閑話. 日向家での話合い:side.巽
日向本家の一室。巽は燐鳳の隣に座らされ、胃をそっと押さえた。
目の前には日向家の当主とその息子。先ほど、奏太に暴言を吐いた少年だ。
あの後、主は一頻り子どものように泣き、頑なに自分を放そうとしない亘に素直に抱えられて部屋に戻った。
すぐにでも巽達の前から消えてしまいそうだった昼間までの雰囲気は、涙と共に流れ落ち、目を赤くしたその顔からはすっかり憑き物が落ちたように見えた。
ほっと息を吐き、自分も主と共に部屋に戻ろう。そう思いながら亘の後を追おうとした、その時。
タタッと駆け出そうとしたところで、冷ややかな燐鳳の声に呼び止められた。
「お戻りになる前に、事情説明が必要なのではありませんか、巽殿?」
ゾクリとするような視線を感じて振り返れば、感情という感情を全て殺したような笑みを浮かべる燐鳳と目が合った。
「……え……えぇっと……僕、ですか? けど、奏太様が……」
そう言いかけたが、燐鳳はじっと巽を見据えたまま、何も言わない。有無を言わさぬ圧力に、足がじりっと後ろに下がる。
仲間に助けを求めようと主のいた方に視線を戻せば、主しか目に入らぬ亘はもちろん、汐、椿にも置き去りにされていた。
薄情、という言葉をこれほど強く感じたことがあるだろうか。
巽はそのまま燐鳳に連行され、先ほどの状況を作った親子と共に一室に閉じ込められることになったのだ。
「だいたい、流れは理解しました。それで? あの方の御心を砕いた代償は、貴家の歴史すべてを差し出しても釣り合わぬのですが、どう拭うおつもりで?」
薄い笑みを浮かべつつ、手元で閉じた扇をミシミシと握る燐鳳に、当主は完全に顔色を無くしている。
一方で、未だ状況を掴みきれていないのか、息子の方は不満を隠しきれていない。
この状態の燐鳳を前に、よくもそんな態度が取れるものだと、感心する。
主をあそこまで追い詰め壊しかけたのだ。正直なところ、報いとして、このまま燐鳳の怒りに触れて血を見れば良いという気持ちがないわけではない。
けれど、それでは日向の子孫達を護ろうとしてきたあの方の意に反するのが悔しいところだ。
「まあまあ、燐鳳殿。奏太様のご親族ですし、お手柔らかに」
少年が八つ裂きにされたことを知って心を痛めるのは主自身。別に少年がどうなろうと知ったことではないが、主の煩いの種は排除しておきたい。
そう思って言っただけなのに、燐鳳は目を細めて巽を見据えた。
「親族だから、何か?」
心胆を凍りつかせるような声音にゾゾッとする。
「主の害悪にしかならぬ身内や家など、切り捨てたほうが良いでしょう」
そういえば、この男の叔父は、先帝白月を救うために柊士を人質にとり、人であった奏太を鬼の巣窟に連れ出すような者だったと思い出す。血筋か教育か。いずれにせよ、この危険思想はきっちり燐鳳に受け継がれているらしい。
「いや……あの……奏太様が、この少年に、金の御力をお与えになったので、勝手に処分すれば、お怒りに触れるかと……」
瞬間、バキッと木が鳴る音がすぐ隣で聞こえた。
燐鳳の手の中の扇子が折れているのが見える。
「金の御力を……このような小僧に?」
「い、いや、ほんの少し、たった一度きりの守護の為、ですから!」
小さな守護から眷属まで、金の力の譲渡量次第で、あの方との繋がりが大きく変化する。そして、燐鳳がその繋がりを何より求めているらしいと、以前どこかで聞いたことがあった。
完全に、巽の失言だ。以前から、一言多いと主に言われてきたが、どうにも学ばない。
「ほう。ほんの少し、ですか」
燐鳳の呟きに、巽は全力で頷いた。
「はい! なので、処分だけはやめましょう! あの方がお厭いになりますから! これ以上、奏太様の憂いを増やすのは、燐鳳殿も避けたいでしょう?」
そう言い募れば、燐鳳は品定めするような視線を少年に向ける。
「確かに、命を奪うのはお止めになるでしょうね」
踏みとどまってくれたか、そう、巽は胸を撫で下ろしかける。しかし――
「では、あの方の御力を得た部分だけでも切り落としておきましょうか。あの方をあのような状態に追い込んでおきながら、あの方の御慈悲に縋る資格などないでしょうから」
「……え?」
巽の疑問符に燐鳳は綺麗に唇の端を吊り上げた。
「手か、腕か、肩か、胸か、それとも頭部か。どこだったか、覚えておいでで? 巽殿」
その言葉に、少年がサアっと青ざめて、自分の手を隠すように引っ込める。それを燐鳳は目敏く捉えた。
「ああ、右手でしたか」
燐鳳の声に、どこか落胆のような響きが混じる。
かと思えば、後ろに控える武官にサッと手を振った。武官が動きかけたところで、巽は慌てて立ち上がる。
「ちょー、ちょっと待ちましょう! 燐鳳殿! 流血沙汰は奏太様の御心に負担がかかりすぎますから!」
「あのような者がのうのうと生きている方が御負担になるのでは?」
……もはや、話が通じる気がしない。
どうすべきか、と頭を抱えたところで、当主がその場でガバっと土下座の体勢で頭を下げた。
「申し訳ございません! あの御方に無礼を働いたこと、赦されざることと理解はしております。ですが、どうか御慈悲を賜りたく」
「か、母さん!」
少年は狼狽えたように、頭を下げる母親を見る。
「お前も頭を下げなさい!」
「け、けど、別に悪いことなんて言ってないだろ。姉ちゃんの弔いの邪魔をされたのも、淕が死んで一年も放っておいたのも、全部事実――」
少年がそう言いかけた瞬間、巽は堪らず、テーブルをダンと叩いた。
主の心を砕いた言葉を、ここで繰り返されることに耐えられなかった。
「――三百年」
巽がボソっと言うと、当主の肩がピクリと動く。
「ああ、覚えておいでで何よりです」
巽は瞳に仄暗いものを宿して微笑んだ。
「ちょうど、人界から妖界に、守り手様の御一人を送り出してから三百年。本来、日向家の御役目を果たすべき時ですね」
「……御役目?」
少年は訝るように当主と巽を交互に見る。
「今の守り手様は、君にとってどんな関係かな?」
「……どんなって……兄ちゃんと、従兄だけど……」
戸惑いのまま言う少年。巽は声に嘲りを混ぜた。
「じゃあ、本来、本家直系の長子である君のお兄さんを、当主は生贄にしなきゃならないってわけだ。土の中に生き埋めにして」
「……は? 生贄……? 何を言って……」
少年の表情に狼狽の色が浮かぶ。
「日向家と妖界の約定だよ。三百年に一度、最初の大君の血を引く者の人生を終わらせ、妖に変えて妖界の帝とするんだ」
もともと、先帝白月は、結という人間の女性だった。そして彼女もまた、奏太と同じ守り手だったのだ。しかし、三百年に一度の約定の為、『転換の儀』という忌まわしい儀式によって、人としての生を終わらされ、妖界へと送られた。護衛役と案内役であった、亘と汐の手によって。
「……し、しかし……妖界には、すでに奏太様が……」
「その方の御心を、御子息の無神経な言葉が壊しかけたという事実は、御理解いただけていますか?」
巽の言葉に、当主はグッと口を噤む。
「……か、母さん、本当なの?」
当主は答えない。それに、少年はサアっと青ざめた。
巽は、更に続ける。
「約定を破棄させたのは、十代前の守り手様方だった。柊士様、白月様、そして、奏太様。奏太様が三百年に一度の悪習を変えられるよう帝位に就いてからも尽くしてこられたから、貴方がたは痛みを負わずに済んでいるんです。そうでなければ、貴方はその手で子どもを一人、殺していたかも知れないんですよ」
結を妖界に送り出したことで、当時の者達がどれほどの痛みと苦しみを負ったか。亘や汐がどのような思いをしたか。巽は同じ里で見てきた。
巽は、今度は当主から少年の方に目を移す。
「君は、あの方に、『何も知らない部外者』と言ったね? けれど、君はあの方の何を知ってる? あの方がどれほどの犠牲を払って、この地と日向の子孫達を守ってきたか、知っているかい?」
「……そ……そんなの、俺が知るわけ……」
言いかけた少年が、巽の凄みに喉を詰まらせる。
知らないでは済まされない。
無知ゆえにあの方を傷つけるような真似は許せない。
ずっとあの方に守られてきた日向の子孫が、あの方の痛みの片鱗すら知らぬなどということが、許されて良い訳がない。
「君は今、なんで生きていられると思う?」
「……なんでって……」
「あの方がいなければ、君はそもそも、生まれていなかった」
少年は、何も言わない。
理解できているのだろうか。その意味を。
「あの方が、人であることを捨てさせられて、秩序の神にならなければ、この世は三百年も昔に滅びてたんだよ」
「……秩序の……神……?」
唖然とした、呟き。
それから、金の力を与えられた右手を見下ろす。
「秩序の神って……あの……闇から世界を救ったっていう……? けど……そんなの、御伽噺じゃ……」
御伽噺。その言葉に、内側から皮肉な笑いが漏れた。
平和ボケして、過去の痛みを伝承することすら怠ったのか、それとも、あまりに残酷だからと、都合よく歴史を塗り替えて教えたのか。
巽にとっては、今でもありありと思い出せる、あの凄惨な出来事が、三百年という歴史の中で、これほどまでに薄れてしまうのか。
「御伽噺だったら、どれほど良かっただろうね。でも、君は実際に、金の力を目の当たりにして、それを受けただろう?」
少年は、一気に顔色を無くし、右手をグッと握りしめた。その手が、僅かに震えている。
「あの方も、三百年前は、君と同じ、普通の人の青年だった。十八歳の、君の兄姉と同じ守り手様だったんだ」
学校へ通い、温かい家に帰る。無邪気に笑ったり怒ったりして感情豊かな、普通の人間の青年だった。そして何より、あの頃はもっと、純粋に生きることを楽しんでいた。
「けれど、この世を飲み込む闇を祓う為に、神にさせられた。あの方の意思とは関係なく。永遠に、この世を守る義務を負わされたんだ。死ぬことも許されず、親しい者を失い続けながら」
御伽噺のような美しい話じゃない。現実はもっと泥臭くて、その後に続く現実は、その純粋な青年に背負わせるには、あまりに残酷だった。
「あの方の犠牲がなければ、君も、当主も、その前の先祖達も生まれることはなく、世界は十代も前に滅びていたはずだったんだ」
あの時は、皆、必死だった。あの方も、皆も、故郷を、家族を、友人を、仲間を、護ることで精一杯だった。けれど、それはあの方の善性に生贄という役割を背負わせる行為だった。
たった、十八歳の青年を、世界を救い維持する為の人柱にしたのだ。
それでも、あの方はずっと笑って耐えていた。重荷に押しつぶされそうになりながら。それを共に背負い分け合っていた者達を亡くし続けながら。
「あの方が、何よりも守りたかったのは、日向という故郷と、そこに生きる者達だった。過酷な御役目を課され続ける子孫達を守る為に自らを犠牲にしてきたあの方に、『何も知らない部外者は帰れ』だなんて、到底、許されることじゃない」
巽にしてみれば、あの方が守ろうとした今の日向の子孫達こそ、何も知らない部外者に見える。それが、悔しくてならない。
少年を見れば、強く拳を握りしめ、口を引き結んだまま俯いていた。
巽は、それを心配そうに見やる当主の方に視線を向ける。
「末代まで、よくよく教育なさってください。貴方がたが、誰のおかげで平和に生きていられるのか。貴方がたの先祖が、貴方がたの為に、どれ程の痛みを負わされたのかと言う事を」
巽が言うと、当主は悲痛な色を瞳に浮かべながら、深々と頭を下げた。
「――巽殿、まさか、末代までの教育だけで赦しを与えるおつもりで?」
ずっと黙って成り行きを見守っていた燐鳳から、不満をにじませる、底冷えのするような声が聞こえた。
(あぁ……一番肝心な人の説得がまだだった……)
巽の思考が、スッと現実に引き戻される。
しかし、もはや、何を言っても聞かなそうな燐鳳を、これ以上止める気力も沸かない。
「…………ええと……誰も血を見ず、全員が五体満足で居られるなら、その他の制裁はご自由にどうぞ」
(……すみません、奏太様……)
巽は心の中で謝りながら、何とかしようと思っていた手綱をパッと手放す。
「……ふむ、外傷を残さなければ、良いのか……」
などと口元で呟く燐鳳の声が真横で聞こえたが、聞かなかったことにして、耳を両手でそっと塞いだ。




