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第4話 セドリックの胸中


 セドリックがアメリアと顔を合わせてから、ひと月ほどが過ぎた。


 最初の印象は、正直いいものではなかった。


 いきなり決まった婚約者――今ではもう妻――が自分の暮らす離れにやって来ると知った時、セドリックは辟易した。


 聞けば、相手はファビール辺境伯家の令嬢、アメリア。

 年上で、遊び歩き、金遣いが荒い。そう噂される女だという。


 自分は公爵家の次男、家の取り引きに使われたのだと理解した時から、期待など持たなかった。


 ただひとつの願いは、害を与えないでほしい。

 それだけだった。


 離れでひとり本を読む時間は、彼にとって唯一の安らぎだ。

 そこへ使用人以外の人間が踏み込むのは、たとえ妻であっても好ましくはない。


 だから「どうぞ遊んでいてください、ただし自分に関わらないで」というのが理想だった。


 ところが、その願いも予想も、アメリアは裏切った。


 噂に聞くような奔放さは、少なくともこのひと月、影も形もない。

 屋敷の使用人にそっと確かめても、彼女が外出するといえば布や紙、食料などの買い出し程度で、夜に出歩くことはないという。


 食料などは本当なら使用人が買いに行くのだが、彼女は「自分で料理したいので」と言って、自ら買いに行くのだ。


 実際に、彼女の料理は美味しい。

 噂に聞いていた男遊びなど論外。


 ――結婚を境に人がここまで変われるのか、と彼は何度も胸の内でつぶやいた。


 初めは罠だと疑った。媚び、計算、いつかの見返り。


 だが、日を重ねても彼女の調子は変わらない。

 言葉は柔らかく、視線はまっすぐで、無理に踏み込まず、かといって放りもせず、必要な距離だけを保つ。


 看病の三日間――熱にうなされた夜、冷たい布を静かに替え続ける手の温度を、セドリックは忘れられない。


 それから彼は、疑うことをやめた。


 今日は、アメリアの発案で家庭教師を招いた。

 貴族としての学び、と題して、領地の営みや礼の習いなどを一から。


 セドリック達は当主になる予定は全く無い。

 学ぶ必要がない、と言えばそれまでだ。


 けれど、アメリアは「今は不要でも、必要になってからでは遅いかもしれません」と言ってきかない。

 必要になると、どこかで知っているような言い方だと彼は思うが、深くは問わなかった。


 学ぶことは好きだし、彼女と一緒にいる時間も好ましいから。

 男の師は領の学びを、女の師は作法を教えた。


 書板に地図を描き、川の流れに合わせて水車を置く場所、穀の収穫に合わせた倉の出し入れ、徴の取り方、冬備え。

 数字が並ぶところでアメリアが眉を寄せる。


 遊んでいたらしいが、本に向かう姿勢を曇らせなかった。


「ここは、春先の雨が長いと仮定して、支出のどこを削りますか」


 男の師が問いを投げる。

 セドリックはすぐ答えた。


「季節の余興と遠出を減らします。農の人足に払う日当は削れません」

「良い判断です。では備えの穀は?」

「すでに古い樽から回します。虫避けを強め、傷んだものは家畜へ」

「よく見ていますね」


 師は満足そうに頷いた。


 その横で、アメリアが小声で「すごい」と呟く。

 彼女の小さな称賛がセドリックは誇らしかった。


 彼女は自分の書いた数字を指でなぞり、師に問い返した。


「この場合、米と麦の割合は――」

「寒さが続くなら麦を重く、ただし村人の好みに合わせます」

「村人の好み……」

「ええ。食卓に無理を強いては、民は疲れます。長い我慢は争いの芽です」


 アメリアは「なるほど」と真剣な顔でうなずいた。


 知らぬことを恥じず、積極的に質問をして知ることを喜ぶ人は強い。


 優秀な人だ、とセドリックは思う。


 そして午後は、ダンスの練習。

 ダンス用の衣装に着替えるために一度彼女と別れる。


 次は衣装を整えて実践。アメリアが現れた瞬間、セドリックは思わず固まった。


 桜色の布を重ねた舞踏会用の衣。

 薄絹の袖が透け、髪はゆるく結い上げられ、赤い飾りがひとつ光る。


 心臓が跳ね、思わず口が動いた。


「……綺麗です」

「ありがとうございます。セドリック様もお似合いです」


 彼女に褒められたが……自分では似合っていないと思っている。


 なぜなら、自分の服は義兄のお下がり。

 肩が落ち、袖も丈も余っている。


 とても似合っているとは言えない。


 これくらいは買うお金は用意されていたが、必要ないと思って用意していなかったのが悔やまれる。

 こんな格好を彼女に見られるなんて……と思った時、ふいに違和感を抱いた。


(なぜこんなにも、彼女にダサい格好を見られるのが嫌なのか――)


 そう考えたが、答えはまだ出なかった。


 練習が始まる。

 まずセドリックが女性の先生と組み、音楽に合わせて一歩、また一歩。


 自分でもわかるが、ぎこちない足取りだ。

 まだ学び始めてすぐだから、仕方ないと思うが。


「よくできていますよ」


 一緒に踊る女性の先生がそう言ってくれる。


「上出来ですよ、セドリック様」


 踊り終わって、アメリアがそう言ってくれる。


 その言葉が妙に心に残る。

 もっと上手くなりたいと思った。


 次はアメリアの番だ。

 男性の先生と組んで踊る。


 ドレスの裾が波のように揺れ、手首の角度まで美しい。


 素直に上手いと思う、だが……。


 ただそれを見ていると、胸の奥に小さな棘が刺さる。

 自分がまだそこまで上手く踊れない悔しさかと思ったが、違う。


 男性の先生が躊躇いもなく彼女に触れているのが――気に入らなかった。


 自分は魔力暴走の件で触れることに、いまだ躊躇があるのに。


 ――彼女の夫は自分なのに。


(……そうか。私はアメリアのことを――)


 考えがそこに行き着く前に、曲が止まった。


「どうでした?」

「……とても、綺麗でした」


 自分の内を隠し、笑顔で答える。


「よかったです」


 彼女が笑うと胸がきゅっとなり、思わず彼女の手を取ってしまった。

 さっきまで男性の先生が握った手を、上書きするように。


「どうしました?」

「……いえ。なんでも、ありません」


 ほんとは胸がいっぱいで言葉にならなかった。


「ただ、いつかあなたと舞踏会に出たいと思いました」


 それだけ告げた。


「はい。ぜひ一緒に出ましょう」


 即答。嬉しそうに。胸の中に小さな灯がともる。

 彼女の隣に並ぶには、今の自分では足りない。


 背も、力も、存在も。


 成長するには食べ、眠り、動くしかない。

 アメリアが毎食「もう少し食べましょう」と言ってきた理由を、今になって理解した。


 ――練習後、アメリアと別れてから、使用人に指示をする。


「ダンスの先生だが、男は入れないでください」

「はい? それではアメリア様のお相手はどなたが……」

「女性で男性パートのダンスができる先生を用意してください」

「その、一体なぜでしょうか――」

「――いいから。命令です。わかりましたか?」

「っ……かしこまりました」


 ――使用人は、セドリックが初めて見せる威厳に怖気づきながらも頭を下げた。


 その夜、食堂でいつもの倍の量を頼んだ。

 運ばれた皿を見て、アメリアが驚く。


「まあ……!」

「これからは、しっかり食べたいと思って」

「はい。ぜひそうしてください」


 彼女が嬉しそうに微笑む。

 けれど、その眼差しは弟を見守るようでもあった。


 孤児院で大人が子供を見ていたのと同じだ。

 それでは満足できない。


 弟や子供ではなく、男として見てもらいたい。


 フォークを進める。

 肉を噛む。苦しくても食べる。


 アメリアは何も言わず、ただやさしく見守っていた。


 だからこそ、なんだか悔しい。

 皿を平らげるころには胃が重く、体は汗ばんでいた。


「その、セドリック様? 無理はしていませんか?」

「だ、大丈夫です……!」


 強がって答える。


 けれどその夜は、食後の廊下を歩くのもきつかった。

 自室の椅子に腰を下ろし、窓の外の夜を見ながら、ふと笑う。


 手を繋いだ時の温もりが思い出される。


 お腹は苦しいのに、気分は悪くない。

 不思議だと思いながら、胸の奥に芽生えた灯を消さないようにした。



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