秋の終わり … 2
王都で発行される新聞で話題になったロイヤルカップルが愛を育む馬場とは、王宮がある丘の北側のふもとに位置する近衛師団練兵場の馬場のことであった。
この馬場は、あくまでも近衛師団の訓練施設の一部であり、新聞に書かれているようなロマンチックな場所ではない。馬場の周辺には馬房や武器庫、兵士の宿舎などが建ち並び、あたりの空気には人馬が共同生活している場所にふさわしい臭気が満ちている。つまり、動物の排泄物の臭いが。
馬場を囲む柵の内部は、陽光にきらめく霞で視界が悪い。
霜が降りる日の朝は風のない穏やかな晴れであることが多く、気温はもちろんのこと、かなり低くなる。馬場で訓練中の人馬が吐く息は白煙となって、あたりに立ちこめるのだ。そのうえ、馬は人間より体温が高い生き物なので、運動で汗をかくと馬体からも湯気が立ちのぼるようになる。
その霞の中では、複数の馬が訓練中だ。柵にもたれて訓練の様子をながめていた近衛士官のシムスは、かたわらに立つ先任士官のスルヴェニール卿と、訓練の様子の批評をさかんにかわしていた。
「最近、ローレリアン殿下の乗馬姿には、近寄りがたい気品が感じられるようになりましたね」
「そうだな。
最初は暗殺未遂事件のせいですっかり衰えてしまわれた体力を取りもどす目的ではじめられた早朝の乗馬だったが、馬に毎日乗っていると、体幹によい筋肉がつくからな。立ち姿も、以前に増して美しくなられたように思う」
シムスは柵についた自分の手で顎を支えて笑う。
「アレン隊長が、つきっきりでご指導申し上げていますからね。うち隊長は剣の腕前だけでなく、銃の扱いも、馬の扱いも、名人級です」
先任士官のスルヴェニールは赤毛の偉丈夫だ。自分の上官に心酔している様子の若いシムスを見ていると、「こいつ、可愛いやつだなあ」などと、思ってしまう。
若手が多い第二王子付き近衛護衛隊の連中が、隊長のアレン・デュカレット卿に絶対無二の信頼をよせる気持ちも、わからないでもないことなのだ。
国一番と称されるアレンの剣の腕前には、近ごろ、ますます磨きがかかってきた。そのうえ、士官学校で主席を貫き通す原動力となった頭の良さと粘り強さは、優れた管理能力として発揮され、彼の仕事の成果に反映している。
スルヴェニールは、王子の馬と並び立つ、もう一騎の姿をながめやりながら、ひとりつぶやく。
―― 俺様だって『一流』の近衛士官だが、あいつは別格だ。悔しいが、『超一流』と呼んでやってもよい。
なにしろ、アレン・デュカレット卿は、まだ19歳。30歳目前のスルヴェニールとちがって、伸びしろは無限にある。
つぶやきは、だんだん大きな声になった。
「アレンの最近の落ち着きぶりってのは、なんなんだろうなあ?
自分が19歳だったころのことを思い浮かべると、化け物を見ているような気分になるぞ。あいつと同じ歳ごろの俺は、腕っぷし自慢くらいしかすることがない、無邪気な平隊員だった。
まったくもって、わからん!
女にモテまくっても禁欲を貫ける無愛想加減のおかげで、任務に対する集中力が出るのか?」
シムスは、もたれていた柵に突っ伏して、笑い声を周囲に漏らすまいと、肩を震わせた。
「隊長は禁欲主義者なんかじゃありませんよ」
「やつは童貞だと言っていたのは、おまえじゃないか」
「あれは、取り消します。最近、アレン隊長は歓楽街に出入りされているご様子ですから」
「ほう。とうとう、やつも一人前の男になったか」
「相手は『ポワンの宵の花亭』のフィオーラですよ。
先方から遊びにこいと、誘われたみたいです。
隊長への手紙を取り付いだのは自分ですから、まちがいありません」
「なんだと!? 王国一の美女と噂される、あの、フィオーラか!?
なんて、うらやま……、いや、生意気な!」
スルヴェニールの大声に、冷静な声が答えた。
「だれが、生意気だっていうんです?」
その冷静な声のうしろからは、優雅な調子の忍び笑いの声も聞こえてくる。
スルヴェニールとシムスは柵から離れて、姿勢を正した。
忍び笑いの主であるローレリアン王子は、おもしろそうに馬上から二人の士官を見下ろした。
「じつに興味深い話をしていたようではないか。ぜひ、その続きを聞かせてもらいたいものだ」
憮然となったアレン・デュカレット卿は、王子をにらむ。
「宮仕えの士官の私生活に興味を持たれるなど、一国の王子にあるまじき下世話さだと思いますが」
「なにしろ、わたしは王宮の外で育った規格外の王子なのでね。噂話は大好きだ」
「べつに、かくしはしませんよ。フィオーラは、いい女です。
冬になる前にラカンヘ行くことになったから、餞別代りに遊びに来いと誘われた。その誘いを断る男は、いないでしょう」
「ええええっ!」と、シムスが叫ぶ。
「じゃあ、フィオーラは、もう王都にはいないんですか!」
「ああ。ラカンでカフェを開くという話だぞ。従業員の半数以上を女性にするという約束で、モナ様がいくらか資金援助したらしい。
モナ様は最近、貧しい女性が身売りしなくても生きていける環境をつくる運動を、盛んになさっておいでだからな」
心底残念そうに、シムスは天を仰いだ。
「なんてこった。立身出世を果たして彼女と懇意になるのが、自分の夢だったんですよ……!」
「おまえなあ……」と、アレンは額をおさえる。
「立身出世してかなえる夢が、その程度か!」
陽気なシムスは、胸を張って答えた。
「そうですよ。
だって、聖王子殿下にお仕えするという近衛士官の究極の夢は、もうかなってしまいましたから。あとはひたすら、精進するのみでしょう。
そのほかのささやかな夢は、人生を彩るおまけみたいなものだと思います。
しかし、残念だなあ。
なかなかに輝かしい目標だと思っていたのに。
いつかは俺も、伝説の男『氷鉄のアレン』の穴兄弟、ぶへっ!」
馬上の高い位置から脳天に拳骨を食らったシムスは、頭を抱えてかがみこんだ。
拳を握りしめたまま、アレンは部下に怒声を浴びせる。
「馬鹿者! 調子に乗って、殿下の前で下品な物言いをするな!」
スルヴェニールと王子は、声を立てて笑った。
無愛想な隊長アレンと、冗談好きの副官シムスは、究極の名コンビだ。いつも、おたがいに無いものを補いあって、大勢の部下をうまくまとめている。
ローレリアン王子は、気持ちよく笑ったあと、かたわらのアレンにからかいの目をむけた。神学校の寄宿舎で育った彼は、男ばかりの共同生活がどんなものかもよく知っている。下品な隠語を聞かされたくらいでは、動じないのだ。
「せっかく王国一の美女と懇意になれたのに、残念だったな」
アレンは肩をすくめた。
「いや、かえってよかったと、思っています」
親友が何を言わんとしているのか理解しかねて、王子は真顔になる。
寒気の中でじっとしているのが嫌な様子の馬をなだめながら、アレンは苦笑した。
「俺だって男ですから、時々は、そういう場所にも行きますがね。同じ女とは、二度と寝ないつもりでいるんです。なじみの女なんか作ったら、女にそのつもりがなくても、誰かに利用されかねませんから。
敵にとって、ローザニアの聖王子は、あらゆる手段をつくして狙う価値がある存在です。
護衛隊長の俺だって、すきを作るわけにはいきません」
スルヴェニールが唸った。
「貴卿、任務の鬼だな」
アレンは真剣な表情を同僚へむける。
「当たり前です。我らが王子は、国の命運を担う至高の存在であらせられる」
王子は苦しげに、おもてを伏せた。
「すまないな。わたしとかかわる者は、みな生き様までゆがめられてしまう」
厳しい声で、アレンは答えた。
「殿下にお仕えしたいと望んだのは、俺自身です。
俺も、俺の部下達も、殿下にお仕えして国家のために働けることを誇りに思っています。
大きな使命をもって、なにかをなしたいと望むのは、男子一生の夢です。殿下と同様、我々も、ローザニアのために生きると誓っているのですから、無用の心配はなしにしていただきたい」
「そのとおりです」と、スルヴェニールも同意する。
そのうえ、やっとめまいを振り払って立ちあがったシムスの首を捕まえて、赤毛の偉丈夫は言い放った。
「わかったか、シムス。
男子一生の本懐とは、かくあるべきなのだ!
おまえのちゃちな夢とは、まったく違うぞ!」
首を絞められながら、シムスはわめいた。
「だから、殿下にお仕えするのが自分の一番の夢だって、ついさっき、俺も申し上げたじゃないですか!
あとは、おまけの冗談ですよ!
その場の空気を読んで無愛想な上官をフォローしてまわるのも、俺の任務なんですからっ!」
「おまえがいうと、冗談が冗談に聞こえない」
ぼそりとアレンがつぶやいたので、シムスは大憤慨だ。
「隊長まで、俺のことを軽薄だとか言うんですか!?」
ここで、気を取り直した王子が事態の収拾をはかろうとする。
「怒るな、シムス。個性的な連中の下で苦労しているおまえの大変さは、黒の宮に勤めるものなら、誰でもよく知っているからな」
アレンは冷たく言い放った。
「部下を甘やかさんでください。こいつは必要以上に褒めると、図に乗るタイプです」
王子は遠方に視線をむけた。
「おまえの部下の教育に口出しするつもりはないが、楽しいやり取りは、このへんで終わりにしろ。今日もあそこに、新聞記者が来ている。彼らは庶民が喜びそうな話題を探しているんだ」
馬場の反対側からこちらを見ている男達にむかって、スルヴェニールはうさん臭げな鼻息を吐く。
「近衛師団の練兵場に新聞記者とは、世も末ですな」
王子は苦笑をもらす。
「しかたがない。
近ごろどうも、北がきな臭くてな。
オトリエール伯爵領で起こっている騒ぎに、国民の関心が集まる事態は避けたい。虐げられた領民の蜂起なんてものが、あちこちの地方に飛び火したりしたら、またもや我が国は傾国の危機に見舞われてしまうだろう。
少なくとも、わたしの婚約に関連する話題が新聞種になっているあいだは、北の事態に関する記事が一面に載ることはない。新聞記者たちには、せいぜいがんばって記事を書いてもらうさ」
アレンは、ため息をついた。
「王子というのは、つくづく因果な商売ですね。自分の私生活まで、政治や国民感情の操作に利用したりして。
巻き込まれるモナ様が、お気の毒だ」
ふっと、王子は笑った。
「婚約発表の日取りを少し早めたいと事前に相談したら、彼女は面白がっていたが。どうせなら、同じ馬場で乗馬の練習をしようと言いだしたのも、彼女のほうだし」
「そりゃそうでしょうとも」と、アレンも笑う。
モナ様は、ローレリアンのためなら、なんでもやってのけるだろう。
めちゃくちゃ大変な御妃教育にだって、果敢に立ち向かっておいでになる。おしとやかにふるまう練習なんて、モナ様にとっては、かなり苦手な分野の勉強だろうに。
「あとでちゃんと、ねぎらってさしあげてくださいよ?」
「おまえに言われなくとも、きちんとやるさ」
王子と親友の護衛隊長が見やる先では、二人の女性が乗馬の練習をしていた。
生徒役の若い女性は、ローザニア王国第二王子ローレリアンの婚約者、『すみれの瞳の姫君』こと、ヴィダリア侯爵令嬢モナシェイラだった。




