侍従
さすがにそれ以上のことはなかったが、フィオーレはしばらくの間、ソルクスに抱きしめられ続けていた。
嫌だとは思わなかったものの、まずいとは思っていた。婚約者同士としてぎりぎりの振る舞いだと。
同時に戸惑いもあった。どうして彼はこんなに自分のことを求めてくれるのだろうかと。そこまで想われてありがたく思わないわけではないが、訳が分からない。
たっぷり十分以上はそのままで、ソルクスは名残惜しげにフィオーレを解放した。不可抗力で頬を上気させたのがまずかったのか、フィオーレの顔を見たソルクスは全力で顔を背け、何故だかルミを呼んでいた。第三者がいてくれないと自分が何をしでかすか分からないなどと言って。
そういえばソルクスは何の用で来たのだろうか。用件を確かめそびれたことに気付いたのは、まだ挙動不審なソルクスにおやすみの挨拶をして別れた後のことだった。
なんだか眠る前にいろいろあったが、寝付けなくなるかもしれないという心配は無用だった。着心地の良いナイトガウンが体にしっくり馴染み、心を込めて整えてもらった寝台も心地よく、フィオーレは夢も見ずに朝まで熟睡した。
翌朝、どんな顔でソルクスと顔を合わせればいいか分からなかったが、朝食の席に彼は現れなかった。侍従の伝言によると、朝から予定が入っており来られなかったそうだ。
(なるほど、たぶん昨夜はそのことを伝えにいらしたのね……)
フィオーレは納得した。何をしに来たのかという話だが、用件がどこかへ行ってしまったというわけだ。
ソルクスは大国の第一王子という立場上、多忙なのは当然だ。その彼が折に触れてフィオーレとの時間を取ってくれていることを、ありがたくも、少し申し訳なくも思う。自分は彼からのものと同じ熱量を返せているわけではないから猶更だ。
文句なく美味しいのに一人だとなぜか少し味気ない朝食を取り、食後のお茶を飲み終えたフィオーレに侍従が言った。
「この後は、どうぞご自由にお過ごしくださいと殿下からのお言伝です」
「それは……ありがたいけれど……」
フィオーレは困惑した。昨日も同じような流れになり、昨日は結局ドレスなどの採寸をすることになった。それも用事といえば用事だが、娯楽に近い部分がある。
(もっとこう……色々と求められるものではないの……?)
あれをやっておけ、これを学んでおけ、それが済んだら次はこれだ……そういうふうにモンティスでのフィオーレの日々は埋められていた。
プルーウィスが大国で人材が多いのは分かるが、それだからこそ上に立つ者にも色々と役割があると思うのだが、自由に過ごしていいとソルクスは言う。
(わたくし……ちょっと甘やかされすぎでは……?)
モンティスからプルーウィスへの移動はゆったりとしており、モンティスでの日々でささくれ立っていた神経はそれだけでだいぶ落ち着いた。視察と休憩を兼ねてソルクスはあちこちの町や村で馬車を止めさせ、その土地の名物を求めてフィオーレにくれたり、美しい場所に案内したりしてくれたりもした。子供の時以来の、贅沢な時間の使い方だった。
そうした移動時間を休息に充てられたのだから、プルーウィスに着いてからはいろいろと動くことになるだろうと思っていた。モンティスでのように扱き使われるかどうかはともかく、こんなにのんびりとしたままだとは想像していなかった。
「自由に過ごしていいって、本当に?」
「本当でございます。姫様のご希望はなるべく叶えるように、快適に過ごしていただけるよう心を砕くように、言いつかっております。どうぞごゆるりとお過ごしくださいますよう」
「ええと……」
「恐れながら、姫様はモンティスであまり良い待遇を受けて来られなかったとお聞きしました。プルーウィスに来られたのですから、存分にお心を癒してくださればよろしいのです。殿下はそうしたおつもりのようですので」
(甘やかすにもほどがあるでしょう…………!)
ちょっとどころではなく、甘やかされている。これがアーグムであれば逆で、自分がすべきこともすべてフィオーレに押し付けて働かせただろう。だがソルクスは、フィオーレがここに来たことによる皺寄せもすべて引き受けて、フィオーレがゆったりと過ごせるようにと気を配ってくれている。おそらくは見えないところで、彼にかなり負担がかかっているだろう。
あまりの落差にくらくらとしてしまう。そして、何度となく浮かんだ疑問がまたしても浮上してくる。彼はどうしてフィオーレにこんなによくしてくれるのか。どうしてフィオーレをこんなにも好いてくれているのか。
「あの……」
「はい?」
「殿下のご厚意は非常にありがたく思うのですが、少し戸惑ってしまうこともあって。殿下はいったいいつから、その、わたくしのことを……ご存知だったのでしょうか」
少し言葉を濁してしまった。だがこれ以上は無理だ。そんな直接的な言葉にはできない。いったいいつから自分のことを好きだったのか、なんて。
侍従は少し首を傾げて考える様子になった。
「私が思うに……かなり前からかと。殿下は誰とも婚約を結ぼうとせず、女性と親しくお付き合いなさることもなく、母君の妃殿下に心配されるほどでした。ですがこうして姫様をお連れになり、そのご様子を拝見するに……ずっと前から、姫様を求めておいでだったのだとしか思えないのです。いつからか分からないほど、ずっと以前から」
(ええええ…………!?)
侍従は見たところソルクスと同年代か、少し下くらいだろう。ソルクスと年の近いだろう彼から見ても、いつからか分からないくらいにずっと……なのだという。
(わたくし、そんな昔に……殿下にお目にかかったことなんてあった!? ないわよね!? 姿絵や評判で恋心が掻き立てられたとか……それしか考えられないけれど……)
ますます謎は深まるばかりだ。
そして、違和感がフィオーレの頭をかすめた。




