第24話 毒妻、離縁を切り出すが…
離れの屋敷で彼と暮らして三年、あの静けさにも慣れていた。
でも今、私たちは本邸に移っている。
お互いに公爵当主、公爵夫人となったから。
でも。
ここで、私の役目はひと区切りだ。
今日の社交界で言われたことは、自分でも思っていたこと。
原作での破滅は回避できた。
横領もしなかったし、暴言を吐いて彼の心を削るような真似もしていない。
処刑台の影は、もう、どこにもない。
なら、次は――彼の物語だ。
魔法学園での邂逅、友情、恋。
原作の芯はそこにある。
私は、その邪魔をすべきではないのだろう。
彼は十六のときから学園に通っていて、今は十八歳。
背も伸び、容姿も良くて、評判も良い。
学園では目を引くはずなのに、私という存在のせいで、彼に寄ろうとする娘たちは一歩を踏み出せない。
五つも年上の妻がいる若き公爵を、誰がまっすぐに恋の相手として見るだろうか。
――私は、彼の踏み石になれればそれでいい。
だから、離婚を切り出そう。
そう考えると、胸のどこかがひゅうひゅうと鳴った。
寂しい?
そりゃあ、まあ、もちろん……。
でも、これは彼のため。
私の推しのため。
幸福のため。
推しが幸せなら、私も幸せ――オタクの基本だ。
そんなふうにぐるぐる考えながら、本邸の自室で帳面を閉じた夕暮れ、前庭から馬車の音。
ほどなく、廊下に靴音。
迎えに出ると、扉の向こうで彼は制服の上衣を肩から外しているところだった。
私は思わず見上げる。
これで出迎えるのは最後になるかもしれないと思うと、三年前の彼のことを思い出す。
椅子に座って細かった彼はどこへ行ったの、というくらいに成長した。
私が見上げるほどに高くなり、肩幅も広くなった。
うん、いっぱい食べさせ作戦、成功。
心の中でガッツポーズした。
「アメリア、ただいま帰りました」
ふわっと笑って、いつものように歩み寄ってくる。
「おかえりなさい、セドリック」
私が言い終えると、彼が私の髪を撫でて一房を手に取り、そこに唇を落とす。
最近、彼からのスキンシップのようなものが多くなってきた気がする。
具体的に言えば、先日の馬車でのバックハグ事件から。
今の行動も様になりすぎてて、カッコよすぎて見られないんだけど……。
「……うん。アメリアの顔を見ると、家に帰ってきた気がします」
耳元で小さな声。
いけない、離婚を切り出す前から心が揺れる。
深呼吸。私、がんばれ。
夕食はいつも通り。
さっきも思い出したけど彼の皿の肉が昔より大きくなっているのを見ると、少し嬉しくなる。
食卓の会話もいつも通り。
学園の課題のこと、領の報告のこと、庭の花の芽吹きのこと。
笑ったり、短くうなずいたり。
当たり前のやり取りが、少しだけ胸を締めつける。
――今日で、終わりにする。
食後、彼は書類を抱えて執務室へ。
私は紅茶をひと口含んで、覚悟を飲み下す。
落ち着いた頃合いを見計らって、私は扉を叩いた。
「どうぞ」
入ると、机の上には印の入った封の山。
彼は書状の最後に名を記して、顔を上げた。
「話って何ですか、アメリア」
いつもの声音。
私は扉を閉め、机の正面に歩く。
正面から言いたかった。背中合わせではなく、向き合って。
手が冷える。
膝の上で、指を組んで、解いて、深呼吸。
いける。言える。
「――離婚しましょう」
音が、消えた。
紙が擦れる音すら、部屋から消えた。
氷の湖の青が、揺れる。
「……はっ?」
空気がぴしりと鳴った気がした。
温度が一段、落ちる。吐く息が白い。髪の先が微かに逆立つ。
――魔力が漏れてる。
ここ三年で彼は、国で指折りの実力を身に付けたと聞いている。
学園で首席だけじゃなく、この国の中でも実力が高い。
十八歳でその才能を開花させている。
その彼が、無意識に漏らすほど感情を動かされている。
混乱、あるいは怒りか。
どちらにせよ、ただ事じゃない。
「……どうして? なぜ、そんなことを?」
静かな声だった。
けれど室内の薄い震えが、その静けさの底にある刃を教えてくれる。
私は、用意してきた言葉を順に取り出すみたいに答える。
「ほ、ほら、セドリックは名実ともにギルベルト公爵になったし、だから……政略結婚でできた妻なんて、もういらないでしょ?」
彼は何も言わない。
青い瞳がまっすぐで、逃げ場がない。
喉がからからに乾く。
「そ、それに……セドリックは、学園でもモテるし。五つも年上の妻なんて、邪魔でしょう?」
言い切った途端、彼は静かに告げる。
「それは――誰が言ったんですか?」
「え?」
私の間の抜けた声が部屋に浮く。
彼は椅子からわずかに身を乗り出し、笑った。
笑ったのに、寒気がした。
「そんなことを僕の妻に向かって言っている者がいるなら、家ごと潰しますよ。言ってください。大丈夫です、今の僕なら片手間に三日あれば終わりますから」
朗らかに。日向に置いた刃物みたいな笑顔で。
推しの笑顔に、初めて背筋が冷えた。
「可愛い」も「尊い」も、今は出てこない。
「今日の社交界でそんな話が?」
「っ……」
「ああ、やはりそうなんですね」
図星を突かれて思わず顔に出てしまったようだ。
「ち、違うから! 私がその、そう思っただけで! 別に言われたってわけじゃ……!」
私が慌てて首を振ると、彼は一拍おいて――目の温度だけを落とした。
「じゃあ、なんで……もしかして、僕以外に好きな人でもできましたか?」
立ち上がる。椅子が床を擦る音が短く響く。
次の瞬間、腰に腕が回った。
抱き寄せられる。
呼吸がふっと詰まる。
「だめです」
耳元で、息が触れた。
「君は、僕のものです。誰にも渡さない。離婚なんてしない。……死んでも、しない」
言葉は穏やかなのに、眼差しが怖い。
いや、怖いというより――真剣すぎる。
距離が近い。顔が、近い。
バックハグ事件の時よりも近すぎる。
端正な顔立ちが目の前で形を持ち、まつげの影が頬に落ちる。
「あ、あの、セドリック……?」
名を呼ぶと、彼は小さく喉を鳴らし、独り言みたいに続けた。
「僕が学園を卒業するまでか、君が僕を本気で好いてくれるまでか。どちらにしても今は、手を出さないつもりでいましたが……けど、どうしようかな」
伸びてきた手が、私の太ももへ降りる。
ぎゅっと力が入る。体がびくりと跳ねる。
「今、ここで――」
えっ、なに、このまま――。
こん、こん。
木を打つ乾いた音が、張り詰めた室内に割り込んだ。
はっと我に返って、私は彼の腕から体を抜いた。
扉が開き、執務係の使用人が帳面の束を抱えて頭を下げる。
「あの、失礼いたします。ご印の要る書類を」
使用人の目が、一瞬だけ私と彼の間を往復する。
微妙な顔で止まる。
「あ、あの、お邪魔でしたか?」
「い、いいえ! 全然!」
反射で大声が出てしまって、私は咳払いでごまかす。
「……も、申し訳ございません」
使用人は空気を薄くしながら、そそくさと退出した。
扉が閉まる。静寂が戻る。
彼は小さくため息を落とし、私へもう一度向き直った。
「とにかく」
視線はとても強く、言い切る。
「君と離婚するつもりは、一切ないです。逃がすつもりもない」
柔らかい笑み。
けれど、決意の芯が見える笑み。
「……わ、わかりました。今日は、これで失礼するわ」
退くのが最善だと、全身の直感が告げた。
私は慌てず急いで礼をし、扉に向かう。
廊下に出て、ゆっくり息を吐いた。
足が自分の部屋へ勝手に向かう。
扉を閉め、背中を滑らせて床に座り込む。
「……えっ、セドリックって、あんな過激派だった?」
天井に問いかけるみたいに呟いて、それからベッドに倒れ込んだ。
枕に顔を半分うずめて、じたばた、と小さく暴れる。
どうしよう。心臓が忙しい。
さっきまでの冷えはどこへやら、今は顔が暑い。
でも、怖さも混じってる。
もし私が誰かに「ギルベルト公爵夫人に相応しくない」なんて言われたら、本気で家ごと潰しにかかりそうな迫力だった。
そこまで、私のことを――いや、違う。
落ち着け、私。
彼はギルベルト公爵当主になった。
家を守る責任を背負った。
だから「夫人を侮る者は許さない」という当主としての態度、そう、そういうやつ。
あの執着っぽさは、たぶん家の名誉を守る気概。
うん、そう。たぶん。きっと。おそらく。
「……初めてできた身内のお姉さんを、誰にも渡したくない、みたいな感覚よね」
自分に言い聞かせるみたいに口にすると、少しだけ胸が落ち着いた。
そう、私は彼にとって最初の味方だった。
だから距離が近いだけ。
抱きしめるのも、安心の儀式。
太ももに伸びかけた手は――気の迷い。
うん、気の迷い。そういう日もある。
バックハグ事件も、うん、気の迷い。
顔が近づいて唇が重なりそうになったのも、そう。
……思い出すと顔が熱くなるからやめておこう。
そう決めて、強制的に思考を終わらせる。
今は冷静に話せない。
いったん退くのは正解だ。
今日は寝る。寝てから考える。
それでも、布団の中で目はなかなか閉じなかった。
彼の腕の重み、耳に落ちた息、低く落とされた声。
『君は、僕のものです。誰にも渡さない。離婚なんてしない。……死んでも、しない』
胸の奥が、甘くじんじんする。
これはまだ眠れないわね……。
「――誰にも渡さない」
「――心も、身体も」
「――愛しているよ、アメリア」
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