国王の結婚 … 3
ローレリアン王子と宰相カルミゲン公爵が優雅な様子で行列の最前列にたどり着くと、タイミングを計っていた典礼官が、王太子夫妻の入来を告げた。
あたりはしんと、静まりかえった。
ヴィクトリオ王太子は貴族たちから尊敬されている人物ではない。しかし、異母弟のローレリアン王子が常に兄を立てる態度でいるもので、貴族たちはおおっぴらに王太子の悪口を言ったりできないのである。かといって内心小馬鹿にしている王太子におべっかを使ってやるのも不愉快なので、自然と貴族たちは王太子の前で無言になってしまうのだ。
青ざめた顔をひきつらせながら、王太子は大広間の中央を足早に進んでいく。彼の豪華な衣装は、不健康な生活のせいでくすんでしまった肌の色や艶がなくてけばけばしい色合いばかりが目立つ赤毛には、あまり似合っていなかった。まるで病み上がりの病人が無理やり豪華な衣装を着せられて、公式の席にひっぱりだされたといった風情である。
その王太子の後ろに小走りでついていくのが、妃のアディージャ姫だった。彼女はいまにも泣き出しそうな顔だ。王太子は妃をエスコートしてやらないばかりでなく、歩調をあわせてやることすらしないのだ。
おかげで皇太子夫妻のあとにつづく侍女や侍従たちも、宮廷作法を守りつつ主から離れないようにしようとして、懸命に足を動かして移動している。そのため行列はやたらと縦に長くまのびして、とても優雅な宮廷人の行列にはみえなくなってしまっていた。
謁見式に集まった貴族たちの上座にいて、その様子をよく見られたヴィダリア侯爵と令嬢モナシェイラは小声で語りあった。
「内海の西岸を支配するイストニアから海を越えて嫁いでおいでになられたばかりのころのアディージャ王太子妃殿下は、まだあどけなさを残した、かわいらしい姫君だったがのう。
それがいまでは、うつろな表情をした陰気な女性になってしまわれた。なんとも痛ましいことだ」
「大国の王女にお生まれになって、いずれはどこかの国の王妃となるべくして育てられた姫君には、いまの現実って、受け入れがたいものなのかもしれませんわね。
ヴィクトリオ王太子殿下は、あいかわらずお酒をすごされてばかりおいでになるという噂ですし。
ローレリアン王子が王都へ帰還されるまでは、王家の唯一の跡取りとして甘やかされていらしたから、女遊びもひどかったのでしょう?」
侯爵は苦笑する。
「王太子殿下と妃殿下のあいだには、姫君がお一人おいでになるだけなのでな。周囲の者たちは王家の跡取りとなる男児を得たくて、王太子殿下の女遊びを黙認しておったのだ。
なにしろ、王太子の閨の相手には、国母となれる身分の貴族の娘や夫人が自薦他薦でひっきりなしに名乗り出ていたからのう。
おまえにも、ローレリアン王子殿下がおられなかったら、ヴィクトリオ王太子殿下のお相手にという声がかりが、あったかもしれぬぞ?」
モナシェイラは、かたわらの侯爵をにらんだ。
「冗談じゃないわ!
もし、そうなったとしても、お父さまがちゃんと断ってくださっただろうとは、信じておりますけれどもっ!」
「仮定の話に、そう怒るな。結局、おまえを望んでくださったのはローレリアン殿下なのだから、それでよかろう」
「もしもの話でも、ぞっとするわ!」
「おまえは感情が顔に出やすいから心配だ。そうやって毛嫌いしておるヴィクトリオ王太子殿下とも、これからは義理の兄妹としてつきあっていかねばならぬのだぞ?」
「やめてください! なるべくそのことは、考えないようにしているんだから!」
侯爵は怒ってそっぽをむいた娘のことを、真実、憂えてしまう。
娘はちゃんと、わかっているのだろうかと。
貴族の女たちがヴィクトリオ王太子のもとへ群がるのをやめたのは、王太子より優秀で王位に近いと思われている異母弟のローレリアン王子が、中央政界へ彗星のごとく現れたからだ。
ローレリアン王子が王都へ帰還されたばかりのころには、王子の寝所へ娘を送りこむ手引きをしてもらおうと、あまたの貴族が王子付き侍従長のところへ心付けの品を贈りに集まったという。
もっとも、「お慰めが必要ですか」という侍従長の問いかけに対して、王子が「わたしは聖職者であるから、一夜限りの相手に慰めを求めたりはしない」と答えたもので、すぐに貴族たちの野望は打ち砕かれてしまったのだが。
王子と侍従長のあいだで、そのやりとりがあったせいで、当初、「第二王子ローレリアン殿下は色事に関心がない堅物だ」という評判が立った。しかし、いろいろあった現在では、「おのれの色事のゆくえにすら深慮遠謀ありとは、さすがはローレリアン王子殿下だ」というところへ、貴族たちの下世話な評価は落ち着きつつある。
なにしろ、ローレリアン王子は妻に望んだ侯爵令嬢を確実に手に入れるため、既成事実を先に作ってしまった男ということになっている。世間は、そういう男を、堅物とは評さない。俗っぽい言い方をすれば、「やるときはやる男」とでも言うのか。
男たちのあいだでは、色事に無関心な男に対する評価は低いものである。性の欲望に背を向けた男に向上心などあるわけがないというのは、ある意味真実なのだ。男たちは、より豊かに、より強くなり、より多くの子孫を残したいと願うから、困難へ立ちむかっていくのである。
そういう意味で男たちは、ローレリアン王子をあらためて見直したわけだ。手に入れたい女を戦って勝ち取った、まともな男として。
―― そして、王子の戦利品であるのが、わが娘であるはずなのだが……。
ヴィダリア侯爵は、しげしげと自分の娘を観察した。
活動的な彼女の体つきは、肉感的魅力にはやや欠けるが、しなやかで優美に見える。豊かな黒髪と南国生まれの母親から受け継いだ紫色の瞳は、とても印象的だ。その瞳は強い意志をもって輝いていることもあれば、おだやかな優しい光に満ちていることもある。
言葉遣いや態度には、人並み以上の知性が垣間見えるし。
楚々とした態度でさえいれば、十分、美姫で通る娘だと思う。
しかし、この娘におとなしくしていろと命じるのは、かなり難しい。
いや、難しいというのは、親の欲目が入った判断だ。
難しいというよりは、そうとう困難だというほうが、妥当な表現だろう。
はて、『かなり難しい』と『そうとう困難』は、どちらがより難しいことをさすのか?
いやいや、とにかく大変だということで……。
考えれば考えるほど、侯爵の心配は大きく膨らんでいく。
ローレリアン王子はいつも冷静で才長けた方ではあるが、このじゃじゃ馬を、うまく御していけるのだろうか。
しまいには背中に冷や汗を感じる、ヴィダリア侯爵である。
老公爵が娘の様子を見ながらやきもきしているあいだに、王太子と妃のあわただしい会場入りは終わった。
大広間の空気はやっと、これから行われる行事への期待感に満ちる。
典礼官の儀礼杖によって、また床が二度打ち鳴らされた。
高らかに至高の人のおでましが告げられる。
「みなさま、拝礼の姿勢にてお待ち下さい。神々の導きによりこの地を国土と定め300年の長きにわたって民人を統べるローザニア王国の国王バリオス3世陛下、ならびに王妃陛下が御入来されます!」
中央の扉が開くと同時に、華やかなラッパの音でファンファーレが奏でられた。七重八重に重なる音は、集まった人々の心をときめかせる。
拝礼の姿勢のままで首をめぐらせて、貴族たちは、ゆっくり入来してくる彼らの王と王妃を見た。
その場に居合わせた全員が、深いため息をついた。
無理な姿勢から王と王妃を盗み見ると、首が痛くなってしまう。しかし、その首の痛みを忘れてしまえるほど、彼らの王と王妃は立派で見ごたえある組み合わせだった。
国王バリオス3世は成人した二人の息子を持つ身で、すで知命の年齢である。聖王歴300年ごろの人の平均寿命は50歳を少し超えたくらいだったので、この歳を超えて生きる人は残りの時間を余生と考えて、我欲を捨てて生きるべきだとされていたのだ。
ところがバリオス3世には、老いの翳りというものがみられない。若いころ美丈夫でならした容色は、深みと重みをまして、いまだ健在だ。そのうえ、音楽、美術、文学といった芸術をこよなく愛する理知的な雰囲気は、王者の貫録に育っている。
その王のとなりを歩くエレーナ王妃も、まだ若くて美しい人だった。彼女がローレリアン王子を生んだのは17の時なので、バリオス3世とはかなり歳が離れているのだ。
前王弟の一人娘として生まれ落ち、俗世のけがれにふれることなく育てられた彼女は、神秘的で謎めいた雰囲気をもっている。宮廷貴族たちは、そんなエレーナ王妃に『王家の百合の花』という尊称を贈っていた。
エレーナ妃が婚礼の衣裳としてまとっていたドレスは純白の絹に見事なレースを重ねてあしらったもので、彼女の高貴な雰囲気を存分に引き立てていた。スカートは後方にむけて長く裳裾をひくようにつくられており、その重みで王妃の足取りが乱れないように、3人の侍女がうやうやしく裾を捧げもって後につづいている。
そのおかげで謁見式の列席者には、王妃のドレスに使われているレースの見事さが、つぶさに見えた。
人々は、ささやきあう。
人の手で時間をかけて編み上げるレースは、腕のいい職人が気の遠くなるような時間をかけて作るものだ。通常、肩掛けくらいの大きさのものを編み上げるのに、凝った意匠のものなら半年くらいかかると言われている。
ならば、この王妃の衣裳を作るためには、どれだけの腕の良い職人が、いったいどれくらいの時間、かかりきりになったのだろうか。
さまざまな問題を抱えていても、やはりローザニアは大国だと、誰もが思った。
たった一度着るだけの王妃の婚礼衣装に、宝石なみに貴重なレースを、これだけ惜しげもなく使えるとは。そのうえ、ドレスにあわせて選ばれたティアラや首飾りの輝きも素晴らしい。
ローザニア王国の国威を見せつける豪奢な装いなのに、エレーナ王妃の清楚なイメージを殺すことがない気品あふれる婚礼衣装を見せつけられて、国内の貴族はもちろんのこと各国の大使たちも、ただただ感心するばかりだった。
エレーナ王妃の姿は、まるで芸術を心から愛してきたバリオス3世の人生と、王としてなしてきた政道の在り方の集大成であるかのように見えたのである。
並び立つ貴族たちの最前列にいたヴィダリア侯爵は、大広間にあふれるため息を聴きながら思った。
我が王は、ここ数年で、ずいぶん変わられた。年老いていく一方の宰相とともに、見えない明日への心配をくりかえしておいでになられたころには、いつもくたびれた顔をされていたのだが。
しかし、いまはちがう。
玉座に登られた王は、落ち着き払った態度で広間に集まった人々にむかって視線を巡らせ、満足そうにうなずいた。
ああして落ち着いていられるのは、やはり英邁なる息子ローレリアン王子を施政の右腕に得られたおかげなのだろう。安心してあとを任せられる跡継ぎをもつことは、王者にとって無上の喜びなのだ。
王と王妃が一段高い場所に置かれた玉座におさまると、礼の号令が解かれて謁見の儀式がはじまった。
まずは、近隣の国から招かれた王女方の挨拶の口上がつづく。
王族の挨拶のやり取りは、金泥で彩られた極色彩の絵を見るような光景だった。それぞれの国の姫君もまた、国家の威信をかけて整えられた絢爛豪華な衣装を身に着けていたのである。玉座の周辺の華やかさは、眼が眩むほどだった。
その場に居合わせた者たちは、自分がローザニア王国の国家行事にかかわれる、ほんの一握りの人間に属していることを誇りに思った。
しかし、そんな貴族の矜持とは無縁の人間が、その場には一人だけいたのである。
「うふふふ」という小さな笑い声を聞いたヴィダリア侯爵は、ぎょっとして、かたわらの娘のほうを見た。
モナは心から嬉しそうに、すみれ色の瞳を輝かせて笑っていた。
「なにがそんなに嬉しいのかね?」と侯爵がたずねると。
「この会場においでになるみなさまったら、全員が王妃様の美しいお姿に夢中なのですもの。もう、嬉しくって、たまりませんわ!
ねえ、聞いて下さい、お父さま。
じつは、あの王妃様の婚礼衣装はね、わたしが、この一週間であわてて準備させていただいたものなんですの」
侯爵は目をむいた。
「おまえが? しかも、一週間だと?!」
「そうよ」と、娘はすました顔で言う。
「国王陛下の御生誕50年のお祝いのためにビヨレ公園に準備されている国内工業製品展示会に出品しようと思って、我が家の領地にある織物工場同士で競作させていた機械織りのレースをかき集めたら、なんとか一週間であのドレスを作れたの。最新型の幅が広いレースを織る機械も稼働しはじめていたから、助かったわ」
ヴィダリア侯爵は、ほほをひきつらせた。
なぜか彼の娘には商才があるのだ。モナが国中から殺到する注文をさばくために、レースを織る機械をヴィダリア侯爵領にある織物工場へ何台か売ったことは、侯爵も知っていた。それによって、娘がさらに莫大な利益を得たことも。
モナは普段の会話と変わらない調子で語った。
「ローレリアン様といろいろあった日の翌日、わたしがエレーナ様のもとへ呼ばれて王宮へ参内したのは、お父さまも覚えていらっしゃるでしょう?」
「ふむ」
「そのとき、婚約が決まったお祝いに何が欲しいものはあるかと、たずねられたの。
エレーナ様は、とても聡明な方でしょう? 『あなたが欲しがるのは、物ではないような気もしているのですけれどね』とおっしゃられて。
だから、思いきってお願いしてみましたの。
ローザニア王国の産業興隆のために、エレーナ様には生きた『広告塔』になっていただきたいって」
侯爵は急に頭痛を覚えたような気がして、額をおさえた。
「そなた、いくら親しくさせていただいているからといって、王妃陛下に、なんと無礼なことを申し上げたのだ!」
「あら、エレーナ様は、大喜びで話を聞いてくださったわよ。宮廷の女官たちがエレーナさまのご趣味など完全に無視して準備していた、きんきらきんの婚礼衣装を着せられるのも、お嫌だったみたいだし。
そもそも、いまの時代、王族はローザニアがどういう国であるかを体現する存在であるべきだと思うの。
今日の王妃様の婚礼衣装のことは、各国の大使が自分の国に持ち帰る情報になるし、新聞の記事にもなるわ。
またきっと国中の女性がレースの婚礼衣装にあこがれて、大騒ぎするでしょうね。
それに、ビヨレ公園の工業製品展示会へ足を運んだ人たちは、機械編みのレースだけじゃなくて、ローザニアのさまざまな工業製品の優秀さに驚くことになるはずよ。
せっせと宣伝すれば、ローザニアは近隣国の中で一番の工業製品生産国になれるわ。
需要が増えれば、生産が増えて雇用も生まれるから、貧しい国民の暮らしも少しはましになるでしょう?
もともと、祝典行事の一環として工業製品展示会を開催する企画をなさったのは、ローレリアン王子殿下とラカン公爵でいらっしゃるけれど。
その企画を成功させるために、女にしかできない応援もあるわよねと、わたしとエレーナ様の意見は一致したってわけなのよ」
あっけにとられた侯爵は言葉を失った。モナは、そんな父親に構うことなく、嬉しそうにしゃべりつづける。
「あーあ、とっとと謁見式やら祝賀会が終わらないかしら。
わたしは一刻も早く一般公開がはじまった『ラカン公爵の鉄の荷車』を見に、ビヨレ公園へ行きたいわ。なんでも、大型乗合馬車5台分の客車を、一台の車で軽々と引くのだそうよ。50カペ払えば、その客車に誰でも乗せてもらえるんですって。
ラカン公爵は、その乗り物に『機関車』と命名なさったそうよ。蒸気機関を積んで自走する車だから、そういう名前になさったそうだけれど、ひねりがなくてつまらない名前ね? もう少しロマンを感じるような名前にできなかったのかしら?」
「モナ……」
力が抜けた父親の呼びかけは、上機嫌の娘の耳には届かない。
「ねえ、お父さま。ローレリアン様がお怪我で臥せっておいでになられたあいだ、回復を信じて黙々と工業製品展示会の準備を続けられたラカン公爵は、その功績を認められて、近々新設される産業省の長官に任命されるそうですわね。
おもしろい方が国政に参加してくださることになるのですもの。わくわくしますわね」
ヴィダリア侯爵の口からは、盛大なため息がもれた。
やはりうちの娘は、普通の娘ではないと。
瞳を輝かせて国家の産業だの経済だのについて語る娘など、世界中探しても、わが娘だけであろう。
「そなたが男に生まれておればな。わしも安心して引退できたのだが」
ぼそりとつぶやいた侯爵にむかって、モナは唇をとがらせて反論した。
「あら、男に生まれたかったなんて、わたしは一度も思ったことがないわ。
あの方と恋をしない人生なんて、考えられないもの!」
そういって遠くを見たモナの瞳は夢見る乙女の瞳そのもので、熱っぽく潤んでいた。
モナの視線の先にいるローレリアン王子は口元にほほ笑みを浮かべ、ゆったりと立って謁見式の進行を見守っている。白い聖者の衣で身を包んで微笑んでいる彼は、力強く人々を導く力と慈愛で抱擁する優しさをあわせもつ、まさに少女たちの夢の中に現れる王子様のイメージの体現者だ。
だから、わしは心配になるのだと、ヴィダリア侯爵はひとりごちた。
わが娘は恐ろしく聡いときもあれば、驚くほど子供っぽいときもある。いまだって、恋焦がれている男を遠目に見て、のぼせているではないか。まだこんなに不安定で未熟な娘が、国家の命運を担う王子の妃として、人々の欲望渦巻く権力闘争の世界へ身を投じていかなければならないとは……。
―― がんばるのだぞ。負けるでないぞ。
こうやって祈るような気持ちになるのは、本日何度目か。
ヴィダリア侯爵はまたもや、大きなため息をついたのだった。