72. 主の帰還:side.燐鳳
燐鳳は、結界に覆われた商会の庭で、今か今かと空を眺め、主の帰還を待っていた。巽に言いくるめられ、主の『身内』発言に浮かれて送り出したのを、この数時間で何度後悔したかわからない。
武官達が燐鳳の周囲を護っているが、まるで腫れ物に触るのを恐れるように、ビクビクしている。燐鳳に商会に残るように言った巽もまた。
「……あの……、燐鳳殿、中に入りませんか?」
1時間ほど経過したところで巽に言われたが、燐鳳はジロリとひと睨みしただけで、その言葉を黙殺した。その後も、巽は燐鳳の側で戸惑いがちに、チラチラと燐鳳や武官達を見ては、何かを言いかけて黙るのを繰り返していた。
それから、どれ程の時間が経っただろう。
遠い空。いつものように鷲の姿の亘に乗るのではなく、椿に抱えられている主の姿が目に入り、背筋が震えた。何事もなければ、あのように帰ってくるわけがない。
陽の気の結界をすり抜けて商会の庭に降り立った主に、燐鳳は慌てて駆け寄る。
「奏太様!」
覗き込んだ椿の腕の中、主の瞳は、金と黒が混じり合い、まるで互いに侵食し合うように、複雑に揺れていた。その視線は、どこか遠くを見つめていて、一向に合う様子がない。
「……一体、何が……」
燐鳳は、唖然と呟く。すると、奏太の虚ろな瞳が、ようやく燐鳳の瞳を捉えた。
ふわりと浮かべられた微笑み。そこには、この世のものとは思えない美しさがあった。そのまま、主の腕が燐鳳の顔に伸び、頬に手が添えられる。温かみの失せた、凍りつくような冷たく細い指先。
「ねえ、燐。俺を罰してよ」
いつもの唇から発せられた鈴の鳴るような声に、燐鳳は凍りついた。
「奏太様!!」
椿が悲鳴を上げ、奏太を抱える腕に力を込める。しかし、奏太はそれを気にも止めない。
「燐の好きなようにしていいよ。いくらでも、ぐちゃぐちゃに踏み躙っていい。だから、俺を罰して。俺を、人でいさせて?」
燐鳳は、息を呑んだ。
「……なに……を……」
主が纏う、抗いがたい透き通るような美と神秘的な儚さ。この世の全てを魅了して吸い込むような何処までも無垢で純粋な引力。燐鳳を見つめる、神々しいはずの金の瞳が、本来の黒の瞳の光を奪い取る汚泥のように広がる。
自分を求める主の望み。燐鳳の瞳に、僅かに仄暗い欲が滲んだ。惹きつけられるように主の頬に手が伸び、白磁のような肌に指先が触れて――
「ま、待った! 今の、聞かなかった事にしてください! 燐鳳殿!」
巽の声が聞こえたかと思えば、燐鳳の腕がしがみつくようにグイッと引かれ、椿が奏太を庇うように燐鳳に背を向ける。
目の前から主の姿が消え、燐鳳は、まるで夢から覚めたように、震える自分の指先を見つめた。
「……私は……今、何を……」
呟く燐鳳に、巽はほっとしたような顔をする。それから、燐鳳の腕にしがみついたまま、血が滲むほど強く拳を握り締めている亘に目を向けた。
「何が、あったんですか。亘さん」
けれど、答えはない。
椿は迷うように瞳を揺らして亘を見たあと、巽と燐鳳に目を向けた。
「説明は後でします。今は、奏太様をお部屋に」
「……ねえ、罰して、くれないの?」
主は、子どものように首を傾げる。椿は、今にも泣き出しそうな顔で主を見下ろす。
「罰なんて、必要ありません。奏太様」
しかし、奏太は首を横に振った。
「必要だよ。椿、降ろして」
「ダメです、大人しくなさってください」
「降ろしてよ」
その声音に、冷たさが混じる。いつもの奏太の声の中に逆らうことを許さない、神の響きが滲み出ていた。
椿は悲痛な顔のまま、そっと奏太を地面に降ろす。
「誰も罰してくれないなら、もう、いいよ」
奏太は、トンと椿の肩を押し除け、燐鳳を見向きもせずにフラフラと屋敷の中に戻っていく。
誰も触れられぬまま、ただ、皆が奏太のあとをついて歩く。階段に躓き、体が揺れ、不安定に歩みを進めているのに、誰も手出しができなかった。
奏太の部屋。
主はおもむろに机の引き出しを開けた。
何をしているのかと見守っていると、ペーパーナイフを取り出す。更に、自分の片手を広げて机に押し付け、ナイフを思い切り振りかぶった。
「「「「奏太様!!」」」」
燐鳳の、椿や巽、亘の声が重なった。
亘が奏太の体を後ろから羽交い締めにし、椿が振り上げられた腕を取る。巽が、机の上の手に覆いかぶさるように突っ伏した。
目の前に駆けつけた燐鳳を、押さえつけられたままの奏太が見上げる。
「罰、与えてくれる気になった?」
……何故……何が、主をこうしてしまったのか。
燐鳳は痛みに震える心を押し込め、ギュッと奥歯を噛んだ。こんな主の姿は、見たくなかった。
燐鳳は細く息を吐き出すと、一度目を伏せてから、小さく主に微笑んで見せた。
「では、こう、いたしましょう」
燐鳳はそう言うと、巽が庇っていた奏太の手を取る。
「……燐鳳殿、何を……」
戸惑う巽を他所に、燐鳳は懐に入った白い絹の布を取り出した。それを広げて細く依ると、主の手首に巻きつける。
「椿殿、そちらの手も」
「……しかし……」
「ずっと、主をそのように拘束しておくおつもりですか?」
燐鳳が冷たく言い放つと、椿は迷うように瞳を揺らしながら、そっとその手を放した。
燐鳳は力なく落ちたその手も同じようにとり、主の両手を重ねるようにして縛り上げる。
主は静かに、抵抗することもなくその様子を眺めていた。
「……これが、罰?」
「ええ。奏太様、少しの間だけ……貴方の心が落ち着かれるまでの間だけ……、どうか、ご辛抱ください」
燐鳳の言葉に、奏太は「そっか……」と、小さく呟いた。




