第3話 毒妻、推しと手を繋ぐ
――あれから三日後。
それだけで、こんなに変わるものなんだと自分で驚いている。
セドリック様の熱は、三日で下がった。
もちろん私の献身的な看病のおかげ!
……いや、半分くらいは新しく入った使用人さんのおかげかもしれないけど。
桶を運ぶのも、夜通し冷や布を取り替えるのも、私ひとりでは到底無理だった。
けれど私が最初に気づいて、抱えて、寝かせて、看病して――その始まりを作れたのは、私だ。
胸を張らせてほしい。
そして、その三日の間に距離がぐっと縮まった気がする。
あの日までは夕食以外ほとんど顔も合わせなかったのに、今では――蔵書室で、一緒に時間を過ごすようになった。
広い蔵書室の片隅。窓からは午後の光が差し込み、埃の粒が金色に揺れる。
静寂のなかでページをめくる音が重なる。
これぞ、オタク的至福。
推しと同じ空間で、同じ時間を過ごしている!
しかもまだ少年のセドリックの横顔も眼福……!
「アメリア様は、本をよく読まれるのですか」
不意に声をかけられて、ページを持つ手がぴたりと止まる。
心臓の音が耳の奥でばくん。
「え、ええ! まあ、たまに……」
前世ではラノベや恋愛小説ばかりだったけど、この世界の歴史書や魔法書はまた別の難しさがある。
でも本は読んでいるから、うん。
「そう、ですか」
淡々とした相槌。
でも、それだけでご褒美。
「セドリック様は、どんな本がお好きなのですか?」
「物語よりも、体系化されたものが好きです」
「なるほど……魔法書とかですか?」
「はい。魔法理論や、応用についての論文を」
「論文……」
十五歳で論文。やっぱり天才か。
推し尊い。尊すぎる。
そんな会話を、ほんの数言ずつ。
でも、それが奇跡みたいに思える。
前までは「大丈夫です」で終了だったのに。
ただ――やっぱりまだ壁がある。
それは言葉じゃなく、距離。
彼は決して、私と近い距離に座らない。
蔵書室のテーブルに並んで本を広げることはあっても、決して肩が触れるような間合いには近づかない。
私が何気なく椅子をずらして距離を縮めれば、その分だけ彼はすっと離れる。
彼自身が、悲しそうな顔をして。
……その顔を見るのが、一番つらい。
嫌われてる、というより――「近づいちゃいけない」と思っている顔。
理由は知ってる。
原作で、語られているから。
前に、この離れに勤めていた若い使用人がいた。
よくセドリックに話しかけて、一緒に本を読んで、笑わせてくれるような人だった。
――けど、ある時セドリックの魔力が暴走した。
義母と兄に日常的に虐められて、精神が不安定だった十歳の頃。
暴走の矛先に、その人が巻き込まれた。
重傷を負って、治癒魔法でどうにか全快したものの、恐怖でこの屋敷を辞めてしまった。
……それ以来。
彼は人に近づかなくなった。物理的に。
触れることでまた誰かを傷つけるのが怖いのだろう。
だから、私に対してもそう。
嫌っているからじゃなく、守りたいから離れている。
そう思うと――むしろ大事にされてる?
と、楽観的に解釈するのも可能だけど。
でも、そう浮かれていられるほど単純じゃない。
だって、彼自身が一番傷ついてるんだから。
近づこうとすると、悲しい顔をする。
その顔を見たくない。ただそれだけ。
どうにかして、このトラウマを解きほぐしてあげたい。
原作では――どうだったっけ。
思い出す。そう、あの有名なシーンを。
原作主人公が廊下で転んで倒れそうになった瞬間、セドリックが反射的に抱きとめる。
でもその直後、顔色を変えて彼女から離れる。
過去の記憶が甦ったのだ。
そこで主人公が問いかける。
『どうして離れたのですか?』
セドリックは打ち明ける。
『以前、魔力を暴走させて大事な人を傷つけた』
それに対して、主人公は言う。
『私は治癒魔法があるから大丈夫です。それに、セドリックと触れ合うのは嫌じゃないですから』
――恋の加速イベントだ。
うん。覚えてる。
覚えてるけど……。
「私は治癒魔法、使えないのよね……」
つい独り言が漏れた。
だから、同じ台詞は言えない。説得力がない。
私が触れて怪我したら、自分で治せないのだから。
それに、私は原作主人公みたいに華奢な少女じゃない。
もう二十歳。しかも今は十五歳の彼より体格も大きい。
彼がまだ病弱で華奢な今、私を支えるなんて無理。
下手に転んで抱きとめさせたら、一緒に倒れて怪我する未来しか見えない。
――だめだ。原作通りは通用しない。
どうしよう。
どうすれば、彼のトラウマを少しでも軽くしてあげられるんだろう。
その日の夕食は見た目は上品だけど、彼のほうの量はやっぱり控えめだ。
私の皿はそれなりだ。
「いっぱい食べないとダメですよ、セドリック様」
彼は姿勢を崩さないまま、スープをひと啜りして小さく首を振った。
「あまり、お腹が空いていません」
「それでも、少しずつ。しっかり食べて、運動して、眠る。そうしないと成長しませんよ」
「成長……ですか」
「はい。骨も筋肉も、好きな服も似合うようになります。未来の自分に投資、です」
言い切ると、彼は匙を皿の縁に置いて、私をまっすぐ見る。
青い瞳は相変わらず湖面みたいに澄んでいるけれど、前よりは冷たくない。
「アメリア様は、そういうふうに考えるのですね」
「ええ。……あれ?」
ふと気づく。
考えてみれば、ここに来てから、彼が外にいる姿を見たことがない。
廊下、蔵書室、自室、食堂。行動が屋敷内で完結している。
「セドリック様、外に出かけることはありますか?」
「ほとんどありません」
やっぱり。
返答は短く、躊躇いの影が落ちている。
「ずっと屋敷の中にいると、運動もできず気が滅入りますよ」
「私は、別に外に出なくても……」
「とりあえず、久しぶりに出ましょう」
重ねて、言葉を明るく弾ませる。
「今夜、散歩に行きませんか? 庭園なら人にも会いませんし、冷たい空気で頭もすっきりします」
彼は少しだけ目を伏せ、テーブルクロスの縁を視線でなぞった。
彼の考えている時の癖。
三拍置いて、顔を上げる。
「……少しだけなら」
「決まりです!」
食後、厚手のショールを肩にかける。
夜の離れは静かで、遠くの本邸の明かりだけが星みたいだ。
庭園へ出る扉を開けると、ひやりとした空気が頬を撫でる。
花壇は手入れが行き届いていて、白い小花がところどころ灯りのように咲いている。
噴水は今は止まっているけれど、石の縁に露が点々と並んで宝石みたい。
セドリックと、並んで歩き出す。
と言っても、きっちり一歩ぶんの距離が空いている。
彼の歩幅は私より少し小さくて、靴音がほとんどしない。
嫌な沈黙じゃない。
「……星が、よく見えますね」
私が空を見上げて言うと、彼もわずかに顎を上げる。
「離れは街の灯から遠いので。冬はもっと、よく見えます」
「その時も一緒に見ましょう」
即答。自分で言っておいて頬が熱くなる。
未来を勝手に予約するのは早い?
でも、こういうのは勢いが大事だ。
「……はい、そうしましょう」
前は「結構です」だったのに。
これは大進歩だ。
でも、やはり距離が遠いのが気になる。
そのトラウマを消すには……やっぱり、言うしかないか。
私は心の中で深呼吸をする。
「セドリック様」
「はい」
立ち止まって、彼の横顔を見る。
「その……婚約者ですし、エスコートで、手を――握っていただける、と」
最後の「と」で声が跳ねる。
これはあれだ、推しの手を握りたいとかそういう邪な考えじゃない。
療し。心の手当て。そう、心の薬。
だが、彼の表情が固まった。
青い瞳がわずかに揺れ、喉仏が小さく上下する。
彼は視線を落とし、私の手元と自分の手の間を行ったり来たりして……。
「……すみません」
絞るような声で、断られた。
胸の真ん中に、冷たい氷を落とされたみたいにひやっとする。
うん、そりゃそうだよね、簡単じゃない。
わかってた。わかってたけど、やっぱりちょっと刺さる。
私の指先から力が抜けそうになった――その瞬間、彼の顔が私よりずっと痛そうなのに気づいた。
唇がかすかに震え、罪悪感がその肩に降り積もっているのが見える。
違う、これは私が傷つく番じゃない。
彼のほうがずっと、長く痛んできた。
私は息を吸い込んで、半歩踏み出す。
彼の指に、そっと自分の指をかける。
驚きで彼の睫毛が跳ねた。
「――は、離してください……!」
反射で引こうとする手を、私は逃がさない。
強くではなく、確かに。
はぐれないように、繋ぐ。
「離しません、セドリック様」
彼の視線が私の指に釘付けになったのを見届けてから続ける。
「あなたは誰かに触れても、もう大丈夫なんですから」
私の一言で、彼の肩がぴくりと揺れる。
「……どう、して」
かすれた問いで、夜気よりずっと薄い声。
「魔力の暴走を起こすことは、もうありません」
私は、ゆっくりと言葉を繋ぐ。
しっかりとした確信の言葉で。
「あれは、まだ魔法を習っていなくて、精神的にも追い詰められていた頃に出てしまったもの。――一度だけ、ですよね」
原作で読んだ記述が脳内でページをめくる。
事実として、彼が暴走したのはその一度。
以後、彼は恐れるあまり、人よりずっと長く、基礎の制御訓練を繰り返した。
あの日から、今までずっと。
「私は、知っています。セドリック様が、毎朝、毎晩、魔力の操作を丁寧に繰り返しているのを」
私の言葉に、彼は目を見開いた。
驚きと、少しの戸惑いが見える。
「あなたが努力したのは、わかります。だから、触れても大丈夫なんです」
声が勝手に柔らかくなる。
彼を包むための布になりたいと、ほんの少しだけ思う。
彼は息をのみ、繋いだ手を見る。
抵抗の力がほどけて、指先に残ったのは迷いだけ。
やがて、その迷いもなくなる。
「……私と触れても、怖くありませんか」
「怖くありません」
即答。
だって、怖いわけがない。
嬉しい以外の感情を探すほうが難しい。
「そう、ですか……」
安堵が彼の表情に薄く広がる。
彼は私の手をまじまじと見つめ、ゆっくりと握り返した。
指の長さは私より少し短いのに、骨ばっている。
「温かいですね、あなたの手は」
「そ、そうですか?」
「はい。それに――少し、湿っています」
「えっ!?」
ぎゅいん、と心臓が跳ねた。
よりによって今、手の汗。
推しと手を繋いでるのだから緊張するのはわかるけど。
私は慌てて離そうとする。
「す、すみません! 失礼しました、今すぐ――」
ところが、彼は逆に指に力を込めた。
逃がさない、のは彼のほうになっていた。
「いえ、離しません」
月光が瞳に落ちて、小さな光が瞬く。
「握っていいって、言われましたから」
「……っ」
反則。その言い方は反則。
心の中に「尊い!」の花火が連続打ち上げされる。
私は顔の火照りを夜風でどうにか冷やしながら、かろうじて口を動かす。
「き、汚いですから」
「汚くなんか、ありません。綺麗な手です」
「う、うう……」
推しからの一撃が重い。
私は肩掛けの端を口元に寄せ、まぎらわす。
彼はほんの少し口角を上げた。
笑った。はぁ、可愛い……。
そのまま園路をゆっくり歩く。
つないだ手の熱は、時間といっしょに落ち着いていく。
私は息を整え、軽い小言で空気をやわらげる。
「セドリック様、淑女に『手が湿っている』なんて言っちゃいけません。たいへん恥ずかしいのです」
「……すみません。以後、気をつけます」
「ええ、他の女性に絶対言っちゃいけません」
口が勝手に未来のヒロインを守る。
だって、原作ヒロインにそんなこと言って彼が嫌われたら、私も悲しい。
「他の、女性……?」
彼が小さく繰り返す。
問いというより、噛みしめるような音。
私は首を傾げる。
「どうしました?」
「……いえ。なんでも、ありません」
なんでもない、の顔ではない。
けれど、無理に聞き出すのは違うだろう。
彼は視線を落とし、つないだ手をもう一度見た。
これで彼のトラウマが少しでも癒されたのなら嬉しい。




