王都に降る雪 … 8
男たちが急いで王子の寝室へ入っていくと、そこには寝間着姿で床にひれ伏す男と、王子の小姓になだめられながら、まだ怒っている侯爵令嬢がいた。
王子の側近たちのほうへ振り返ったモナの目は興奮のあまり潤んでおり、頬も赤く染まっている。
厳しい叱責の声が飛んだ。
「ひどいわ! あなたたち、みんなして、わたしをだましたのね!
リアンが病気だっていうのは、嘘?
彼は、どこへ行ったの!?」
小姓のラッティは、モナの手を握って答えた。そうしていなければ怒ったモナは、可哀想な王子の代役の横面くらい張ってしまいそうな勢いだったのだ。
「モナ様、リアン様のベッドの中にいたこの者は、黒の宮の厨房で働いているロペという男です。
遠目ならなんとかごまかせるくらいには髪の色が殿下に似ているので、殿下の替え玉役を頼んだのです」
「替え玉ですって?」
「はい。病気で寝込んでおいでになる王子殿下の病室から、食べた形跡がはっきり残る食器や排せつ物が運び出されないのは、不自然ですから。
殿下が御寝所にはおいでにならない事実を知っているのは、黒の宮の人間のなかでも、ごく限られた人物だけなんです。秘密を知る者は、少なければ少ないほどよいでしょう?」
モナは表情をこわばらせた。
彼女の足元に寝間着姿で平伏している男は平凡な中年男だったが、髪の色だけはローレリアン王子とよく似ていた。寝具の中にもぐりこんで顔や身体つきをかくしていれば、誰もが彼を王子だと思うだろう。モナですら彼の耳元に唇をよせ、「リアン、眠っているの?」とやるまでは、気がつかなかったくらいだ。
落ち着きなさいと自分自身に言い聞かせながら、モナは王子の側近たちへたずねた。
「こうまでしてリアンの不在をかくしたいのは、なぜなの?」
「そのことに関しましては、わたくしからご説明申し上げます」
メルケン首席秘書官が、首を垂れながら前に出た。
「王子殿下はオトリエール伯爵領で起こった反乱鎮圧の手筈を整えるため、北へむけて未明に旅立たれました。
殿下は、かの地で無用な血が流されないように、穏便にことを収めたいとお考えです。
ですから、宮廷内での権力闘争にしか興味がない貴族たちには、まだこの事件の発生を知られるわけにはいかないのです。
反乱を起こした地方の民は、オトリエール伯爵に迫害されていた人々です。公正な裁判も受けられないまま、問題の本質を深く考えようともしない貴族たちによって、彼らを虐殺させたりするわけにはまいりません」
「そう……。とうとう、北の地で反乱が起こったのね」
その場に居合わせた男たちは、思わずモナに注目した。
彼女が発する言葉の調子には、深い憂いが感じられたのだ。
そして、驚いて彼女を見やれば、いまさっきまで男たちに騙されたといって怒っていたはずの侯爵令嬢は、沈思の面持ちで遠くを見ている。
「殿下が直接ことにあたってくださるというのなら、お任せするのが一番でしょうね。反乱の火の手が他の地方へ飛び火する事態は、どうしても防がなくてはならないもの」
「はい。国家存亡の危機を招くきっかけとは、いつでもささいな出来事であることが多いものです」
答えた首席秘書官は、どきりとひとつ大きく脈打った、自分の心臓の動きに驚いた。じっと彼を見つめている侯爵令嬢の瞳には、悲しみだけでなく、非難の色が宿っていたのだ。
彼女は静かに言う。
「飢えと寒さに追い詰められて、どうせ死ぬなら苦しみの元凶である領主に一矢報いてからという悲壮な覚悟で行動した人たちのことを、『ささいな出来事』なんて言わないでちょうだい」
メルケン首席秘書官の心臓は、どきり、どきりと、胸の中でうごめきつづけている。
しくじったと思う。
美しく真摯に輝くすみれ色の瞳に見据えられると、おのれの心の醜さや貧しさを、すべてさらけ出されてしまったような気持ちになってしまうのだ。
いたたまれず、首席秘書官は深く頭をさげた。
「もうしわけございません。思慮がたりませず」
恥じ入ってかしこまる男に、今度は優しい慰めの言葉がかけられる。
「謝ってくださる必要はないわ。
黒の宮の方々のお仕事は、国家の行く末の大局を見極めることですものね。
わたしは女だから、つい末端の人たちの暮らしのことへ目が向くのよ。
反乱の機運が国中に広がらないよう祈るわ。暴力のあとには、哀しみと絶望しか残されないもの」
さあ、仕切り直しよと、モナは笑った。
「それで? わたしは、何をすればいいの?
あなた方がわたしをここへ呼んだのは、御病気の王子殿下を心配する婚約者という、わかりやすい構図の絵を描いて、宮廷貴族たちへ見せびらかしたかったからなのでしょう?
さっそくこれから予定を調整して、わたしは明日から毎日、ここへお見舞いにくるつもりだけれど。
ほかに、何かしてほしいことはある?
リアンはわたしに、伝言を残しているの?」
モナの笑顔につられて笑い返していたメルケン首席秘書官の顔は、にわかにこわばった。王子を王都から送り出すにあたっての準備は、すべて完璧にしたつもりだったが、こんなところに取りこぼしがあったのかと言葉をにごす。
「その件なのですが……」
出発前の王子は時間に追われていたので、メルケン首席秘書官とは仕事の話しかしていなかったのだ。
まったく、あの殿下の堅物ぶりには、こまったものだと思う。
自分の恋人へのちょっとした気配りくらい、仕事の合間でもできそうなものなのに。「愛している。なるべく早く帰る」と書いたメモを一枚残していくだけで、男女の仲は円満にまとまるはずなのだ。
まさか「伝言も手紙もない」とは言えまい。すでに気分はやけくそだ。またモナに怒られたり泣かれたりしたら、どうにもやりきれない。主の恋人への配慮も秘書官の仕事なのだろうかとの、疑問はわくが。
―― ええい、ままよ! 殿下からモナ様への依頼を、でっち上げてやればよいのだ。
そう決心したメルケン首席秘書官は、流れる水のごとく、とうとうとしゃべりはじめた。
「じつは、本日行われる予定であったローレリアン王子殿下主催の昼食会なのですが。当日になっての中止は、この日のためにさまざまな準備をしてきてくださったであろう招待客の方々に気の毒ですので、そのまま開催してしまうことになっているのです。
黒の宮で行われる昼食会に招待されてローレリアン王子殿下と親しく言葉をかわすことは、いまやローザニア王国の平民のあいだでは、功なり名をあげた者がたどり着ける栄誉の頂点であると思われておりますので。
宴には産業省長官のラカン公爵も出席いたしますので、経済や産業についての情報交換などは問題なく進められます。
しかし、それではいかにも宴に華がない。
宴に招待された人々が欲しているのは、特別な名誉です。
彼らは、よくぞローザニア王国の経済発展に貢献してくれたと、王子殿下からお褒めの言葉をちょうだいしたいのでございます。
そこでモナ様には、ぜひにも昼食会へお出ましいただき、王子殿下の名代として彼らをねぎらってやっていただきたいのでございます」
ふんふんとうなずきながら話を聞いていた侯爵令嬢は、メルケン首席秘書官の演説が終わると、おもしろそうに答えた。
「うーん、それって、本当にリアンの希望なの?」
「……」
いまさら偉そうにしゃべったことを嘘ですとは言いにくい。首席秘書官は黙りこんでしまった。
モナは、にこやかに言う。
「リアンは、物事の裏の裏まで考えぬく人だわ。
だから、わたしを昼食会の主催代理人にするようにとは、命じないと思うのよ。
女が公式の席で男と対等に話すことを、無条件に嫌がる人はまだまだ多いし。
王妃や王の寵妃が国政に口出しするようになったせいで、まずい事態におちいった例なんて、過去の歴史には珍しくもないから。
それにまだ、わたしの立場は臣下の娘であって王子妃ではないわ。公式の場へ王子殿下の代理として出席すれば、さしでがましい女だと批判する人も出てくるでしょうしね。
でも、王子殿下不在の昼食会のけん引役がラカン公爵では、招待された経済界の方々ががっかりなさるだろなというのも、事実なのよね。
やっぱり、黒の宮で行われる行事には、特別感が欲しいわ。
夫婦同伴でおいでになる場合の奥様のほうなんて、王子殿下の御尊顔を直接拝する機会をちょうだいすることこそが、昼食会に出席する最大の目的だし。
その欲求をかなえるためなら、見世物として王子の婚約者を昼食会に出席させるのも、ありよね。
ただ、リアンは、わたしには甘いの。
昼食会にまつわるもろもろの事象を検討しつくしたあげく、『でしゃばり女と批判されないように言動に注意しつつ、招待客を満足させるように美しく装って王子の恋人らしくふるまうなんて、すごく面倒だし疲れるだろうな。かわいそうだから、モナに代役を頼むのはやめておこう』と、結論づけたはずよ。
どう? わたしの推論は、まちがっていて?」
モナから理路整然と推理の根拠を披露されて、首席秘書官はあっけにとられた。男も顔負けの論理的な思考をする貴族の令嬢などというものに、彼は生まれて初めて出会ったのだ。
その驚きをそのまま言葉に乗せたので、彼の返答は、できの悪い芝居の台本を棒読みしたかのようだった。
「御明察のとおりでございます。わたくしめが浅はかでありました。どうか、お許しくださいますよう」
モナは可愛らしく、肩をすくめた。
「まあ、この推論の根底には、以前リアンから『悪意のあるものに利用されたらこまるから、君あてに手紙やメモは書かない』と、宣言されていたってことがあるの。
だから、本当に彼が昼食会の主催代理をわたしに頼みたいと思ったのなら、誰からも文句をつけられないように、正式な命令書が残されているはずなのよ」
「殿下とモナシェイラ様のあいだには、すでに、わたくしどもでは推し量ることもできないほどの信頼関係があるのですね」
けらけらと、モナは笑う。
「そんな、ごたいそうなものじゃないわ。
内心じゃ、わたしは、ふくれているのよ。
愛してるよって書いたメモの一枚くらい、いいじゃないのと、思わない?
リアンって、ほんとに、女心がわかってないのよね」
そこで、王子の小姓のラッティが話に割りこんだ。
「伝言やメモはありませんが、殿下からお預かりした品ならありますよ。モナ様に渡してほしいと言われて、ぼくがお預かりしています」
「あら、そんなものがあるの?」
「はい。これです」
ラッティは懐から柔らかい布で包んだ何かを取りだした。
開かれた包みの中には、銀色の護符があった。
モナはそっと、護符をとりあげる。
見覚えのあるその護符を裏返してみると、本来ならばさまざまな文字で埋まっているはずの金属の表面はなめらかで、中央に一人分の名前だけが、そっけなく刻まれていた。
「これ、リアンの護符ね」
「はい。この護符には殿下のお名前が刻まれていますから、名を隠さなければならない旅には、お持ちになれなかったのです」
護符を両手で握りしめたモナは、メルケン首席秘書官のほうへ向きなおった。
「メルケン首席秘書官。このたびの王子殿下のご旅行には、かなりの危険が伴うのですか」
モナのすみれ色の瞳には、いちずに恋人を思う気持ちがこもっていた。
この瞳に嘘はつけないとおののきながら、メルケンは言いにくそうに答えた。
「どうして、そう思われるのですか」
「この護符は自分が懸命に生きてきた証しだと、リアンは言っていたのよ。
いわば、彼の分身みたいなものなの。
その大切な護符をしまっておかないで、わたしに預けるなんて、まるで形見分けみたいで嫌な感じがするのよ」
「いえ、それは、必ず帰ってくるから待っていてくれという意味でございますよ。
むしろ殿下は、いままで肌身離さずお持ちであったこの護符がモナ様のお守りになればと、考えられたのではないですか」
「いいかげんな気休めは言わないで!
ちょっと考えれば、わかることだわ。
オトリエール伯爵を殺してしまった反乱民のことを、自分たちの保身のことしか考えていない貴族たちは、ぜったいに許さない。
もし、軍隊への出動命令が下ったら、現地にいるリアンはどうなるの?」
「だいじょうぶです。
殿下のお側には、つねに王子の影たるアレン隊長が控えておりますし、他にも複数の護衛を手配してあります。
それに、軍隊への出動命令は下りません。
国王陛下が『貴族たちの暴走は封じる』と、お約束くださいましたゆえ」
王子の護符を自分の胸におしあてながら、モナはうなだれ、震えている。
またしても、メルケン首席秘書官の心臓は大きく脈打ち始めた。
この方は、賢すぎると思う。
モナには、地方で起こった反乱が、これから世間にどういう影響を与えていくのかまで、きちんと予測できているのだ。
そういう方には、どんな慰めも励ましも、ただの言い訳にしか聞こえないだろう。
この方には、無邪気な笑顔が、いちばん似合うのに。何も言ってさしあげられないことが、苦しくてならない。
首席秘書官だけでなく、その場に居合わせた男たちは、みな口を閉ざした。
重い沈黙は、しばらく王子の寝所の中の空気を支配した。
やがて、何かを吹っ切ろうとしているかのように、勢いよくモナが顔をあげた。
大きく開かれたすみれ色の瞳は、いまにもこぼれ落ちそうな涙で潤みきっていたが、その涙がモナの頬に流れ落ちることはなかった。
声の震えを懸命に抑えながら、モナは言う。
「ごめんなさいね。
わたしがぐずぐず泣いたって、なにかが変わることなんかないのに。
離れた場所で彼の無事を祈るだけしかない状況って、思っていた以上に、きつかったものだから。
リアンといっしょに生きていこうって決心した時に、覚悟は決めたはずなのにね。
しっかりしなくちゃ。
きっと、わたしはこれから、何度となく同じ思いをするのよ。
へこたれないで、彼を信じるわ」
音がするほど大きく、息がつがれる。
「よし!
もう大丈夫!
とにかく、がんばるの!」
元気に宣言したモナは、床にひざまずいている男の前にかがみこんだ。
「あなた、お名前はロペさんだったかしら?」
「はい、姫君」
「王子殿下の代役、よろしくね。
ずっと顔をかくしてベッドにいなくちゃならないから、つらいかもしれないけれど。
病人食も、元気な人には、ものたりないでしょうしね。
お見舞いのときには、こっそり何か食べるものを差し入れるわね」
「お気遣い、感謝いたします」
答えながら、ロペは目を丸くして姫君を見あげた。
早くもモナは立ち直っており、唇にはいたずらっぽい笑みが浮かんでいる。そのほほ笑みは、恐ろしく魅力的だった。
「さっきは耳をひっぱったりして、ごめんなさいね」
気安く肩をたたかれて、ロペは思わずモナにたずねた。本来、彼にとっては王子殿下の婚約者様など雲の上の御方なのだが、こんな風に笑いかけられてしまえば、遠慮もなくなってしまう。
「ひとつお聞きしてもよろしいでしょうか。姫君は俺の耳を見ただけで、王子殿下じゃないとお気づきになられたのですか」
首をかしげた男の顔を見て、モナは声を立てて笑った。
「だって、リアンは耳の形まで綺麗なのよ。
一晩中、飽きもせずに彼の寝顔に見とれていた、わたしが言うのだから、まちがいないわ」
「えっ? ひとばん……!?」
ロペは絶句し、顔を赤らめた。それを見た男たちも、いっせいに目を伏せてしまう。
その一晩とは、やはり侯爵令嬢が王子殿下と同衾された夜のことなのだろうなと、彼らは思ったのだ。
それ以上の想像をふくらませないように、彼らは必死で壁紙の模様を数えたり、窓の外の景色をながめたりした。
紳士でいるのは大変だよなと、思いながら。
しかし、騒ぎの中心人物である侯爵令嬢は、自分がとんでもない爆弾発言をしたことになど、気づいてさえいない。嬉しそうに思うことを、そのままさえずるのだ。
「リアンって、本当に綺麗な人よね。
男の人にも麗人と呼べるほど綺麗な人がいるってことを、わたしは彼に出会ったときに、初めて知ったわ。
ああ、思い出すだけでも、ドキドキする!
わたしとリアンの出会いはねぇ――」
力なく、男たちは笑った。
笑うしかなかった。
彼らは怒ったモナに翻弄され、知性と理性の冴えには驚かされ、国を背負う王子の妻となる女の苦しみには同情し、涙にはうろたえ、しまいには邪気のない色気にあてられた。そのあげく、いまは楽しそうなおしゃべりにつきあわされているのだ。
こんなに短い時間のあいだに、くるくる気分が変わる体験をするなど、男にとっては、かなりの珍事である。
後方にいたモナの護衛隊を率いるレミ・スルヴェニール卿は、男たちのあいまいな笑顔を見まわして、「ふん!」と鼻をならした。
「貴卿たちは俺を馬鹿にして笑うが、これでちょっとは、姫様にふりまわされている俺の苦労がわかっただろう」
こくりと、王子の側近たちがうなずくと同時に、モナの大きな声が、あたりに響いた。
「よーし、決めたっと!
リアンが留守のあいだ、わたしは自分に出来ることを、バリバリやるわ。
彼が帰ってきたときに、わたしのほうからも、いっぱい報告できることをつくっておくの。
てはじめは、本日の昼食会ね!
宴の華役を、みごとこなしてみせようじゃないの!」
その宣言を受けて、小姓のラッティは情けない声をあげた。
「モナさまぁ。それでしたら、まずは、お風呂にでも入っていただきませんと」
「あら、わたしのいまの格好って、そんなにひどいかしら?」
モナはあわてて、王子の寝所の片隅に置いてある洗面台へ近づいていった。
鏡をのぞきこんだ瞬間、羞恥の悲鳴がもれてしまう。
スルヴェニール卿や子供達とともに雪合戦に興じたあと、馬を駆って街を駆け抜けてきたモナの髪は、あちこちほつれてぼさぼさだった。襟元のレースだって無残に乱れていたし、スカートにいたっては泥だらけ。
我ながら、なんてひどい有様なのかしらと、モナはつぶやいた。
いまからそうとう時間をかけて大変身を遂げなければ、モナが宴の華になりえないことは、火を見るよりも明らかなのであった。




