71. 隠し事の露見
奏太は、一心不乱に自分の中の力を集めた。闇を祓う陽の気と、命を満たす金の力がふわりと楓の体を覆う。奏太が注ぐ力と共に、日石が輝き共鳴する。
白と金の力が楓の体を蝕む闇を祓い、弱った命を留めおく。秩序の神の聖なる息吹を、自分のせいで傷ついた、この犠牲者に。
金の力を与えれば、楓の顔色に少しだけ赤みが差して呼吸が安定し――
瞬間、ミシッと骨が軋むほどの力で手首を掴まれた。
「今、何を?」
いつの間に近くに来ていたのか。低く、底冷えのするような玄の声が、すぐ耳もとで響いた。
「神の力を、人間一匹を救うために使ったのですか?」
「放せ。楓ちゃんを――」
「私の言葉が聞こえませんでしたか? 貴方は、くだらない人の身体を維持する為だけに飽き足らず、ゴミ虫にまで、尊い神の力を使ったのですか?」
掴んだ手首を乱暴に引き寄せると、玄はもう片方の手でガッと首を掴んできた。亘達がいることも、誰の目に映っていることも気に留めず、憎悪のこもった目で、奏太の目を覗き込む。
「この二百年、申し上げてきた私の言葉は届きませんでしたか? もっと、痛みが必要ですか?」
「玄!! 何をしている!!!?」
亘の怒号が響く。しかし、玄はそちらを見向きもせずに、パッと手を振った。
「うるさい。不完全な木偶が」
その途端、一帯に空気ごと押し潰すような圧がかかった。亘も、椿も、重しに耐えきれず、その場に膝をつく。奏太は、ハッと息を呑んだ。
「やめろ、玄 ――グッ……!」
奏太が声を上げかけると、首に爪がそのまま食い込んだ。
「金の瞳はどうしたのです? これが、恐ろしかったのでしょう?」
ググッと、更に爪が皮膚を食い破っていく。
痛みと恐怖に、目の前が白くなりかける。
鳥籠の光景が頭を掠め、自分をのぞきこむ瞳が、あの鬼の瞳の中にあったねっとりとした熱に重なる。身体が震える。けれど――
(――ダメだ。約束、したんだ)
玄にも……誰にも奪われないように首からかけていた、大切な御守り。胸にあるその存在に、その温かさに、奏太は必死に縋りついた。
完全に金に飲まれたら、きっと、「人」には戻ってこられない。
「まだ、痛みと恐怖が足りませんか?」
今度は顔を乱暴に掴まれる。痛いくらいに力の籠った冷たい指が、頬にも食い込む。
「金の御力が、正しきを教えてくださるはずなのに何故、黒い瞳のままなのです?」
確かめるような、昏い瞳。その目が、フッと不気味に細められた。
「ああ、あの鬼に、これ以上ないほど惨めに喰い荒らされたのでしたね。こうすれば、思い出しますか? 脆弱な人の身に閉じこもっていることが、どういうことか」
パッと顔の手が外れ、乱暴に服の襟首が引かれた。露わになった首筋に玄の顔が近づく。
生暖かい息が首筋を這い、奏太は激しい悪寒に身を震わせた。
何度も、何度も、鋭い牙を皮膚に立てられた記憶が鮮明に蘇る。張り詰めていた理性の糸がギリギリと音を立てて切れそうになる。
「……や……め……」
奏太の喉から漏れたのは、言葉にすらならない掠れた音。
視界の端で、金色の粒子が散る。
内なる「神」が、恐怖と痛みに反応して目を覚まそうとしている。
必死に黒い瞳を保とうとする奏太の抵抗を嘲笑うように、玄の唇が、かつて鬼が牙を立てた場所をなぞるように滑り、肌に、その歯が当たった。
鳥籠の中、牙が食い込み、熱い血が溢れ、自分という存在が摩耗していく、あの感覚が蘇る――
「……い……やだ……」
そう、声が漏れた。
堪えていた金が、じわりじわりと滲み出す。
玄の唇が首から離れ、覗き込まれた瞳には、抑えきれない熱と愉悦と狂気が満ちていた。
「ああ、美しい。もっと――、もっと、見せてください」
玄の歪んだ歓喜の声が聞こえたかと思えば、再び濡れた唇の感触が首筋に戻り、今度はガリっと、強く噛まれた。
「――――ッ!!」
叫び声を上げかけた瞬間、玄の身体が後ろから何かに引っ張られるようにして、奏太の目の前から消えた。
直後、ダンと音を立てて玄が倒れ込むのが目に入る。
それと共に、周囲に満ちていた圧迫感がフッと消失した。
玄の代わりにそこにあったのは、厳しい表情を浮かべた朱の姿。
「そこまでだ、玄」
静かに朱の声が響くのと同時に、焦った顔の亘と椿が駆け寄って来る。
「奏太様!!」
「奏太様、大丈夫ですか!?」
温かな手が背に当てられ、強く肩を抱かれた。
しかし、身体がガタガタと震えて歯の根が合わず、答えられない。金に飲まれる恐怖か、鳥籠の恐怖か、それすらもわからない。
ただただ怖くて、無我夢中で目の前にあった亘の服を掴んだ。
「……わ……わたり……、わたり……」
「大丈夫です、奏太様! 落ち着いてください!」
呼吸が浅く、空気がうまく入ってこない。苦しくて、苦しくて、涙が頬を伝う。
ガバっと亘に抱え込まれ、その温かい手が背中を擦った。
「大丈夫ですから、ゆっくりと息を吸ってください」
冷え切った身体。それが、自分を包む亘の熱によって、少しずつ体温を取り戻していく。呼吸が緩やかになり、ようやく、息が身体の中にきちんと入ってくるようになってくる。
亘は奏太の顔を真正面から見て落ち着いた様子を確認すると、奏太の身体を椿に委ねた。
「椿、奏太様を放すな」
「もちろんです」
椿にギュッと背中から抱えられ、バサリと大きな白い翼で覆われる。これ以上、誰にも触らせまいとするように。
亘は立ち上がると、刀をスラッと抜き放った。
朱に押さえつけられたままの玄に鋭い視線を向ける。
しかし、当の玄は、朱に拘束されているにも関わらず、ハッと嘲るように笑った。
「その方が俺を裁くことを良しとしないのに、お前が俺を裁けると思うのか、亘」
玄の言葉に、亘は怪訝な目を向ける。
「……どういう意味だ?」
「二百年、ずっとそうだったのに、今更、その方が裁けるわけがないって言ってるんだよ」
玄の口調に、奏太は息を呑み目を見開いた。
「玄、やめろ!」
奏太が叫べば、玄は口元を歪ませる。
「事実でしょう?」
その言葉に、ピタリと時が止まったようになった。
「…………は? 二百年……?」
唖然とした亘の声が落ちる。
「教えてやったらいかがです? 貴方の罪を。俺の行為が、どれ程正しいのかを。二百年、罰を受け入れてきたのですから、もう十分、お分かりでしょう?」
刀を握る亘の手が、白くなるほどキツく握られ小さく震えているのが見える。
「お前は、この方に、二百年も、こんなことを……?」
それだけで、亘がどれ程の激情を抱えているかが分かった。
「……だ、ダメだ……亘」
奏太は咄嗟に亘に向かって手を伸ばそうとする。しかし、すぐに椿に押さえられた。
「大人しくなさっていてください、奏太様」
「でも、ダメなんだ。玄に手を出すな、亘」
亘の手がピクリと動く。視線は玄に向けられたまま。奏太の方を見ようとはしない。
「何故、止めるのです? このような目に遭わされ続けた貴方が、何故?」
低く怒りを湛える声。悲憤と疑問と失望が混じり合ったような、奏太が一番、聞きたくなかった声。
落ち着いたはずの震えが、戻る。
「……それは……」
「その方は、俺を拒めないんだよ。罪人は、俺ではなく、その方自身だから。ねえ、そうでしょう。我が君?」
玄の嘲笑の声が響く。
「……罪人?」
「神の御力を、穢らわしい人の身体を保たせるために使い続けてきた罪、だよ」
「玄っ!!」
奏太は悲鳴めいた声を上げた。
聞かれたくない。私欲の為だけに神の力を使い続けてきたことを。醜い、自分の罪を。
「これは、正当な罰だ。その方自身も認めている、な。聖なる神の力を、縋る価値もないゴミを維持する為に無駄に使い続けてきたのだ。当然だろう?」
「玄、もう、やめてくれ……!」
奏太が言いかけた瞬間、亘は怒りをぶつけるように、ガっと床に刀を突き刺した。
「……穢らわしい、人の身……? 縋る価値もない、ゴミ……?」
低く、地を震わすような声。
「二百年も耐えていたと? こんな暴論を、暴力を受け続けてきたことを、誰にも知られず、ずっと隠していたのですか?」
「……そ……それは……」
「人の身に縋ると仰っていたのは? 一人、これに耐えるおつもりだったということですか? 人の身でいることを罪だと罵られながら、これが罰なのだと、受け入れ続けるおつもりだったと?」
振り返り奏太を見る目には、慟哭にも似た色が浮かんでいた。
「何故、言わなかったのです! 何故、助けを求めてくださらないのですか!? 何故、我らの誰にも……!!」
「亘さん!」
椿が奏太を守るように腕に力を込めながら声を上げる。しかし、亘はそれを振り切るようにさらに声を荒げた。
「我らは、それ程信用なりませんか!? 奏太様!!!」
知られたくなかった。心配させると思った。こんな情けない姿を見られたくなかった。最初は、そうやって隠した。
けれど、必死に人の身に縋っていること、それ自体の罪を玄に問われ続けている内に、穢らわしい私欲で神の力を使い続ける自分を知られるのも怖くなった。
言えないまま、時が経つにつれて、隠し事をし続けていることへの罪悪感も増していった。
全てが露見して、失望されて離れて行ってしまったらと、そんな恐怖も抱えるようになった。だから、絶対にバレてはならないと、そう思っていた。
「……ご…………ごめん…………ごめ…………なさ……」
「亘さん、やめてください! 奏太様が震えてるのがわかりませんか!?」
椿の言葉に、亘はギリッと奥歯を噛んだ。まるで、奏太を見ていられないとばかりに、視線を玄と朱の方に戻す。
「朱、それを、どうするつもりだ?」
「白が来ている。奏太様の御許可さえあれば、玄は塔に戻す。そのようにして、よろしいですか? 我が君」
朱の目が、じっとこちらを見据える。奏太の判断を問う亘と椿の目も、嘲りを混ぜた玄の目も。
「…………わ……わからない……何が……正しい、のか…………罰せられるべきなのは、俺、なのに…………玄を戻すことが……本当に……」
奏太の言葉に、玄がニッと笑った。
「よく、お分かりですね。我が君」
幼い子どもを褒めるような猫撫声。
それに、亘が怒りのまま叫んだ。
「黙れ!!!」
奏太はビクッと肩を跳ねさせる。
「亘さん!!」
椿が声を荒げた。
「今は、奏太様を優先させてください。玄の事は朱に任せましょう。裁きも、今でなくてよいでしょう」
亘は椿と奏太を見たあと、朱と玄をまとめて睨み、チッと舌打ちをする。朱はそれに、小さく息を吐いた。
「ひとまず、塔に連れて行くとしよう」
朱は、玄を拘束したまま、礼拝堂の外に連れ出そうとする。奏太はそれに目を見開いた。
「ま……待って、朱、玄! 俺を、置いていくなっ!」
奏太は、慌てて椿の腕から抜け出して玄に手を伸ばす。
このままおいて置かれたら、罪の精算ができない。罰が、そのままになってしまう。人として、生きる赦しが――
しかし、すぐにグッと後ろ向きに体を引かれ、伸ばした手も別の大きな手に掴まれた。
「放せ! 椿! 亘!」
「いけません! 奏太様!」
「罰が、必要なんだ! 俺が存在している罪を精算しなきゃ、俺は……!」
喚く奏太に、玄は薄く笑う。
「放して差し上げたらどうだ、亘? 主は、俺をお求めのようだ」
冷たく嘲笑う声。
「亘、放せ!! 玄、待って――……」
――パンッ!
突然、乾いた音が奏太の耳に響いた。痛みとともに、ジンと熱くなる頬。
平手を振り抜いた亘の姿が瞳に映り、ピタリと時が止まった気がした。
頬に触れ、奏太はその痛みを確かめる。
「………………あ…………ああ…………、そういうことか……、」
自分が何をされたのかをようやく理解して、奏太はポツリと呟いた。それと共に、ふつふつと歪な笑いが込み上げてくる。
「……あは……あはは、あははははは!」
静まり返った周囲に響く奏太の声。
皆が唖然と言葉を失っているのが映る。そこにあるのは、恐怖か、侮蔑か、嫌悪か。
奏太はピタリと亘を見据えた。
「今度は、お前が、玄の代わりに俺を罰するのか? 亘。それとも、ここにいる全員かな?」
なんて、滑稽なのだろう。日向奏太を守り抜いてきた護衛役に、罰を与えられるなんて。
クスクスと止まらない笑いに肩を震わせていると、亘が恐怖に染まった顔で、奏太の肩を思い切り掴んだ。
「奏太様!! しっかりしてください!!」
その途端、奏太の表情は完全な無に変わる。
「違うだろ、亘。掴むなら、ここだよ」
奏太は、そっと、自分の首を手で掴んで見せた。
くっきり残るほど、憎悪と愉悦で幾度となくつけられてきた指の跡。傷は消えても、感触はすぐに蘇る。
亘が目を見開き、見たこともないくらいに表情を歪ませる。そんなに驚くことじゃないのに、何故、そんな顔をするのだろう。
さらに亘は、奏太を強引に引き寄せ、強く抱きしめた。震え、泣いているのが伝わってくる。
「……申し訳……ございません……」
奏太は首を傾げた。
「なんで、お前が泣くんだよ? 笑えよ。首を絞めて、爪を立てて、穢らわしいって、罵れよ。金に染まった瞳を見せろって、神を返せって、床や壁に叩きつければいいだろ」
玄が、常にしていたことだ。
「涙に濡れた金の瞳が美しいって――笑えよ」
何だか、心の中が、どんどん空虚になっていく。
亘の肩越しに見える世界は、こんなに色が無く、褪せていただろうか。
(……まあ、もう、どうでもいいか。そんなこと)
自分のどこかに繋がっていただろう細い糸を、奏太はそのまま、パッと手放した。
残ったのは、金と黒が複雑に混じり合い不安定に揺れる瞳だけ。
今日は、後ほどもう1話更新予定です。




