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第2話 毒妻の看病



 ――公爵家の離れに住み始めて数日。

 うん、正直に言って難航、というやつだ。


 夕食以外で同じ空間にいる時間は、ほぼゼロ。


 セドリックは自室に籠もって本を読む。


 蔵書室があるのに。


 セドリック様は使わないの? と使用人に訊ねると、


「以前は蔵書室で読まれていましたが……最近はお部屋で」


 とのこと。

 ――はい、それはつまり私と遭遇しないためですよね。


 知ってる。つらい。けど理解はできる。

 原作アメリアがやらかしてきたことを思えば、警戒されて当然だ。


 でもね、私は諦めない。

 だって推しの読書姿、目に焼き付けたいんだもの。


 夕食のとき、正面に座る彼は相変わらず完璧に整っていて、でもスープを掬う手は細い。

 声をかければ「大丈夫です」で終わる。それでも私は毎晩きちんと尋ねる。


「無理のない範囲で、もう少し食べられそうなら……」

「いえ、大丈夫です」

「そう、ですか」

「はい」


 それで、終了。

 気まずい夕食時間が彼の食事量が少ないお陰で短いが、喜んでいいのか悲しんでいいのかわからない。


 そんな日々の、ある夜。

 使用人の引き継ぎで、離れが一時的に無人になった。


 セドリックの可哀想な状況に同情して何かさせないように、使用人は高頻度で入れ替わるんだった。

 明朝には新しい担当が来る手筈だが、今夜に限っては誰もいない。


 夕食もお片付けも終わり、部屋着に着替えて、あとは寝るだけ――そんななか。

 静かな廊下を歩いていたら、前方から足音。


 月光を背負って現れたのは、もちろん彼。

 胸に本を二冊、抱えている。


 蔵書室から自室に運ぶ途中だろう――そう思った瞬間、私は違和感に足を止めた。


 顔が、赤い。

 歩みが、ふらついている。


 喉の奥で、薄く息が擦れる。


 ――嫌な予感。


「セドリック様?」


 呼びかけと同時に、彼の腕から本が滑り落ちた。


 ぱさり、ぱさり。

 よろめく体が壁に寄りかかる。


 膝が折れかけて、私は反射で駆け寄っていた。


「大丈夫ですか!」


 肩に手を添えると、彼は短く「……大丈夫です」と言って、落とした本に手を伸ばそうとする。

 いやいやいや待って、今それ優先事項ちがう。


「失礼します」


 私は彼の額に手を当てた。

 ――熱い。熱というか、灼けてる。


 立っているのがやっとといった熱だ。


「なんで、こんな状態なのに言わないんですか……!」


 気づけば声が強くなる。

 怒ってる、というより怖かったのだ。


 今さっきそのまま倒れて頭でも打ったら、と思うと。


 彼はうっすら眉を寄せて、涼しい声で言う。


「……あなたに言っても、意味はありませんから」


 胸に冷たい言葉突き刺さる。

 わかってる。信頼ゼロ、むしろマイナスの相手だもの。


 けれど、だからって――。


「意味はあります! 私が看病しますから!」


 食い気味に言い切った。

 推しが無理してるのを見て黙っていられるほど、私はできた人間じゃない。


 彼が再び本を拾おうと屈むより先に、私は本をそっと足で遠ざけた

 ごめんなさい、本。貴重な物だろうけど、今は許して。


 そして彼の脇に回り、腕を肩にあずけさせる。


「何を……」

「こんなに体調が悪いのに、本なんか読んじゃいけません。しっかり寝なさい」


 命令形が口から飛び出した瞬間、自分でびっくりした。

 けど、もっとびっくりしていたのはセドリックで、青い目がぱちりと大きくなる。


「……はい」


 素直。いや、素直というより、抵抗できないくらいしんどいのかもしれない。

 足取りが軽くない。


 私は体重を分け合うみたいに歩いて、彼の自室まで連れていった。


 扉を開けた先の部屋は――簡素。

 ベッド、机、椅子。以上。飾り気はない。


 壁は清潔だが、温かさに欠ける。


 彼が「荷物にならないように」と自分を縮めて暮らしてきた痕跡みたい。


 胸の奥がきゅっとした。


「失礼します」


 シーツをめくり、そっと彼を横たえる。


 呼吸が早い。

 額の汗を指で拭うと、彼は薄く目を閉じた。


「すぐ戻ります。水と布を」


 私は踵を返し、人気のない厨房へ駆けた。

 水を張った桶、清潔な布を幾枚か、ついでに鍋、米、塩、生姜。


 普通に日本にあるような材料があるのね。

 まあ、日本のゲームの中だから当然か、と思った時。


 ――そうだ、作ろう。お粥。


 前世で何度か作ったお粥。


 今このスキルを役に立てなくていつ使うのだ。


 火を起こし、米を研ぎ、弱火でことこと。生姜を細かく刻んで少量。

 水面の泡が静かに弾ける音が、夜の静けさに混ざって心を落ち着かせる。


 ――大丈夫、私、やれる。


 戻ると、彼はベッドの上で半身を起こしていた。


 案の定、部屋の隅にある本を目で探している。

 本当に本を読むのが好きなのね。


「本は逃げませんから」

「……逃げはしませんが、湿気るでしょう」


 言い返してくるところに思わず笑ってしまう。


 そういうとこ好き。今は言わないけど。


 私は桶を置き、布を絞って額にのせる。

 ひやり、と触れた瞬間、彼の呼吸が少し楽になった気がした。


「汗を拭きますね。少し、起き上がってください」


 背に手を回して上体を支えると、彼はなすがまま。

 だがシャツの襟に手をかけた途端、びくり。


「な、何を……!」

「服を脱がして、身体を拭こうとしました」

「じ、自分でできる!」


 即答。耳まで赤い。可愛い。

 ありがとう神様、この世の尊さはここにあります。


「ふふっ、わかりました。では背中だけ手伝いますね」

「……お願いします」


 彼の指がボタンを外し、私はそっと布で首筋と鎖骨、肩のラインを拭う。

 汗は想像以上に多い。何度も水に布を浸し、やわやわと触れる。


 距離が、紙一枚分、縮む音がした――気がする。

 着替えを済ませてもらい、私は鍋と木椀を運んだ。


「お粥を作ってきました。セドリック様、今夜はあまり召し上がれていませんでしたから。よかったらどうぞ」


 彼の青の瞳が、ふっと大きくなる。


「これは……誰が? まだ使用人が残っていたのですか?」

「いえ。私が作りました」

「――あなたが?」


 信じられない、という顔。

 辺境伯家のワガママ令嬢が料理できるとは夢にも思っていなかった顔だ。


 まあ、だよね。原作のアメリアは実際にできないし。


「粗末ですけど、体に優しいように作りました」


 彼は椀を受け取り、湯気に目を細める。


 匙でひと口。

 次の瞬間、睫毛の影が揺れて、かすかな声。


「……美味しい」


 胸の奥で、何かがぱっと灯った。


「よかったです」


 彼は視線を落とし、照れ隠しみたいに咳をひとつしてから、ゆっくりと食べ進める。


 匙の運びは慎重で、でも止まらない。

 半椀、三分の二、気づけば全部。


 ――作りすぎかな、と思っていた量まで綺麗に消えた。


「お水もどうぞ」

「……ありがとうございます」


 食べ終えると、彼は素直にベッドへ身を横たえた。

 私は椅子を引き寄せて、枕元に座る。


「いつまで……いるんですか」

「セドリック様が眠るまで、です。高熱でしたし、何かあったら困りますから」

「……どうして、そこまで。あなたに、利はないのに」


 それは本気の疑問の声音だった。

 私利私欲で動く人間しか見てこなかった人の声のようだ。


 原作だと彼の周りは確かにそうだから、胸がきゅっとなる。


「利なんて考えていません。ただ、セドリック様が健康になるように行動しているだけです」


 青の瞳が、また大きくなる。

 ふいに子どもの顔になったみたいに、無防備に。


「……ありがとう、ございます」


 無防備な笑顔で、推しからのお礼の言葉。

 はぁ……尊い。


 大声を出さなかった自分を褒めたい。


「はい。セドリック様、おやすみなさい」


 彼は枕に頬を沈め、ほんの少しだけ口角を上げた。


「……はい。おやすみなさい」


 目が閉じる。睫毛が影を落とす。

 呼吸がゆっくりになる。


 私は背もたれにそっと身を預け、満たされた胸を押さえた。


 (本当に推し、可愛い……!)


 声にならない悲鳴が、胸の内側で溶けていく。


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