王都に降る雪 … 7
それから一時間後、モナはレヴァ川を渡り、王都の西岸の街を馬で走り抜け、丘の上の王宮へかけこんだ。
シムスがモナのもとへ運んできた知らせは、悲しくてつらいものだったのだ。なにしろ最愛の人が悪性の流感にかかって、寝込んでしまったというのだから。
この時代の流感は人々に恐れられる病気だった。薬はまだ漢方薬が主流で高価なうえ、たいした効果も得られなかったから、栄養状態が極度に悪い貧乏人や生まれたばかりの赤ん坊などは、流感にかかるとあっけないほど簡単に死んでいたのである。
ローレリアンは王子で、食事は毎日栄養のあるものを十分に食べている。年齢も、人間が生き物としてもっとも充実した生命力を発揮できる20代だ。だから、めったなことでは流感をこじらせたりはしないはずなのだ。
それくらいは、モナにも、ちゃんとわかっていた。
けれども、理屈によって心配する気持ちが消え失せることはない。
相手のことをとても大切に思うようになると、恋人の苦しみは身体の苦しみだけでなく、心の苦しみまで、手に取るように感じ取れてしまう。
感じ取る苦しみがつのると、どうしても思考は悪いほうへ傾いていくのだ。
広大な王宮の中を走るように通り抜け、黒の宮へ急ぎながら、モナは心の中で叫んでいた。
―― ローレリアンは、いつも働きすぎなのよ!
―― また何日も寝ないで、新しい法律の草案作りとか、やっていたんじゃないかしら。
―― 彼が焦る気持ちは、理解できるけれど。自分が一日なまけると、助けられたはずなのに間に合わずに不幸になってしまう人が、何人も出るのではないかと思ってしまうのよね。
―― 王子の力って、そういうものだから。
―― 彼が行動した結果の影響は、末端のレベルまでたどり着くと、計り知れないものになるから。
―― だから彼はいつでも、一日でも早く、一刻でも早くと、仕事に追い立てられるようにして生きているんだわ。
―― だけど、自分の身体くらい、いたわってほしいのに。
―― 疲れているから、病気にかかったんじゃないの?
―― そういう時にかかった病気って、治りにくいし、悪化しやすいものだわ。だいたい前回の怪我だって、怪我を負った直後に無理をしないで安静にしていれば、あれほどの重症にはならなかったかもしれないじゃない。
―― とにかく、一刻も早く彼のところへ行って、じゅうぶんな休養を取るようにさせなくちゃ。放っておくと、あの人は、ベッドのなかでも仕事をしてしまうもの!
―― 彼は王国のためなら、命を捧げることもいとわない人。何百万もの国民の生活を預かる重い責任から逃げずに、果敢に耐えて努力する人。
―― でもね、そのために怪我や病気の養生を怠って死にかけたりするのは、まちがっているわよ。いまじゃローザニアの国民すべてが、あなたのことを聖王子様と呼んで、したっているの。それに、ご両親やわたしは普通の家族として、あなたを愛して心配しているのよ。
―― あなたはすべての人にとって、大切な人なの。
―― もう、孤独な人じゃないの。
―― そういうことを、ちゃんと彼に伝えなくちゃ。
乗馬服の裾をひるがえし、モナは走る。
その後ろでは、彼女の護衛隊に所属する男たちが困惑していた。
「隊長、どういたしましょう?」
「モナシェイラ様に、もう少し歩調をゆるめてくださいと、お願い申し上げるべきでは?」
護衛隊長のスルヴェニールも、走りながら唸る。
「しかし、急いで黒の宮へお入りになりたい姫君のお気持ちも、わかるしな」
「さようですね」
「しかたがない。おまえらは、姫君の外側を行け。なるべく間をつめてな」
「はっ、了解です!」
上官の指示によって、男たちはモナの周囲に自分たちの身体を使って壁を築いた。
いっしょに走りながら、彼らは極力、モナのほうを見ないようにしている。
女性用の乗馬服のスカートは、巻きスカートになっているのだ。鐙や足にスカートがからむと、落馬のときに馬にひきずられたり踏まれたりするような、命にかかわる事故を起こしかねないので。
おかげで走るモナの後ろ姿には、ちらちらと足がのぞく。
大人の女性の足とは、夫や恋人以外の男には見せてはならないものだというのに。
モナの真後ろを走り、おのれの巨体で周囲の視線をさえぎっているスルヴェニールなどは、目のやり場にこまっていた。
モナは野外で危険な目にあったとき、騎士達に守られるだけのお姫さまではない。自分も最善の行動を取れるように、乗馬服のスカートの下には厚地のタイツと乗馬用のブーツを着用していたのである。
そのぴったりとしたタイツのおかげで、しなやかな膝や腿の裏側が生々しく見てとれる。
スルヴェニールは大人の男だ。
そういうモナの足を見ると、下着姿より、かえって艶めかしいと感じてしまうのだ。
美貌の貴公子ローレリアン王子が愛しげにその足に触れ、喜びに震える姫君の黒髪が寝台に散り広がる様子を、嫌でも想像してしまう。
なにしろ、ローレリアンとモナの関係がまだ清いものだという事実は、いまだにごく少数の人間しか知らない秘密なのだ。王子の側近たちのほとんどは、王子と婚約者はすでに男女の契りを交わした深い仲だと信じている。
おかげで、モナが黒の宮へたどり着くなり王子の私室へ入っていこうとするのを、止めようとする者は誰もいなかった。
首席秘書官のカール・メルケンも、モナに従って王子の居間へ入ってきたスルヴェニールとシムスの顔を見るなり、「やあ、ご苦労だったな」と、何食わぬ様子でねぎらいの言葉を発した。
モナは礼の姿勢をとったメルケン首席秘書官のわきをすり抜けて、奥の寝室へ入っていく。
メルケンは肩をすくめて苦笑した。
彼は自分がモナから、あまりよい心証を得ていないと自覚しているのだ。働きすぎの恋人に、さらに仕事を持ってくるひどい男と、思われているようだと。
苦笑したあとメルケンは、もう一度スルヴェニールを見て目を丸くした。
「スルヴェニール卿、どうされた? ずぶ濡れではないか」
その問いかけを聞くなり、ここまで同行してきたシムスが露骨な失笑をこぼし、むっとして黙りこんだスルヴェニールの代わりに、状況報告をはじめた。
「俺が東岸の街までお出迎えに行きましたら、モナ様とスルヴェニール隊長は、子供達と雪合戦に興じておられたんですよ。
とくに隊長殿は、大活躍でした。
モナ様にむかって飛んでくる雪玉を、剣のごとく振りまわす棒っきれでもって、ことごとく叩き落としてしまわれて。
くだけ散った雪が自分にかかることなど、ものともせずにです」
メルケンはシムスとともに声をあげて笑った。
「それで、ずぶ濡れなのか! 雪のおかげで大変でしたな、隊長殿」
ぶすりとふくれた護衛隊長は、低くつぶやいた。
「天気が雪だろうと晴れだろうと、大変なのは毎日変わらん。
殿下も、とんでもないお方に惚れてくださったものだ」
くつくつ笑いながら、メルケンとシムスは交互にスルヴェニールをからかう。
「いやいや、殿下のお相手は、モナ様くらいでないと務まりません」
「きっと殿下は、一生退屈なさらないでしょうね」
「今日だって、お元気なモナ様のおかげで、御病気の殿下のもとへなりふり構わず駆けつけておいでになる婚約者様という、おいしいパフォーマンスを宮廷中に披露できましたし」
「はあ? なんだ、それは?」
スルヴェニールがまぬけ面で疑問を口にした瞬間、王子の寝室から大きな悲鳴が聞こえた。男の声である。悲鳴にかぶる形で、モナが怒っている声も聞こえる。
「どういうことなの、これはっ!」
「痛いっ! 痛いです、姫君! どうか御手をお放し下さい!」
「うるさい! あやうくあんたの耳に、口づけしちゃうところだったじゃないの!
女の操を、なんだと思ってるのよ!
わたしの唇に触れてもいいのは、リアンだけなんだから~~~っ!」
「で、で、ですから、耳をひっぱらないでください!
後生ですから! 耳がとれてしまいます!
どなたか、お助け下さい~~~っ!」
隣室の騒ぎは尋常ならざる様子だった。たがいに顔を見あわせた王子の側近たちは、あわてて扉を開き、王子のもっともプライベートな空間である寝室へ入っていった。




