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追憶

 結局それで半日以上がかかり、晩餐を済ませて湯を使う頃にはくたくたに疲れていた。慣れない頭の使い方だった。そして、慣れない気の遣われ方だった。ソルクスは自分をどこまで甘やかせば気が済むのだろう。そら恐ろしくなるくらいだった。

(ただの、婚約者でしかないはずなのに……)

 フィオーレにとっての彼は、窮地に陥っていた自分を救い上げてくれた恩人だ。母国ロージアのためにも彼の婚約者になることを承諾し、プルーウィスへと来た。半ば以上なりゆきであり、断る余地も、選択の余地もほとんどなかった。

 それなのにこうやってフィオーレの意思や選択を尊重されるのは不思議といえば不思議だ。まるでそれは、フィオーレが彼の婚約者になることだけは有無を言わさない既定のものだったと言わんばかりだ。それだけは譲れない、と。

(彼にとってのわたくしは、いったい何……?)

 湯に鼻先まで沈みながら物思いにふける。鼻先に漂ってきた赤い薔薇の花びらをなんとなく指でつついてみる。

 気まぐれに救い上げた小国の公女、自分の意思ひとつでどうとでも使える便利な駒、なのだろうか。それなら一抹の寂しさとともに割り切るのだが、どうもそれだけではなさそうだ。なんとなく彼に感じている既視感も気にかかる。何度思い返しても、ろくな面識などなかったはずなのに。

 いくら思い出そうとしても心当たりがないので、代わりにフィオーレは昼間のことを思い返してみた。

 ほとんど正装しか持っていなかったフィオーレは驚いたのだが、どうしても必要になる正装ではない種類も、たとえば気軽なお出かけに使いそうなもの、部屋でくつろぐ時のもの、着心地を考えた寝衣、そうした服までもを誂えることになったのだ。

 これはモンティスでは無かったことだった。あの国では必要以上に砕けた格好をすることなどなく、必要がなければ着替えずに正装のまま通し、気を緩められる時間といえば夜の睡眠時間のみだったからだ。簡素な寝衣に着替えて寝台に潜り込んで意識が途切れてメイドに起こされて、の繰り返しだった。寝心地の良い服がどんなものかなどと考えたこともなかった。

 アーグムは夜に遊び歩いていたりしたらしいが、フィオーレはとてもそんな時間などなかった。彼が放り出した執務の皺寄せまでもがフィオーレに来ていたからだ。もちろん彼が仄めかしたように彼と婚前に関係を持つということもなかった。

(そもそもわたくしに魅力が足りなかったからこうなったのでしょうし……。でも、以前はこうではなかったはずなのだけど……)

 フィオーレは人質のようなものではあったが、美貌と聡明さを買われて連れてこられたのだ。事実アーグムも、幼い頃はフィオーレに優しかった。フィオーレを見て顔を赤らめたり花をくれたりした時期もあったのだ。いつからかそうではなくなってしまったのだが。

 フィオーレはアーグムに恋愛感情を抱いておらず、それどころか恋愛感情がどんなものなのかも知らない。それは王妃教育でも教わらなかった。どのみちアーグムの妃になるしかないのだから、余計なことを知らない方がいいだろうとも思っていた。

 年を追うごとにひどくなる彼の行状を見るにつけても、彼の妃になってやっていけるのだろうかという不安がないではなかったが、そうなるしかないのだからと打ち消していた。

 それでもロージアのためと思い、最後の最後まで――婚約破棄を突き付けられたその時まで――踏みとどまれたのは、彼も小さい頃は優しかったという思い出があったことと、もう一つの心の支えのおかげだった。

 湯上りの体を拭い、簡素な寝衣を纏ったフィオーレは、枕元の机の引き出しにしのばせた菓子缶をそっと取り出した。ドレスも宝飾品も化粧品も公女としての必需品で借り物のような気がしているフィオーレにとって、数少ない心からの私物と言えるものだ。

 どんなに豪華な宝石箱よりも大切なこの菓子缶は、小さい頃の大切な友人との思い出の象徴だ。一緒にお菓子を食べた幼馴染のことを思い出しながら、そっと蓋を開ける。中には彼女から貰った手紙を大切に仕舞ってある。

 モンティス王城の庭で出会った彼女は、フィオーレよりも少し年上で、淡い色の金髪と陰りを帯びた瞳をした美しい少女だった。そして誰も寄せ付けない雰囲気を纏っていたが、打ち解けて仲良くなってからは誰よりも優しかった。

 彼女がどこの誰だったのか、名前は何だったのかすらほとんど聞けていない。いつかまた会おうという約束も果たされないままだ。フィオーレは自分の名前も身分も隠していなかったから、彼女からきっと会いに来てくれるはずだと信じているのだが、彼女はプルーウィスにまで来てくれるだろうか。

 何度となく読み返した文面を追い、子供とは思えない流麗な筆跡に改めて感嘆する。S、と記されたイニシャルだけが、彼女の手がかりだ。

 モンティスでの日々を頑張ってこられたのは彼女のおかげだ。この手紙はお守りのようなものだ。彼女と励まし合った過去があるから、つらい王妃教育にもみじめな扱いにも耐えてこられたのだ。

 手紙を大切に仕舞い直すと、ノックの後に侍女がフィオーレを呼ぶ声がした。

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