73. 二百年分の後悔:side.巽
「……玄さんが……奏太様を……?」
巽は、愕然と口元だけでそう呟いた。
椿に聞かされた光耀教会で起きた事件の全容。
帰還した主の異常な変貌。それを引き起こしたのが、長年側にいて信頼を寄せていた眷属の一人だったという事実。
「……しかも、二百年って……」
言葉にして、脳がようやくその歳月の重みを理解した瞬間、総毛立った。
「だって、僕らは今まで何度、玄さんにあの方を任せて来たと……その度に、虐げられてきたってこと……? 僕らが護衛を交代して休んでた間に……?」
膝の震えが止まらない。
「それに、あの方は、何より、人で在りたいと願ってきたのに……よりにもよって、その願い自体が罪だと刷り込まれてきただなんて……」
ずっと、護っているつもりだった。柊士や白月を失いボロボロになっても、まだ、あの方の心と笑顔だけは護り抜けているのだと、そう自惚れていた。
実際は、主が仮面の下で必死に保っていただけの平穏だった。糸が切れて崩壊してしまうまで、気づくことができなかったなんて。
「張り詰めていた糸を直接断ち切ってしまったのは亘さんかもしれませんが、それを責めることはできません。ここにいる、誰にも」
椿の沈痛な言葉に、その場にいた汐や、妖界の武官達、燐鳳までもが口を噤んでいた。
あのあと、亘は主の部屋を離れようとはしなかった。白い布で両手を括られ、格子の嵌った窓の外を虚ろに眺めるばかりの主。視線さえ合わないその手を祈りを捧げるように固く握りしめたまま。震える肩が、亘の後悔を雄弁に物語っていた。
「亘さんも、心配です。あのままでは……」
ドアの向こうに目を向け、途切れた椿の声。全てを言わずとも、続きはわかる。
『主と共に、心を殺してしまうのでは』
すべてが音を立てて瓦解していくようだった。
「……汐ちゃん、楓様は?」
「容態は安定しているわ。奏太様が直接注いだ御力と、日石に込められた御力の、両方のおかげで」
楓は闇に汚染され、一時は命が危なかったと聞いた。自分を責め続ける主を思えば、彼女の生存だけが、唯一の救いといえる。
「あとは、あの方の御心を、取り戻せたらいいんだけど……」
二百年間ずっと己の存在を否定され続け、罰を受けなければ自我を保てないほどに壊れてしまった主の心。取り戻すとは、どの状態を指すのだろう。光耀教会に行く前の状態か。それとも、二百年前……玄からの否定を受け始める前の姿か。
そこまで考えて、巽は絶望的な気持ちになった。
玄が主を虐げ始めたという時期と、主が柊士や白月という何より強固だった寄る辺を失った時期が重なる。ぽっかり空いた心の穴を埋めるように、毒を注ぎ込まれ続けたのだ。
毒を抜き、穴を埋めて差し上げなければ、あの方は元に戻らないかもしれない。絶対に埋まることのない大きな穴を――
打ち手なし。
皆が黙り込む、重苦しい空気。
その静寂を切り裂くように、パチンと、扇を閉じる音が響いた。
「椿殿、その元凶は今、何処に?」
燐鳳のものとは思えないほどに低く、冷たく突き刺すような声。
「先代秩序の神の拠点だった塔に、朱が連れていきました」
「では、その、塔とやらは何処にあるのです?」
椿の答えに問を重ねた燐鳳に、巽は嫌な予感が過った。
「……燐鳳殿、まさかと思いますが……塔に……」
「瞳から光を奪い続けた害虫を駆除しに行くのですが?」
何を当たり前のことを、という顔で宣う燐鳳にゾッとした。
「秩序の神の眷属相手に、戦争でもするおつもりですか……?」
「どれ程の戦力があれば良いでしょうね?」
「や、やめてください! 戦力なんていくらあっても足りません! 大量に死者が出ますから!!」
巽はギョッと目を見開き、思わず声を荒げる。しかし、燐鳳の表情は変わらない。
「おや、眷属は、神の理のせいで地上の者を殺せないのでしょう?」
「違います! 殺せるけど、奏太様がその罰を受けることになるんです!」
「けれど、眷属は秩序の神を地に堕とすようなことはしない。以前、朱殿が仰っていたではありませんか。だいたい、たとえあの方が罰を受けて地に堕ちたとして困ることがありますか? むしろ、奏太様を神からお返しいただけるのなら、そのほうが望ましいのでは?」
巽は燐鳳のあまりに過激な言い分に、眩暈を覚えて額を押さえた。
「制約に触れたことによる罰が何か、わからないから問題なんです。陰の御子のように、永遠に封印されてしまう可能性だってあります。あと、そもそも先代眷属を甘く見すぎです。圧倒的な力で制圧して、生きたまま地獄の責め苦を負わせることを平気でやるのがあの方々です。本質的に、人妖鬼は神々が管理する箱庭の人形くらいにしか見てないんですよ。朱さん達だって、仕える神が地上の者達を慈しんでいるから、それに従ってるだけです」
その過激派が玄だった。人で在りたいという主の願いと真っ向からぶつかる思想。それでも、朱や白が主の意を尊重していたから、玄もそうだと思い込んでいた。もっと早く気づくべきだったのに。
「とにかく、先代眷属への手出しは厳禁です。眷属の処分は神々の領分。奏太様が正気に戻られた時に、御自分のせいで何人も地獄を味わわされたと知ったら、今度こそ戻ってきてくださいません。今は堪えてください」
巽の必死の説得に、燐鳳は露骨に顔を歪めた。
「貴方は、あの塵が憎くないのですか? あの方が味わった絶望よりも、更に深い地獄の底に突き落としてやりたいと思わないのですか?」
燐鳳の言い方には、憎悪と侮蔑の色が混じりあっている。拳を白くなるまで握り込み、ダンッとテーブルを叩きつけた。
「憎いですよ! 地獄に堕ちろって思いますよ!! ぐちゃぐちゃに絶望させて、この世から今すぐ消滅させてやりたいですよ!!」
心に溜まった鬱屈をぶちまけるように、巽は声を張り上げる。できるのなら、塔に乗り込み、あの方の二百年を奪ったことを死ぬ程後悔するくらい踏み躙ってやりたい。けれど、そうはいかないから、心に渦巻く衝動を、理性で必死に押し殺しているのだ。それに――
「けど僕は、同じくらい、気づいて差し上げられなかった自分自身が憎いんです……」
巽は、手のひらに自分の顔を埋めた。自己嫌悪に押しつぶされそうで、涙がでる。顔に爪をたて、沸き上がる震えを必死に押さえつけた。後悔しても、しきれない。自分の無力さに、吐き気がする。
けれど、こうしていても、何も動かない。何かしなければ、あの方は未来永劫、戻ってきてくださらない。
巽は、震える喉から、喘ぐような息を吐き出した。
「とにかく、今は奏太様が最優先です。あの方の御心が戻らなければ、僕は、生きている意味がありません。あんな奴に構っている場合じゃありません」
(何か、方法を考えなければ)
巽はそのまま、スッと立ち上がった。
「奏太様の様子を見てきます。僕の話を聞いたうえで、それでも塔へ復讐に行きたいのなら、ご自由にどうぞ。僕は止めました。この先、貴方がどうなろうと知ったことではありません。あの方の御負担になるようなことは隠し通せば良いだけ。僕は、あの方さえ居てくだされば、それで良いですから」
未だ納得のいっていなそうな燐鳳に、巽は背を向ける。扉に向かうと、全てを断ち切るようにパタリと閉じた。




