61. ハガネの企み
「あの方の仰った通り、わざわざ人界から陽の子孫を連れてきて正解だったようですね。あれは貴方の血族だとか」
上機嫌なハガネの声音が背から響いてくる。
「……俺を、捕らえるためだけに……あの子を……?」
「ええ。囮にするなら有効だろうと。人界との結界の穴の前で待ち構えていればやってくると聞いていたので、それ程の労は必要ありませんでしたよ」
人界と鬼界との間に結界の穴が開けば、守り手はそれを塞ぐため、最優先で穴の前にやってくる。かつて、奏太がそうであったように。
「闇の深まりによって結界も脆くなっていますし、白の渦を見つけるのも容易でした」
ハガネの言う通り、三百年前に一度強固になった結界が、近頃の闇の頻発によって、綻びが生じる回数が増えている。
けれど、それらを、鬼界の一教会の大司教が知っているはずがない。
「……あの方って……誰だ?」
「貴方を壊したくて仕方のない御方ですよ。上手く事を運べば、私に貴方をくださると約束してくださったのです」
「……闇の……女神か……」
ハガネが、ククッと笑った。
それから、濃く深い闇の色に染まった手のひらに乗る大きさのガラス玉を取り出すと、ハガネはそれを床に叩きつけた。
パリンとガラスが割れる音と共に、闇がブワッとハガネと奏太を包みこむように足元から持ち上がる。
周囲の闇に、さらに体の中の闇が反応し、これ以上、立っていられなかった。
「「奏太様!!」」
虚鬼と入り乱れて戦う者達の間から、亘と椿の悲鳴めいた声が響く。
目の前が、少しずつ、闇に侵食されていく。
「覚えておいでですか? 深淵の闇に飲み込まれそうになった、ある小さな孤児院をお救いになった時のことを」
懐かしむようにハガネが言った。
「貧しい孤児院の最底辺でいじめられ、孤立し、闇の中に追いやられそうになった私を、救い出してくださったことを」
闇に塗れたハガネの手が奏太の顔に触れ、くっと引き上げる。
「金と白の光は私の希望となり、同時に凄惨な虐めの中で生き永らえなければならぬ地獄をもたらしました。けれど、貴方が救ってくださったのは、あの一度きり。どれ程、私が貴方に救いを求めたか、お分かりですか?」
闇に飲み込まれそうになった孤児院も、そこで深淵に迷い込みそうになった鬼の子を助けたのも、覚えている。
この三百年の中の、膨大な闇祓いの対応の一つ。
「光耀教会に来たのも、貴方を追い求め続けていたからです。私を救ってくださった金と白の光に相見えたら、二度と、手放さないようにと」
体も思考も、闇に侵食され、上手く働かない。
「今は不快でしょうが、あとで、闇の力を全て抜き出して差し上げましょう。貴方の美しい光が闇に汚されるのは、本意ではありませんから」
「……うぅ……ぐ……っ」
抵抗する声すら、呻きに変わる。
「光耀教会に、貴方に相応しい祭壇を用意したのですよ。参りましょう、我が神よ」
目の前が、底なしの漆黒に覆われ、世界を閉じかける。
刹那。
黒と金の混じる剣が、金の閃を残して闇を切り裂いた。
それは、秩序の神から与えられた、闇に対抗し得る眷属の力。
あちら側の世界が、斜めに線を入れたように開かれ、そこから伸びた一本の手が、奏太の腕を強く掴む。グイっと力任せに引かれ、それと共に、奏太の脇の下を縫うように黒と金の剣が勢いよく突き出された。
「グッ、アァッ――!!」
剣は、容赦なくハガネの脇腹を貫き、抜き様に血が溢れ出す。
引きずり出された元の世界にあったのは、奏太の腕を掴む玄の姿だった。
「下賤な鬼ごときが、神に触れるな」
怒りと嫌悪に満ちた低く凍りつくような声。
「……あ……りがとう……玄……」
未だ胸に渦巻く闇の力に耐えながら床に膝をつくと、玄は忌々しげに奏太を一瞥した。
「脆弱な人の身でいるから、闇にも鬼にも汚される。何故、このように簡単な事がお分かりにならないのでしょうね」
そう言いつつ、玄は剣を再び、残った闇の中に突き出す。
「――ガッ……ハ……ッ!!」
ハガネの苦痛の声が響き渡った。
「クッ……、眷属風情が、邪魔を……」
「圧倒的上位の存在に、礼儀がなっていないようだな、ゴミ虫」
心底不愉快そうに、玄が表情を歪めた。
そして、もう一度、剣を振り上げる。
しかしそこで、ピタリと玄の動きが止まった。
「やめろ、玄。殺せば制約に触れる」
背後に聞こえたのは、冷徹に落ちる朱の声。
虚鬼の始末をつけてきたのか、玄の腕を取り、ギリッと強く握りしめていた。
「闇の御方様に支配された者は、守護の対象外だろうが」
「意志が残っている以上、完全に支配されたとは言い切れない。神を地に堕とすつもりか」
朱の言葉に、玄はチッと舌打ちをする。
その瞬間、もう一度、パリンという音が響いた。
玄に切り裂かれた闇を修復するように新たな闇が縫い合わせていき、血で濡らした手で脇腹を押さえるハガネの姿が向こう側に消えていく。
「いずれ、再びお迎えに上がります。神よ」
闇に塗りつぶされた向こうから、ハガネのその声だけが、その場に不気味に残った。
「糞ッ! お前が止めるから、あの塵を取り逃がしただろうが、朱!!」
玄が怒りと共に悪態をつく。
「制約を破るよりはマシだ」
朱は玄にそう答えると、スッと奏太の側に膝をついた。奏太の体にそっと触れ、状態を確認する。
「少しずつでも結構です。闇の御方様の御力を、御自身の力で安定させられますか?」
「……時間が……あれば……何とか……」
ゆっくり奏太が答えると、朱が眉尻を下げた。
「相殺するための陽の気の消耗が激しいのですね」
朱がそう言った時だった。グイッと奏太の体が玄に抱えられた。
そのまま、放心状態で座り込む楓のもとに連れて行かれる。
途中、虚鬼の始末を終えたらしい亘と椿が駆け寄ってきた。
「奏太様!」
「一番近くに居ながら、簡単に主を奪われるな。木偶が」
不機嫌そうな玄の声に、亘が眉根を寄せた。
いつもの玄であれば、亘たちの前でも取り繕った態度をとる。自分の本性を覆い隠して、従順な眷属の体を崩さない。
今は、それだけ気が立っているということだ。
「……、申し訳ありません、奏太様」
亘は言葉を飲み込んだように、頭を下げた。
「いや……、俺も……不注意……だった……ごめん……」
「仰る通りですね」
玄は鼻を鳴らし吐き捨てるように言う。
「玄、お前は――……」
「どけ。今、そんな問答をしていて良いのか? お前らの大事な主様が、闇に侵食されているのが見てわからないか?」
玄の言葉に、亘はぐっと口を噤んだ。
それをドンと肩で突き飛ばすようにして、玄は先に進む。
楓の前まで進み出ると、抱えていた奏太を降ろし、その場で膝をつき恭しく頭を下げた。
「陽の御子の子孫たる姫様にお願い申し上げます。我が君に、陽の御力をお貸し下さい」
「……姫……様……?」
楓が、戸惑いの声を上げた。
日向の一族、とりわけ、陽の気を使う者は、陽の御子――秩序の神と陽の神の遠い子孫。秩序の神の眷属達にとっては、主の力を受け継ぐ者達だ。
秩序の神となる前の奏太も、朱に『若様』と呼ばれていた。そして、従姉にあたる白月は『姫様』と。
「主の中の闇を相殺し整えるには、陽の御力が最も有効なのです。どうか」
「……け、けど……私も、陽の気が、もうあまり残っていなくて……」
「ほんの少しで構いません、主の苦痛を取り払う御力添えを」
玄が言葉を重ねれば、楓は青白い顔をしたままの奏太をみやったあと、ぐっと表情を引き締めた。
「わかりました」
楓は、奏太の近くに寄ると、奏太の胸のあたりに手をかざした。
「……無理……しなくていい。……時間が経てば、回復……するから……」
「少々、黙っていてくださいますか、我が君。あれが戻って来たり、闇の御方様が現れれば、どうなさるおつもりで?」
冷たく見下ろす瞳。
玄は奏太の体の心配をしているのではない。
秩序の神を汚されることへの忌避と、神の役目すら果たせぬ奏太への怒り。ただ、それだけ。
「さあ、姫様」
奏太に対する冷たい声音を緩め、玄は楓を促した。
楓はコクリと頷くと、手をパンと打ち鳴らした。
守り手が自身の力を頼りに陽の神の力を借りる時の祈りの動作。その薄紅の艷やかな唇から、涼やかな声音で祝詞が紡がれていく。
白一色の輝くような陽の気。それが、まっすぐ奏太に注がれる。
ほわりとした温かさに、胸を締め付けられる思いがした。
それは、故郷である人界の日の光と同じもの。そして、かつて闇に苦しんだ奏太に、柊士と白月が必死に注いでくれた力。
「……あぁ……、懐かしい……」
涙が出そうになるほどの、郷愁。
奏太は、体の中に入ってきた楓の陽の気を手がかりに、少しずつ、少しずつ、陽の気で体の中の陰の気を相殺していった。消しきれぬヘドロのようなドス黒い闇だけを、元の通りに、陽の気と金の力で体の奥底に抑え込んでいく。
ようやく吐き気が収まり、元の通りに息を吸えるようになってきた。
しかし、そう思ったところで、玄が、先程の恭しい態度など微塵もなく、乱暴に楓を奏太から引き剥がした。
「ちょ、ちょっと! まだ……!」
楓が抗議の声を上げたが、玄は楓を振り返りもしない。
奏太の顎を冷たい指が掴み、無理やり顔を上げさせられた。奏太の目を覗き込んだのは、蔑みの瞳。
「もう、よろしいですね?」
「……うん、ごめん……玄……」
奏太が謝ると、玄の表情が、はっきりと分かるほどに歪んだ。
そして、そのままその唇を奏太の耳元に寄せる。
「謝罪するくらいなら、さっさと神を解放してください。秩序の神たる御方が、陽の御子の御力を露ほども継がぬ矮小な人間に縋らねばならぬとは。惨めにも程があります」
そこまで言うと、玄はパッと奏太から手を離した。




