第27話 あなたがいなければ
夕食の時間になり、私とセドリックは食堂で向かい合って座った。
長いテーブルの両端ではなく、いつものように近い距離で。
でも、三日前のあの出来事があってから、どこかぎこちない空気が流れている。
「卒業論文はそろそろ終わりそうですか?」
「ええ、あとは具体例を示すために実験して、その結果を書くだけです」
「あと数カ月もあるのに……さすがですね、セドリックは」
「ありがとうございます」
「……」
「……」
当たり障りのない会話、でもどこか気まずい。
いつもならもっと自然に話せるのに。
セドリックも同じように感じているのか、時々私の顔を伺うような視線を向けてくる。
(やっぱり、ちゃんと話さないと)
でも、食事中に重い話をするのもどうかと思い、結局デザートまで世間話で終わってしまった。
食事を終えて、私は一度自分の部屋に戻った。
ドアを閉めて、深く息を吐く。
「はぁ……」
鏡の前に立つと、少し疲れた顔が映っていた。
(落ち着いて。ちゃんと話すのよ、アメリア)
顔を軽く叩いて、気合を入れる。
セドリックは夕食後、いつも執務室で仕事をしている。
領地のこと、王都での仕事、当主としての執務など。
やることは山積みだ。
(忙しい時に邪魔をするのは申し訳ないけど……)
でも、このままずるずると先延ばしにはできない。
私は部屋を出て、セドリックの執務室に向かった。
コンコン、とノックをする。
「どうぞ」
セドリックの声が聞こえて、私は扉を開けた。
広い執務室。
机に向かって、セドリックが書類と格闘していた。
羽根ペンを走らせながら、時折眉間にしわを寄せる。
「あの、お忙しいところすみません」
「いえ、大丈夫ですよ。少し待っていただけますか? もうすぐ終わりますので」
「はい、お気になさらず」
私は執務室のソファに腰を下ろした。
セドリックは再び書類に目を落とす。
真剣な横顔。
集中している時の、少し険しい表情。
でも、それがまた素敵で。
(ああ、やっぱり推しはかっこいい……)
淡い金髪が、ランプの光を受けて輝いている。
長い睫毛が、影を作る。
時折、考え込むように唇に指を当てる仕草。
全てが絵になる。
(これだから推しは尊い……)
思わず見惚れていると、ふと彼が顔を上げた。
視線が、ばっちり合う。
「っ……」
ドキッと心臓が跳ねた。
でも、なんとか平静を装う。
「お待たせしました」
セドリックが立ち上がり、私の正面のソファに座った。
向かい合う形になる。
距離は、手を伸ばせば届くくらい。
「あの、先日はごめんなさい。突拍子もないことを言ってしまって」
私は、まず謝ることから始めた。
「いえ、こちらこそ。少し混乱してしまって……いきなり触ってしまって、すみませんでした」
セドリックも頭を下げる。
触れてしまって――抱き寄せられて、耳元で囁かれて、太ももに伸びかけた手――を思い出してしまった。
頬が熱くなる。
「い、いえ、あのくらいは大丈夫です」
恥ずかしさを誤魔化すように、慌てて言った。
「あのくらいは……?」
しまった、焦って余計なことを。
私ははっとして、手を振る。
「えっ、あ、その、なんでもないです。はい」
「……そうですか」
セドリックは首を振ったけど、なんだか納得していない顔だった。
「ですが、なぜいきなり離縁の話をしたのですか?」
本題に入る。
セドリックの青い瞳が、真っ直ぐ私を見つめていた。
「離婚した方が、セドリックのためになると思って」
「それはありえません」
即答だった。
迷いのない、断言。
私は少し驚いてしまう。
「でも、あなたなら……私と離婚して、すぐに他の女の子と恋仲になれると思います。あなたは若くて、立場があって、優秀で、格好良くて――」
「他の女なんて、興味ないです」
これも、きっぱりとした返事だった。
「……本当に? 他の女の子に、興味ないの? 例えば……そう、編入生のエミリアさんとか」
やっぱり原作の主人公に気がいっているのでは、と思って、試しに名前を出してみた。
すると、セドリックの眉がピクッと動いた。
「全くないです」
声が、少し低くなった。
明らかに不機嫌な様子だ。
「なぜあの編入生をそんな特別視しているのか知りませんが、僕はあの編入生は嫌いです」
「えっ……?」
まさか「嫌い」とまで言い切るとは。
原作の主人公を、攻略対象のセドリックが嫌いだなんて。
これは予想外すぎる展開だ。
「エミリアさんと、何かあったんですか?」
恐る恐る聞いてみる。
「あの人は、なぜか僕が離婚していると思い込んでいたりして、アメリアを侮辱するような言動をしています。無邪気で悪気なく……ですが、気に入りません」
セドリックの声には、怒りが滲んでいた。
(まさか、そんなことが……)
でも同時に、罪悪感も湧いてくる。
もしかして、セドリックとエミリアの仲が悪くなったのは、私のせい?
私が毒妻で処刑ルートを回避するために、ストーリーを変えたせい?
(うわぁ……なんか申し訳ない気持ちになってきた)
でも、そこで不思議にも思う。
なぜエミリアは、セドリックが離婚していると思っていたのか。
原作のストーリーだったら離婚していて当然だけど、現実では私たちはまだ夫婦だ。
不仲だという噂も、ほぼ流れていないはず。
もしかしたら私達を離婚させたい貴族達がうわさしているのかもしれないが、社交界に出ていないエミリアが、そんな情報を知るのは難しい。
(まさか……エミリアもゲーム世界の設定を知っている?)
もしかして、私と同じような立場?
でも、今はまだ判別がつかない。
「逆に、あなたは離縁した後はどうするつもりなんですか?」
セドリックの質問で、思考が現実に引き戻される。
「他の男と結婚したいとか、考えているんですか?」
少し、探るような口調。
だがその発想が存在すること自体が、面白いくらいに私の中では空白だった。
私は首を横に振る。
「まさか、そんなことはないです」
即座に否定した。
だって、セドリック以上に良い男なんて、出会ったことがないのだから。
推しを超える存在なんて、この世にいるわけがない。
「辺境伯領に戻って、細々と暮らすつもりでした。幸い、私は水魔法の浄化が得意ですし、領地経営も一通り学びました。父と母の手伝いならできますから」
「……はぁ」
淡々と、考えていたことを口にする。
セドリックは、深いため息をついた。
「アメリアは……僕と離れるのが、嫌じゃないんですか?」
少し拗ねたような、子供っぽい口調。
落ち込んでいるような表情。
(うっ……可愛い)
推しのこんな顔を見せられたら、心が揺らぐ。
「嫌に決まっているじゃないですか」
本音が、ぽろりと出た。
「だったら……」
セドリックが身を乗り出しかける。
「でも、それよりも、あなたが幸せになることを願っています」
私は、彼の言葉を遮った。
だって、推しの幸せがヲタクの幸せなのだから。
それが、私の信条。
推しには幸せになってもらわないと。
セドリックの顔が、少ししかめられた。
不満そうな、でもどこか切ない表情。
「なら、僕の側にいてください」
静かな、でも強い意志を感じる声。
「あなたがいなければ、僕は幸せになるのは不可能なんですから」
「えっ……」
予想外の言葉に、顔が一気に熱くなった。
耳まで真っ赤になっているのが、自分でもわかる。
(な、なんて破壊力のあるセリフを……!)
推しからこんな言葉をもらえるなんて。
ヲタク冥利に尽きる。
いや、でも、これは違う。
私は毒妻キャラで、彼は主人公と結ばれるべきで――。
心の中で頭を抱えたその時、執務室の時計が、夜更けを告げる低い音を鳴らした。
現実に引き戻される。
「そろそろ寝ましょうか」
セドリックが、優しく微笑んだ。
「明日は社交会ですし、久しぶりに一緒に出席する予定ですので」
そうだった。
明日は、王都で開かれる社交会がある。
最近は別々に出席することが多かったけど、明日は久しぶりに夫婦で出席する予定だ。
「そうですね」
まだ顔は赤いままだけど、なんとか普通の声で返事をする。
立ち上がって、執務室を出ようとする。
「おやすみなさい、セドリック」
「おやすみなさい、アメリア」
優しい声で、彼も返してくれた。
自室に戻って、扉を閉める。
そして、背中を扉につけて、ずるずると座り込んだ。
「はぁ……」
顔が、まだ熱い。
心臓も、まだドキドキしている。
(落ち着いて、落ち着くのよ、私)
深呼吸を繰り返す。
でも、セドリックの言葉が頭の中でリフレインする。
『あなたがいなければ、僕は幸せになるのは不可能なんですから』
(だめだ、思い出すだけで顔が熱くなる……)
しばらく、そのままの姿勢でいた。
使用人を呼んで、お風呂の準備を頼まなければいけないのに。
でも、もう少しだけ。
もう少しだけ、この余韻に浸っていたかった。




