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真冬の闘争  作者: 小夜
第三章 秋の終わり
18/50

秋の終わり … 3

 モナは背筋をまっすぐにのばして前方を見ていた。


 横鞍(サイドサドル)を使っての乗馬の練習は、今日で三日目をむかえる。やっと両足を馬体の左側に降ろして、優雅に馬へ乗るしぐさも様になってきた。


 内緒の話だが、いままでは女性用の乗馬服を着ているときも馬の背に普通の鞍を置いて、そしらぬ顔で馬にまたがっていた彼女なのだ。しかし、ローレリアン王子との婚約がまとまって妃殿下となる身となれば、さすがに、もう馬へまたがって乗ることはできなかった。


 そもそも馬術とは馬との一体感がなによりも大切で、馬の自由を拘束する手綱や痛みを与える鞭は、どうしても困ったときにだけ使う補助的な道具にとどめておくべきだとモナは考えている。


 馬に意思を伝える手段でもっとも有効なのは、脚による扶助だ。本当に上手な乗り手は手綱もついていない裸馬の背に乗っても、馬と息をあわせて、わずかなバランスの移動や足の締め具合で自在に馬を動かすことができる。


 横鞍を使って馬に乗るようになると、馬体の両側で足を使うことができなくなるから、自分が理想とする乗馬ができなくなると思って、モナはかなりがっかりしていたのだ。世間からはしたないと言われても男装で馬にまたがってやろうかしらとまで悩んだけれど、自分が突飛な行動をとると、結局のところ笑い者になるのは夫になるローレリアンなのだということくらいはわかっている。だから、気ままな乗馬スタイルはあきらめることにした。


 なにしろ、王子妃になれば、嫌でも王室主催の狩猟会などに参加しなければならなくなる。狩猟会に参加する女性は男たちの応援団のようなものだが、遠目から獲物を追う集団をながめたり、先回りした狩猟小屋で軽食やお茶の準備をして男たちの到着を待つためには、どうしても馬に乗って他の御婦人方と行動を共にする必要があるのだ。


 そんなおり、「横鞍を使った乗馬の練習をしなければならないのだけれど、どうにも気乗りがしないのよね」と、ぼやいたモナへ、「モナシェイラ様は、先入観にとらわれておいでですね。横鞍を使った乗馬も、そうとう奥が深いものですよ」と答えてくれたのは、御妃教育の日程の打ち合わせに来ていたパヌラ公爵夫人だった。


 そして、公爵夫人はみずから、教師役を買って出てくれたのだ。


 厳格で知られる公爵夫人は、乗馬に関してもスパルタ教師だった。


 横鞍を使って乗馬する場合には、乗り手の右足を馬の扶助に使うことができないので、普通の鞭より長い長鞭を使って右足の代用をすることになっている。


 その長鞭でもって、モナはぴしぴしと、乗馬中の姿勢や動作を直された。


 いかめしい外見の公爵夫人に鞭を使った教育などほどこされたら、普通の貴族の令嬢ならば泣きの涙にくれるだろう。けれどもモナは、「なにくそ負けるものか」で食らいついていった。もともと乗馬は大好きだから、上達の速度も驚異的な速さだ。


 いまも、公爵夫人は満足そうな声で、後ろから話しかけてくる。


「けっこうですね。

 横鞍のうえでの姿勢については、もう何も申し上げることはございません。馬の背骨の上に、まっすぐ身体を起こせていますし、とても優雅に見えますよ。

 横鞍には、バランスで乗るのです。右の太腿への力の置き方をマスターすれば、じつは、長鞭もめったに使う必要がありません。そのへんの感覚は、男性用の鞍での乗馬に精通したモナシェイラ様なら、すでにおわかりだと思いますが」


 モナは大喜びで答えた。


「ええ、わかるわ。

 乗馬の極意は、体重を左右前後にバランスよく配分して、人の重心と馬の重心を常に一致させることだもの。やるべきことは、同じだったのね。

 それに、足を使わずに、どうやって馬へ意志を伝えるのかしらと思っていたけれど、体重移動と声かけだけでも、馬は十分に動いてくれるし」


「乗り手の体重移動は、もっとも馬に分かりやすい扶助法だと言われていますし、声かけは馬との心の交流でもあります。

 なにより、どちらの方法も痛みを伴わない馬に優しい扶助法ですから、馬との親密度がますます深まりますしね。

 横乗りは、見た目だけでなく、その奥義も女性的で、とても優雅な乗馬法ですのよ」


「優雅な乗馬法かあ」と心の中でつぶやきながら、モナは馬場の外を見る。そこには今日も、新聞記者たちがたむろしていた。


 ローレリアンも大変ねと、思う。


 領民から反乱を起こされそうなオトリエール伯爵領の様子を新聞の一面に載せないように、こんなパフォーマンスまでやって見せて。


 数日前に新聞に載った『聖王子殿下のご公務一日密着取材』というタイトルの記事なんて、涙をさそう内容だった。午前5時御起床からはじまって、プライベートな時間など欠片もない忙しい王子殿下の一日が、びっしりと文字で描きだされていたのだ。国民はきっと、自分の国の王子様がいかに働き者かを、十分に理解してくれたはずだ。


 せいぜいわたしも、リアンに協力しなくちゃと思うモナなのである。


 あらためて自分の服装をながめまわす。


 今日モナが着ている乗馬服は、晩秋の朝の気候にあわせたものだ。光沢のあるビロードで仕立てたスカートは馬の背にそってなめらかに動く。襟元に巻いたシルクのスカーフと帽子につけた飾り布には、折り重なる落ち葉をモチーフにしたカットワークをほどこした。帽子の飾り布は、馬が走るときにひるがえる分量を意識してある。


 ローザニア王国の王子の婚約者である自分のファッションは、いまや国中の女性から注目されていると、モナは自覚していた。


 カットワーク刺繍は、あらかじめ刺繍をほどこした布の中を切り取って、美しい透かし模様をつくる伝統の技法だ。この技法は夏になると干ばつに苦しむことが多いドビアーシュ地方の女性の、お家芸とされている。やわらかい絹の布にも透かし模様を描ける、この素晴らしい技法が世間にもっと知られれば、ドビアーシュ地方の人々にも、いくらかの現金収入をもたらせるのではないかと思うのだ。


 できる限り優雅に美しく、風を意識しながら、モナは新聞記者たちの前を駆けぬけた。


 男たちの視線は釘づけだ。


 馬上のモナを見あげて、「ほう」と、なにやら甘い、ため息をついた男までいる。


 思わずモナは、心の中で「よし!」と拳を握ってしまう。


 そのまま大きなターンを華麗に決め、馬場を斜めにつっきって、新聞記者たちが取り付いているのとは反対側の柵のそばで立ち話をしている王子一行のもとへむかった。


 これがパフォーマンスの最後の仕上げだ。


 王子は新聞記者たちに婚約者と仲良くやっているところを見せつけて、庶民が大喜びする派手な記事を書かせたがっているのだから。


 女性的な馬の扱いを心掛けつつ、モナは愛馬に停止を命じた。


 馬の首を優しくたたいて、にっこりとほほ笑み、「どなたか、わたくしを馬から降ろしてくださらない?」と言いながら、男たちの顔を見まわす。


 すると、馬上にいたローレリアンが、ひらりと地面に降り立ち、「わたしがやろう」と応じた。


 柵のむこうにいたアレンの副官が、あわてて柵を乗り越え、モナの馬の轡を取って長鞭を受け取った。


 横乗りは、ドレス姿の女性の優雅な乗馬法だ。馬に乗ったり降りたりするときには、どうしても男性の手を借りなければならない。


 不安定な右足を支えるポメルと呼ばれる支持架から太腿を外し、いったん鞍の上に横座りしてから、滑り降りるようにして地面へ。その際、勢い余って転ばないように、男性が腰を支えたり手を取ってくれたりする。


 運動神経が抜群に良いモナなら、ほんの少しの間だけ介助者の手につかまらせてもらえば、何も問題は起きない。


 けれどもローレリアンはモナの細腰を両手で支え、馬から滑り降りてくる身体の勢いを利用して、そのままモナを自分の懐へ納めてしまった。


 恋人の胸にいきなり抱かれて、モナは頬を赤らめた。


 これは新聞記者へ見せるためのパフォーマンスなのよと自分に言い聞かせるけれど、高鳴る胸の鼓動はおさまらない。


 男の人の胸って、どうしてこんなに広いのかしら。


 体中を使ってしがみついても、まだ余る感じがする。


 腕の力も、とても強くて。


 でも、息が苦しいのは、彼の懐へ抱きしめられているからじゃない。


 心の中のなにもかもを見透かされてしまいそうな、綺麗な水色の瞳に見つめられているから。


 そんなに見つめられたら、気が遠くなってしまう。


 モナは深窓のお姫さまではない。


 男女の愛の営みについてだって、かなり具体的に知っている。


 それなのに実際の経験は皆無に等しくて、恋人にふれられたときに起こる自分の体の変化には、いつも戸惑ってしまう。


 ローレリアンは低い声で言う。


「あまり他の男の前で、魅力的なきみのしぐさを見せびらかさないでほしいな」


 声の振動が彼の胸を通して、モナの身体にも伝わってくる。


 ぞくぞくして、腰が砕けてしまいそうだ。


 それはいかにも恥ずかしい。


 ここは近衛師団の練兵場の中で、王子に抱かれたモナには男たちの視線が、これでもかというほどに集まっているのだ。


 やっとの思いでローレリアンの顔を見あげ、小憎らしい笑顔で言ってやる。


「あら、ひょっとして、嫉妬してくださっているの?」


 ローレリアンは苦笑いだ。


「しているとも。

 そんなこと、できはしないとわかっているけれど、時々、わたしはきみを、どこかへ閉じ込めておきたくなる」


「それはいかにも、無理な注文ね。わたしだって、この頃、とても忙しいのよ」


「こんな場所で、朝早くにしか会えないくらいに?」


「そうよ」と答えた瞬間に顎を片手でとらえられ、小鳥がついばむような調子の、小さなキスをされた。


 不意打ちだ。


 心の準備ができていなかったから、頬に血がのぼる。


 どうしてこうも、恋人のキスの余韻は甘いのだろうか。薄く開いた唇のあいだからすいこむ、冷たい朝の空気までが甘く感じられる。


 モナはうっとりと、まぶたを閉じた。


 ところが、ロマンチックな雰囲気は、初老の貴婦人の尖った声で吹き飛ばされる。


「モナシェイラ様!」


「はい!」


 ローレリアンの腕の中で、モナはしゃっきり、背筋をのばした。


 これは、この3日間で身についた、条件反射のようなものである。


 スパルタ教師のパヌラ公爵夫人は、呼びかけに返事をしないと、容赦なく鞭でモナのお尻や太腿をたたいたのだ。あとが残らない程度に手加減はされていたけれど、やはり鞭でたたかれるのは痛い。


 子供のしつけには鞭が一番よろしいというのは、パヌラ公爵夫人の主義だった。その主義は、たとえ将来の妃殿下が相手であろうと、かわらないのである。公爵夫人は何としても、自由奔放で子供っぽいところがあるヴィダリア侯爵令嬢を、立派なレディに育て上げる決心をしていた。


 自分も馬から降りた公爵夫人は、お小言の口調で言う。


「人前で、王子殿下に馬から降りるお手伝いをしていただくなど、言語道断です!

 王子殿下は国王陛下につぐ、高貴なご身分にあるお方なのですよ!

 このような場合には、そこにいる近衛の者たちに手伝いをお命じなさいまし!」


 勢いづいたまま、公爵夫人はお怒りを王子の側近たちへむけた。


「おまえたちも、礼儀をわきまえなさい!」


 怒られたアレンとスルヴェニールは、いちおう管理職についている人間なので、失礼いたしましたと目礼した。


 しかし、モナの馬の轡をとって、よしよしと鼻づらをなでていたシムスは、ぼそりとつぶやく。


「ちぇっ。俺たちは、殿下がなさりたいように、してさしあげただけなのにさ。惚れあう男女の邪魔するやつぁ、馬に蹴られて死んじまえ~♪って、昔からいうじゃないすか」


「なっ……!」


「きゃっ、痛いっ!」


 公爵夫人は怒りで頬を赤らめたが、同時にモナが悲鳴をあげたもので、その怒りは空振りに終わってしまった。


「いかがなさいました!?」


 あわてた公爵夫人がモナと王子のほうへ視線をもどすと、怒られて王子の懐から離れようとしたモナが、半べそで髪をおさえている。


「髪に何か、からんだわ」


「取ってあげるから、じっとしておいで」


「いけません、殿下。無理にひっぱっては、結ったモナシェイラ様の御髪が乱れてしまいます」


 自分の帽子から抜き取ったハットピンを使って、公爵夫人は器用にモナの髪に絡んだ金属の鎖を外してくれた。


 その鎖は、聖職者でもあるローレリアンが、いつも身につけている護符の鎖だった。乗馬服やフロックコートを着ているときにはチョッキの下に護符を収めているのだが、モナと身をよせあったおりに、髪に絡んでしまったらしい。


 王子殿下の聖なる装身具に直接触れるなど、臣下の者には畏れ多いことである。公爵夫人は丁寧に膝を折って、「ご無礼申し上げました」と詫びの口上を述べた。


「いや、どうもありがとう」と、ローレリアンは優しくほほ笑む。


 おそらく公爵夫人は白皙の美貌と讃えられる王子殿下の微笑を、初めて間近で見たのだろう。言葉を失って、眼を見開いている。


 王子の側近たちは、こっそりと、失笑を噛み殺した。


 聖王子、恐るべしである。


 その微笑によって恋に落ちる女は、幼児から老婆まで、じつに幅広い年齢層におよぶものらしい。


 モナはといえば、少々面白くない。


 彼女にだって、ささやかな嫉妬心はある。プライベートでいっしょにいるときくらいは、ローレリアンの笑顔を自分だけにむけさせておきたいのだ。


 それに、いい迷惑だわ、とも思う。


 ローレリアンの微笑に籠絡された公爵夫人は、きっとこれから、ますます張り切ってモナを立派な御妃に育てようとするだろう。聖王子殿下のおんために、がんばりますわと。


 大きなため息をついたら、それをローレリアンに見とがめられてしまった。


「やっぱり、早朝から乗馬なんて、疲れるんじゃないのかい?

 きみまでここへひっぱりだしたのは、失敗だったかな」


 大手を振って毎日恋人と会える、ありがたい口実を失ったら大変だ。モナは焦って、ため息のいいわけをした。


「疲れてなんかないわ。

 体を動かさないほうが、わたしは、よほど疲れるのよ。

 いまのため息は、乗馬の練習をするためにも髪をきちんと結わなければならない立場になったのが、ちょっと面倒くさいなと、思っただけなの。心配しないで」


「ならいいが」


 釈然としない様子のローレリアンの気持ちを他にそらしたくて、モナは偶然気がついたことを、明るくまくしたてた。


「ねえ、リアン。

 たったいま気がついたのだけれど、あなたの護符の裏側には、あまり文字が刻まれていないのね」


「ああ、これか」


 ローレリアンはチョッキの下にしまおうとしていた護符を、もう一度取りだして、手のひらの上で裏返して見せた。


 ローザニア神教のお守りとされる護符は細身の楕円形をしており、表には持ち主の生まれ月の守護神とされる季節の神の象徴が掘りこまれ、裏には古語の飾り文字で、持ち主の名前と両親の名前、そして名付け親となった神官の名前が掘りこまれる。


 乳幼児死亡率が高かった時代には、いつ死ぬかわからない乳飲み子はまだ神々の子供とみなされていたから、護符は一歳の誕生日を迎えて無事に人の子となったことを祝って、両親から子供へ贈られる大切なお守りだった。


 なにげなくローレリアンの手のひらの上をのぞきこんだモナは、自分がとんでもないことをたずねてしまったのだと気づいて青ざめた。


 ローレリアンの護符は王子の持ち物にふさわしい立派な細工の物だったが、裏側にはローレリアンの名前しか刻まれていなかったのだ。


 自分のうかつさを呪いたかった。


 彼の出生に関する事情を少し考えれば、予測がつきそうなものなのに。


 ローレリアンは歩きはじめたばかりの赤子のころ、何者かに殺されそうになった。いくら調べても王宮の奥深くに入りこんで王子に重傷を負わせた犯人をつきとめることができなかったので、国王とエレーナ妃は息子の命を守るため、死んだと偽って国境の街へ彼をかくしたのだ。だから、ローレリアンの護符には、両親の名や名付け親の名が刻めなかったのだろう。

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