国王の結婚 … 1
ローザニア聖王歴342年10月吉日。
第18代ローザニア国王バリオス3世の生誕50年を祝うために準備を進めてきた王都の民は、いかにも祝い事にふさわしい澄みきった秋空の下で式典の当日をむかえた。
その日は臨時の公休日と定められ、仕事を休んだ人々は晴れ着で身を飾り、早朝から王宮がそびえる丘の方向をながめては、まだかまだかと胸をときめかせている。
彼らは祝杯をあげる時をまっているのだ。
庭がある家で暮らしている裕福な者たちは庭に、集合住宅でささやかな所帯をもって暮らしている庶民は路上に、間借りした一部屋に家族全員でひしめきあって暮らしているような貧乏人は公共の広場に集まって、それぞれの分にふさわしい祝い酒と御馳走を目の前に広げて。
古来より祝い事は午前中にするがよしとされている。祝い事をすませたあとの宴は、老いも若きも男女もへだたりなく、すべての人々がそろって楽しめる最高の娯楽なのだから。
おだやかな日差しで街を温めながら、秋の太陽はゆっくりと、天空へ登っていく。
さあ、そろそろだろうか。
太陽の高さを目で測りつつ、街のあちこちで気の早い者たちが杯に酒を満たしはじめた、その時だ。
どんと、腹の底に響く爆音が、王都の空気を震わせた。
その爆音は、最初の音の余韻が消える前に、次々と鳴り渡る。
王宮と旧市街を取り巻く城壁の上には、白煙がもうもうとあがっている。
城壁の要所に設けられている砲台で、祝砲が打ち鳴らされたのだ。
祝砲は全部で50発打ち鳴らされることになっていた。
絶え間なく音に震える空気に弾む心をゆさぶられながら、街の人々は喜びの声をあげた。
「国王陛下、万歳!」
「王妃陛下、万歳!」
「乾杯!」
「乾杯! 乾杯!」
「我らが王国の繁栄を願って、乾杯!」
祝いの声は無数に集まって大歓声となる。
その歓声に負けじと街中の神殿の鐘が乱打され、さらに祝砲が鳴る。
祝砲は、国王の50歳の誕生日を祝う式典と同時に、結婚の儀式も滞りなく済まされたことを知らせる合図だった。国王はこの日、めでたくも20余年ものあいだ、この世でただひとり愛する女性として想いつづけた寵妃を、正式な妃として娶ったのである。
祝砲のあとには楽の音と歌声が響き、手を取りあった男女は老いも若きも関係なく踊りの輪を作った。乾杯の掛け声は片時も途絶えることがない。この日を心待ちにしていた王都の民の喜びぶりは、のちの世にまで語り草となるほどの華々しさとなった。
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そのころ王都を見下ろす丘の上にある王宮では、国王の結婚を臣下にむけて宣言するための謁見式が、いままさに始まろうとしていた。
この日のために国中から集まった貴族たちは、宮廷典礼官が案内する序列にしたがって、粛々と大広間へ入場していく。
このような大きな式典のときに、貴族たちの入場の順番を決めるのは大変な作業だった。宮廷に仕える大勢の典礼官の労力の半分は、つねに貴族たちの王国に対する貢献度を比較検討し、何百とある爵位の格付けを明らかにしておくことに費やされている。貴族たちの地位や名誉に対するこだわりをおろそかにすると、ささやかな不満が水面下で拡大して、反乱などの騒ぎに発展しかねないからである。
もっとも、聖王歴300年代に入ってからのローザニア王国では中央集権化がさらに進み、地方貴族の力の衰えが著しく目立ってきている。蒸気機関の普及のせいで物の生産が工場に集約されたために、地方の農村は経済発展から取り残されてしまったのだ。
その時代の流れをいち早く読み取って自分の資産を何らかの産業興隆へ注ぎ込めた者は大金持ちになり、既得権の上に安住してぼんやりしていた者は斜陽の影におびえている。それが王国の貴族たちが置かれている、現在の状況だった。
この謁見式へ参加するために地方から王都へ出てこられる者たちの状況は、まだましなほうなのだ。王都へ上り謁見式へ出るようにという命令は爵位を持つもの全員に発せられるが、国王の結婚を祝う格式の高い場へ参加するための衣裳代や、貴族としての体面を保って王都で数日生活する費用を捻出できないほど経済的に困窮している地方貴族は、病気だ喪中だといった適当な言い訳で体裁を取り繕って、謁見式には出てこない。
「年々、公式行事に欠席する者が増えてきておるな」という父親のつぶやきを、ヴィダリア侯爵家の令嬢モナシェイラは、暗い気持ちで聞いていた。
彼女の父親ヴィダリア侯爵は、ローザニア王国の内務省長官職を拝命しいている国王の寵臣であり、ローザニア王国の舵取り役を長年務めてきた宰相カルミゲン公爵が引退したあかつきには、国王が輔弼の王子として頼みにしている第二王子ローレリアンの相談役として権勢をふるうことになるだろうと思われている人物だった。
そういう人物が謁見式の行われる会場へ入場する順番は、当然のことながら最後のほうになる。大広間のそばにある控えの間には、すでに人影がほとんどなかった。
典礼官がつぎつぎに呼び出す貴族の家の名を聴きながら、モナシェイラは目の前であたふたしている女性に話しかけた。
「アンナお義姉さま。もうすぐ、父とわたしも呼び出しを受けますわ」
相手は興奮しきった顔に、喜色を浮かべた。
「そうね。がんばるのですよ、モナ。
公式発表こそまだですけれども、すでに皆さまは、あなたがローレリアン王子殿下と婚約されることをご存知ですからね。未婚のあなたがヴィダリア侯爵といっしょに謁見式に呼ばれているということが、すでにあなたが王子殿下の伴侶になる方だと認められた証明なのです。
皆さまが、そう思って、あなたのことを見るのですから。しゃんと背筋をのばして、堂々としていらっしゃい!」
この女性はヴィダリア侯爵の長男の奥方で、次代のヴィダリア侯爵夫人となる人だった。彼女はモナシェイラを生んでまもなく亡くなった侯爵夫人のかわりに今日の衣裳の準備などを手伝ってくれたうえ、義理の妹が公式の席で緊張しなくてもすむように付き添い役をすると申し出てくれていた。未婚の女性が宮廷の公式行事へ参加するときには、それなりの地位にある既婚の女性に世話役をたのむのが、貴族の世界の常識だからだ。
しかし、宮廷作法のことなどを知りつくしているはずの義姉は、朝からやけに口数が多い。
なぜなら、彼女は完全に舞いあがっていたのだ。
近々正式にモナシェイラの婚約者となる国王の次男ローレリアン王子は、年老いて引退間近の宰相のあとを引き継いで、王国の次の舵取り役になるであろうと目されている人物である。
この王子の母親は前王弟の忘れ形見という高貴な身分の女性だったが、つい最近まで国王の寵妃として遇されていたので、あまり表舞台には出てこない人だった。
前王弟は権力闘争を嫌い、政治の世界から離れた場所に引きこもって暮らす人だったのだ。そういう人物には当然のことながら、有力貴族の後ろ盾がない。前王の治世から宰相としてローザニア王国の政治の実権を握ってきたカルミゲン公爵が権勢をふるっていた時代に、後ろ盾をもたない王族の姫を後添えの妃に迎えようとすることは、国家の元首であるはずの国王にすらかなえられない望みだったのである。
なにしろ病死した国王の前妻は、カルミゲン公爵の娘だったのだ。国王の舅として権勢をふるっていたカルミゲン公爵が、国王の再婚に同意などできるわけがなかった。おかげでローレリアン王子の母親エレーナ姫は20年以上の歳月を寵妃の身分に甘んじてすごさなければならなかったし、王子自身も庶出の子として冷遇されて育つことになったのである。
しかし、長じて覇気に富み才能豊かな青年となったローレリアン王子は、王子として中央政界へ返り咲いてから、わずか3年ほどで輔弼の王子として国王から頼りにされる国家の重要人物になってしまう。
しかも、そこにまで至った過程はすべて王子自身の力によるもので、誰かに担がれたりした結果ではなかった。
宰相はローレリアン王子の才覚を認め、自分の跡継ぎとして王国の舵取り役を譲るために、王子の母親エレーナ姫を王妃に立てることに同意した。国王とエレーナ姫が正式な夫婦となれば、息子のローレリアン王子にも王位継承権が生じるからである。
その決定は、貴族達をひどく驚かせた。
自身の栄達が人生最大の目標である宮廷貴族たちにとって、引退と同時に国王の舅という輝かしい立場からもしりぞいて、自分のあとを任せるローレリアン王子に王位へつながる道筋を作ってやる宰相の決断は理解できないものだったのだ。
カルミゲン公爵は、もっと有利な条件を自分の親族たちに残してやろうと思えば、いくらでもできたはずなのである。ローレリアン王子に王位継承権を与えなければ、次の国王になるのは、確実にカルミゲン公爵の孫であるヴィクトリオ王太子だったのだから。
つまり、宰相のカルミゲン公爵は、自身が王になり替わろうという野心を持つ人物ではなかったのである。彼は、巨大化する一方の経済規模が制御不能の怪物と化し、富める者と貧しい者の格差が越えられない断崖絶壁にまで育ってしまった現在の王国を、なんとか崩壊の危機から救おうとしてきた愛国者なのだ。
宰相は自身の老いと闘いながら、跡継ぎとなる人物の登場を渇望して待ちつづけた。彼は、今現在の王国を権力欲に取りつかれた愚か者の手に渡せば、たちまち国家が崩壊してしまうであろうという、絶望的な予測すら立てていたのである。
その彼の眼鏡にかなった人物が、国王と寵妃のあいだに生まれ、宰相の思惑のせいで庶子として冷遇されて育ったローザニア王国第二王子ローレリアンであったことは皮肉な事実であった。
もっとも、カルミゲン公爵から王国の舵取り役を引き取ろうというローレリアン王子の側は、公爵からの贈り物を、ありがたがるそぶりすら見せない。当初、双方は敵対関係にあったのだから、当たり前といえばそうなのだが。
宰相は将来国王になるかもしれないローレリアン王子に最良の伴侶を与えようとして、近隣の国の王女との見合いの場まで設定した。愛国者の彼は、盤石の態勢で、王子に自分の跡取りの地位を授けようとしたのだ。
しかし、王子は前任者から恩着せがましくあてがわれる妻などいらないと言わんばかりに、さっさと国内の有力貴族ヴィダリア侯爵の令嬢に求婚してしまったのである。それも、床入りが先という、強引なやり方で。
王子から事後報告を受けた国王と宰相はおおいにあわて、急きょ、ヴィダリア侯爵家には王子と侯爵令嬢の婚約を発表する日取りを相談する使者が送りこまれた。王家に建国当時から仕える名門貴族で現在の当主は国務省長官というヴィダリア侯爵家をないがしろにすることは、国王と宰相のあいだでさえ、できない相談だった。
貴族たちは、好奇心いっぱいで噂しあった。
きっとローレリアン王子は、自分が王国の次の権力者になれたのは宰相のおかげではなく、自身に実力があったからだと主張したいのだろうと。
もっとも、そのあたりはまだ、噂にすぎない。
なにしろ、国王生誕50年と結婚を同時に祝う祝典には、近隣の国から5人の王女が招かれている。この王女たちは表向き近隣国の慶事を祝う使者として招待されたことになっているが、実際はローレリアン王子の見合い相手なのである。その王女たちの目の前で、まさか王子の婚約発表をやってしまうわけにはいかない。下手をすれば、国同士の外交問題にまでなりかねないからだ。
けれども、本日のこの席には、噂の渦中にある侯爵令嬢が呼ばれている。
大きな記念式典の謁見式に列席できるのは貴族の家の当主か、その夫人、あるいは当人自身が高い身分にある女性だけである。それなのに、この場にヴィダリア侯爵令嬢がいるということは、ローレリアン王子との婚約が整ったとの噂が真実であることを証明しているようなものだ。
だから、モナシェイラの義理の姉のアンナは、舞いあがってしまうのだ。
もしも将来、ローレリアン王子が王位につくことになれば、モナシェイラは王妃である。
モナシェイラが王妃になれば、実兄であるアンナの夫も栄達を約束されたようなもの。
そうなれば、宮廷でのアンナの地位も……!
「さあ、モナ。御仕度は完璧ですよ。とてもきれいだわ。
いってらっしゃい。しっかりね!」
ほほを紅潮させながらそういうと、義姉はモナシェイラの背中を前に押した。彼女はまだ侯爵夫人ではないから、謁見式の会場には入れない。
苦笑しながらモナシェイラは、父親がさしだす腕に自分の手をそえた。
父親にエスコートされて歩きはじめると、今日の日のためにあつらえたドレスの裾が軽やかに舞う。今年の春の建国節の舞踏会でモナシェイラ自身が流行のきっかけを作った軽い薄絹のドレスは、礼服のデザインにまで影響を与えてしまっているのだ。
今日は国王陛下のご結婚を祝う式典なので、王妃となる花嫁に遠慮して、ご婦人方は色物のドレスを着る約束になっていた。モナシェイラがまとっている衣装は、彼女の黒髪と紫の瞳によくはえる淡い黄色のドレスだ。スカートの一番上に重ねてある薄絹には、点々と小さなすみれの花の造花が散らしてある。庶民の間で『すみれの瞳の姫君』と呼ばれて慕われているモナシェイラの優しいイメージを生かそうと、義姉が知恵を絞ってあつらえてくれたドレスなのだ。
モナシェイラも年頃の娘だから、綺麗なドレスを着られるのは嬉しい。今日のドレスは、まるで春風のように軽やかに作られているし。
けれども、大広間の入り口が近づいてくると、緊張のあまり手が冷たくなった。
思わず父親の腕をぎゅっと握ったものだから、モナシェイラは立ちどまった侯爵から心配そうにたずねられてしまった。
「大丈夫かね、モナ」
「ええ。なんでもないわ、お父さま」
大きく息を吸って吐き、「さ、まいりましょう。お父さま」と、先をうながす。
すこし首をかしげたモナシェイラの笑顔は、『すみれの瞳の姫君』と人々から讃えられる女性にふさわしい、おだやかな春そのものの柔らかい笑顔だった。
しかし、父親の侯爵には、わかってしまった。
娘は勇気をふるいおこして、懸命に笑顔を作っているのだと。人々の悪意が渦巻く宮廷生活の奥深くへ踏みこんで、これからこの国を背負って立とうとしているローレリアン王子とともに生きていくために。
ローレリアン王子は『ローザニアの聖王子』という異名を持ち、国民のあいだで絶大なる人気を誇る王子だが、彼の支持者は王国の経済活性化を願う平民の富裕層と、王子の華やかな外見や聖職者としての優しい言動に心を動かされている一般庶民に集中している。まだまだ宮廷内には敵が多いし、過激な革命派の活動家などからも命を狙われている。つねに襲撃を警戒して複数の護衛を連れ歩いているというのに、王子自身もつい最近、銃による狙撃を受けて死にかけるという体験をしているほどだ。
そんな恐ろしげな生活の中に、若い娘が飛びこんでいこうというのだ。どんなに心細いことかと思う。
ヴィダリア侯爵は考えこんだ様子でつぶやいた。
「アンナは無邪気なものだな。おまえが王家に嫁ぐことを、手放しで喜んでおる」
モナシェイラは笑顔のままで答えた。
「あら、お義姉さまは、あれでよろしいのよ。一家の主婦が物事の裏の裏まで考えて心配ばかりしていたら、家庭が暗くなりますもの。そんなことになったら、お兄様がお気の毒でしょう?
楽しそうにしていてくださるほうが、わたしも気が楽だし」
侯爵は娘の顔を見て苦笑した。
「まったく、おまえときたら。こういうときには、決まって男のような物言いをする」
娘は、さばさばした表情をしていたのだ。
「これからのことを心配するのは、当事者のわたしだけで十分よ。
王子のところへ押しかけ女房なんて、勝手に決めて行動しちゃったのは私なのだし。
お父さまにも、事後報告で悪かったと思っているわ。
だから、お父さまも、わたしのことを心配なさったりしないでね」
「そうはいかぬよ」
「あら、お父さまはもともと、わたしをローレリアン王子の妃にと、お考えだったのではなくて? 三年前、学問都市のアミテージヘわたしを遊学に出してくださったのは、王子殿下とお見合いさせようという意図もあってじゃありませんか」
「あのころはまだ、わしもローレリアン王子殿下がどのようなお方か、わかっておらなんだのでな。
なにしろ殿下は、宮廷から遠く離れた場所でお育ちになられた方だ。右も左もわからない状態で宮廷生活へもどらなければならないとなったら、普通の神経の持ち主なら、おとなしく貴族の派閥の領袖におさまって、有力者の庇護を受けながら政をなさるであろうと、思うではないか。
わしは手前勝手に、殿下ご自身のことを甘く見ておったのだな。
まさか、みずから親政の体制を作り上げて国家の在り方を変えていこうとなさるほど、ローレリアン王子殿下が覇気に富んだ尤物だったとはのう。
それだけは嬉しい誤算だったが、わしは、こまってしまった。
そんな方のもとへ嫁がせれば、かわいい娘が苦労するのは、目に見えているではないか。殿下が有力貴族からの庇護を拒まれたまま、自主独立の気概でこの先も進まれるというならば、わしがおまえを守ってやることもできぬしな」
「お父さま……」
「モナ。あのころはまだ、何かあれば、わしがおまえを守ってやれるだろうと思っていたのだよ。
だが、いまは状況が、まったく違う。わしはおまえに、こんな大変な思いをさせようとは、考えてもみなかった」
小声で会話しながら歩いていた侯爵と令嬢は、大広間の半ばまで進んでいた。
ふたりの両側には、すでに序列にしたがって整列しおわった貴族たちの人垣がある。
その人垣を形作るすべての人々は、好奇の目で侯爵と令嬢を見ているのだ。この親子はどうやって、時の権力者に登りつめようとしているローレリアン王子に、うまく取り入ったのだろうかと。
色事好きで卑小な感覚の持ち主は、いやらしい目つきでモナシェイラの腹や胸のあたりをながめてもいる。もうあの腹には、王子の種が根付いたのだろうか。あの胸に、王子の手はどのように触れたのだろうかと。
そうした人々の猥雑な視線を臆することなく受け止めながら、モナシェイラは父親へ言った。
「お父さま」
「うむ」
「わたしを型にはめようとしないで、自由に育ててくださって、感謝していますわ」
「そうか」
「おかげでわたしは、ちょっとやそっとのことではへこたれない人間に、なれたと思っているの。
わたし、幸せよ?
だって、ヴィダリア侯爵家の娘に生まれたからには、いつかは家のための結婚をしなければならないのだろうなって、わたしだって覚悟はしていたのよ。お父さまがお勧めになる縁談には必ず政治的に大きな意味があるはずだから、よほどの理由がない限り、拒む気もなかったし。
でも、どうせならお相手の方が尊敬できる方であるようにと、いつも願っていたんだわ」
モナシェイラの口調には、かくしきれない興奮の気配が漂いはじめた。
「ねえ、お父さま。いま、この国に、ローレリアン王子殿下以上に尊敬できる男性が、他においでになると思います?」
侯爵は愉快そうに笑い、自分の左腕に絡んでいるモナシェイラの手を、反対の手で優しくたたいた。
娘は瞳を輝かせて、話しつづける。
「わたしは、おてんばで、はねっかえりで、女としての魅力には、ちょっと欠ける娘だけれど。それでもいいと、あの方は、わたしを望んでくださったわ。
世界中で一番尊敬している人と愛しあえるなんて、素晴らしいことでしょう?
だから、わたし、一生懸命がんばるの。
一生懸命がんばって、この国を守り育てようとしているあの方を助けて、できることは何でもやろうと思うのよ」
切ない響きを帯びた声で、侯爵は答えた。
「そうだな。おまえならばきっと、やりとげることであろう」
「そう思ってくださる?」
「思うとも、モナ。おまえは、わしの自慢の娘ゆえ」
娘は侯爵のかたわらで、心から嬉しそうに笑った。
その笑顔は、侯爵に懐かしいものを思い出させる。
20年前、大陸の中央を支配するローザニア王国と南の大国オランタルのあいだに位置する緩衝国家である小国クランコバールで大きな内乱が起こり、オランタルとローザニアの関係が一発触発の危機に瀕した時、クランコバール王家の命運を担ってローザニアへやってきた王女も、こんなすがすがしい笑顔の持ち主だったのだ。
彼女は自分の使命を自覚して責任をはたそうとする、けなげで美しい姫君だった。
親子ほども歳が離れていたあの姫君に求婚されたときのことを思い出すと、侯爵はいまでも切ない気持ちになる。クランコバール王家に翻意なしと証明するためには、王家の姫が相手国の寵臣のもとへ嫁ぐのが一番だ。かの王女はローザニアの廷臣たちをつぶさに観察し、この人こそと思う相手として、侯爵へ結婚を申し込んできた。
あのとき自分は、年甲斐もなく恋に落ちたのだ。豊かな黒髪と、すみれ色の瞳を持つ姫君に。
彼女を妻にしたときは、嬉しくてならなかった。
産後の肥立ちが悪くて、日がたつごとに病み衰えていく彼女を見守らねばならなかったときには、哀しくてならなかった。
彼女が亡くなったとき、くれぐれも頼むと託された赤子の娘を抱きあげて、侯爵は声が枯れ果てるほど長く、大声をあげて泣いたのだ。
そのとき赤子だった娘が、いま、国の命運を担う男のもとへ嫁ごうとしている。
ヴィダリア侯爵は、娘の手に自分の手を重ねたまま心に誓った。
娘よ、忘れてくれるな。
おまえは誇り高き、王女の娘。
わたしは、彼女の忘れ形見であるおまえを、誰よりも愛している。
おまえがすべてを懸けてローレリアン王子とともに生きようというならば、わたしもすべてを懸けて王子につかえよう。そうすることが、この国の未来を救うことになると、固く信じて。