっているではないか。
国王が決意したその時には、まちがいなくアントレーデ伯爵家も切り捨てられる。
国王にとっては、愚昧な兄王子を必死になって王太子として担いできた一族など、嫌な過去を思い出させる汚点の象徴のようなものだ。
国政の刷新を望んでいる聖王子も、旧勢力の中心的な存在であった宰相一族を、要職に取り立てようとはしないだろう。
いまあるものを失えば、すべてを失う。
宮廷から追われてしまえば、アントレーデ伯爵家はもう終わりだ。
各種の便宜をはかる見返りに受け取ってきた賄賂など望めなくなるし、追従してくる者がいなくなれば、有利な条件で領地の特産物を買い上げてくれていた商人達も離れていく。たちまち領地の経営も不振におちいってしまうだろう。
これが家系の没落というものか。
―― わたしは、落ちぶれていくわが身を、ただ黙って受け入れていかなければならないのか?!
そう思った瞬間、暗い決意がアントレーデ伯爵の絶望の底に生まれた。
せっかく自分は、支配する側に生まれたのだ。
虐げられても、なすすべもなく、搾取されるだけの平民に生まれたわけではない。
まだ、あきらめるのは早すぎる。
高貴な貴族の血筋に生まれたからには、みずからが支配者たらんと望まなくてどうする。
だれかの後について行こうという、楽をしたがる二番手根性さえ捨てれば、まだ道は開かれるはずだ。
華やかな一曲めの音楽がクライマックスに達し、会場にはやっと、演奏家たちの華麗な技に心躍らせる空気が生まれはじめていた。
クラヴィア奏者が、高音と低音の和音を交互に打ち鳴らす。その響きを受け取り、楽団の演奏も大音量へ入りこむ。
高まる興奮で、客席がゆれた。
アントレーデ伯爵の興奮も、極まっている。
斜め前に座る聖王子の婚約者の、美しくもなめらかな、うなじを見つめた。
この美しいうなじを、わたしが縊時は、はたしてやってくるのか。
だれが勝者になるのかは、最後になってみなければわからない。
それが、宮廷闘争というものだ。
少なくとも、何もせずに、滅びの時を待つことだけはするまい。
たとえ悪あがきであろうとも、アントレーデ伯爵家の総領としての誇りだけは守ってみせる。
我が高貴なる血筋に、わたしは誓う。
誇りを守るためなら、相手と刺し違えてもいい。
我が血が流れるときには、かの者の血も流れるのだ。
―― 万物に宿る神々よ。わたしは望む未来をこの手につかむ、努力をすると誓います。
かくして華々しい音楽のなかで斜陽の陰に怯えていた男は、硬く目を閉じ、燃え立つ想いに身を焦がす。
たとえその望みが、みずからの栄達だけを望む身勝手なものであろうとも、絶望から生まれた熱い想いには、強い力があるのだった。




