第6話 セドリックの兄
魔法の授業が終わると、先生は道具を片づけて軽く一礼し、静かに去っていった。
広間に残るのは、運動したあとの心地よい疲れと、水が乾く匂いだけ。
「このあと、一緒に蔵書室に行きませんか」
セドリックが、いつもより少しだけ柔らかい声で言う。
「もちろんです」
即答。推しからのお誘いを断る道理はない。
二人で廊下を歩く。
離れの蔵書室は、中庭の角を曲がった先。
だけど扉の前に、見慣れない影が二つ立っていた。
背の高い男が二人。肩幅が広く、腰には短剣。
……護衛の騎士みたいだ。
この離れには女性と年配の使用人しかいないはず。
眉をひそめた私より先に、セドリックの足がぴたりと止まった。
そのとき、蔵書室の扉が内側から開いた。
ゆっくりと姿を現した男は、金に近い茶の髪を後ろでまとめ、濃い色の上衣を着ていた。
目元はきつく、鼻筋は高い。
セドリックが息を詰める。
「……兄上」
彼の、兄上。
つまり、ギルベルト公爵家嫡男、ダリウス――腹違いの兄。
彼は私たちを見るなり、露骨に顔をしかめた。
「お前か。……そうだな、ここはお前の巣だったか」
巣、て。言葉の刃が雑で鋭い。
男二人の護衛が一歩下がって控える。
ダリウスは蔵書室の中を振り返り、無造作に言った。
「ここの本を取りに来ただけだ。誰が好んでお前のいる屋敷に足を運ぶか」
「……はい」
セドリックの返事は小さく、肩がわずかに震えている。
十歳の頃から続いた苛めの記憶は、体の芯に残る。
セドリックは真面目でしっかりしているが、まだ十五歳の少年だ。
私は一歩、彼の横へ寄った。
言葉を挟むより早く、そっと彼の手を握る。
セドリックがはっとしてこちらを見る。
青い瞳に、一瞬だけ困惑、そのあとに小さな笑み。
大丈夫。私はここにいる。
すると、ダリウスが私に気づいたようで、顎がわずかに上がる。
「ん? お前は」
「アメリアと申します。ダリウス・ギルベルト様にご挨拶申し上げます」
浅く礼をとる。
相手は家の嫡男。形だけでも礼はいる。
「……ああ。お前がこいつに嫁いだとかいう女か」
ダリウスは口の端をゆがめた。
「たしか、遊び惚けて辺境伯家から売られた、と」
淡々と嘲る。唇の先だけで笑う、雑な嗤い。
私は返事をしない。
笑顔を、作る。
確かにそれが真実だし、今の私は前とは違うんだけど、それを言う必要はない。
それに、今の私には不満は一切ない。
むしろ感謝すらしている。推しの妻になれたのだから。
……離縁の予定はあるけれど、それはそれだ。
「ふん、つまらん」
反応がないのが退屈らしい。
だが次の瞬間、彼の目の色が変わった。
「だが、見目はそれなりだ。どれ、俺が遊んでやろうか?」
……セドリックの前で、彼の妻である私を堂々と誘うのね。
その一言に、頭のどこかが冷える音がした。
私は笑みを保ったまま、わずかに顎を上げた。
「お戯れを。私がダリウス様と遊ぶことなど、生涯ありえませんわ。――私はセドリック様の妻ですもの」
はっきりと言葉にする。
軽口を装った侮辱には、軽やかな拒絶がよく似合う。
ダリウスの眉がぴくりと動く。
「遊んでた女のくせに……偉そうに」
靴音を荒くして距離を詰める。
と、私の前に、すっと影が差した。
セドリックが一歩進み出て、私を背に庇ったのだ。
「兄上。彼女は、私の妻です」
低い声。静かだが、芯が通っている。
私の手を握っていた彼の指が離れ、背中で守ってくれている。
「なんだと……! 貴様みたいな穢れた者が、俺に口を利くな!」
ダリウスが怒鳴り、腕を振り上げる。
拳が来る、と思ったその一瞬――。
空気が凍った。
セドリックの指先から、音もなく白い壁がせり上がる。
透明な氷の板が、私とダリウスの間にすっと立った。
拳がその面にぶつかり、嫌な音を立てる代わりに、鈍い衝撃だけが跳ね返る。
「うおっ……!」
壁の向こうでダリウスがよろめき、尻餅をついたようだ。
護衛が慌てて駆け寄る。
「だ、大丈夫ですか!」
「……一瞬で、これほどの壁を……!」
護衛のひとりが低く呟く声が聞こえた。
畏れの混じった感嘆。
これが、セドリックの魔法なのね。
氷壁ごしに、セドリックが短く告げる。
「出て行ってください」
抑揚は乏しい。
だが、逆らいがたい圧がある。
「お、覚えていろよ!」
捨て台詞を吐き、ダリウスは立ち上がって踵を返した。
護衛が慌ただしく後に続き、廊下の向こうへと消えていく。
足音が遠ざかるのを確かめるように、セドリックは手を上げた。
氷に、ふっと赤い気配が差す。
次の瞬間、壁は静かに溶けてゆき、床に薄い水の筋を残した。
「……大丈夫でしたか」
振り向いた彼の声は、少しだけ震えていた。
「はい。大丈夫です」
私は笑ってみせる。
さっきの氷は、完璧だった。
薄すぎず、厚すぎず、瞬間の立ち上がりが速い。
攻撃ではなく、防御。
誰も傷つけないやり方。
それを選んだ彼の手が、わずかに震える。
「兄上が……すみません」
謝る必要なんて、どこにもないのに。
セドリックの肩が微かに上下する。呼吸が浅い。
「情けないですね……人に、向けて魔法を撃っただけで」
魔力暴走の記憶は、彼の指の奥に棘のように残っている。
憎い相手であっても、二度と誰かを傷つけたくない。
その思いは、彼の美徳だ。
だけど、彼を締め付ける枷でもある。
私はそっと彼の手を取った。
指を包み、手の甲を親指で一度だけ撫でる。
「情けなくなんて、ありません」
私はそう言い切った。
「とても、格好よかったですよ、セドリック様」
その一瞬の判断も、盾の出し方も、私を背に庇って立った背中も。
全部。
彼のまつげがかすかに揺れた。
「……そう、ですか」
青い瞳が、少し和らぐ。
耳の先が、また赤くなる。
「はい」
私はうなずいて、握る手にほんの少しだけ力をこめた。
彼の手は、今度は握り返してきた。
「あなたにカッコいいと言われる機会が早く来たようで、嬉しいです」
そう言って笑うセドリック。
申し訳ないけど、やはり可愛いと思ってしまうわね。
でも、とてもカッコいいのも確かだ。
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