5. 貴族の館③
主人の部屋の扉は、黒黒とした闇に覆われていた。こういう場所の奥には必ず、闇を広げる原因となるようなものがある。強い憎悪や悲哀を生み出すような何かだ。そして、そういったものは、たいてい吐き気のするようなものである事が多い。
奏太はグッと覚悟を決めて亘を見る。すると、亘が半分開いたその黒い扉をギッと押し開けた。
最初、どす黒い靄に覆われて、そこにあるものが何かわからなかった。しかし、よく目を凝らすと見えてくる。
奥にあったのは、大きなベッドの周囲に折り重なった複数の女性の裸体。十名程度はいるだろうか。鬼もいれば、角を持たない人妖らしき者もいる。瞳に生気はなく、腹や胸、背を切り裂かれ、ズタズタになっている。寝室の床は血の海だ。
思わず口元を押さえて吐き気を堪えると、奏太の視界に女達が入らないよう、椿が一歩前に出て気遣わしげな声をだした。
「奏太様」
「大丈夫だ。それより……」
女達の更にその奥。奏太の視線の先には、角の生えた男が上等な衣服を身に着け、体中を真っ赤に染めて倒れていた。
そして、そのすぐ横には、豪華なドレスに身を包んだ鬼が一体しゃがみ込み、一心不乱に男の体に長い爪を突き立て切り裂いている。こちらに目をくれることもなく。
「……虚鬼か?」
「この闇であればそうでしょうが……念の為、確認はしておきましょう。制約に触れては困りますから。椿、奏太様を頼むぞ」
「はい」
亘はそう言うと、女の元まで歩み寄る。
「おい、意識はあるか?」
しかし女は、亘の呼びかけに応えない。
「おい!」
亘が女の肩を乱暴に掴むと、鬼はようやく亘に視線を向けた。それは、感情の浮かばぬ虚ろな目。
瞬間、女はグアっと大きな口をあけ、鋭い牙と爪を剥き出しにして亘に襲いかかった。
「亘っ!!」
奏太がそう声を上げる間もなく、亘は女の攻撃を危なげなく躱し、亘を捕らえ損なった隙をついて背側に回る。ダンッと音がしたかと思えば、女は床に乱暴に押さえつけられていた。亘は、更にそのまま、刀を女の背に迷いなくグサリと突き刺す。
女は、うぅ……とうめき声をほんの少し上げたきり、ピクリとも動かなくなった。
「……この屋敷の奥方でしょうか……?」
椿が眉根を寄せながら言う。亘は動かなくなった女から手を放し見下ろしながら、頷いた。
「おそらくな。それから、そっちの女共は、この屋敷の主人の情婦達、と言ったところか。随分といい趣味だな」
「亘さん!!」
椿は奏太に聞かせたくないとでも言うように、声を荒げる。
「いいよ、椿。とにかく、ここの闇を祓っちゃおう」
奏太は、女達を隠そうと立ちはだかる椿の体をグッと押し退けた。仕事をさっさと片付けないと、帰るに帰れない。
奏太は、できるだけ部屋の中の惨状が視界に入らないように、目を細めて両手をかざした。
見たくない、という気持ちが勝ったからだろう。手のひらに力を込めると、廊下の時の比でないほどの光が溢れ、部屋の中いっぱいに広がっていく。気づけば、前が見えないほど、視界が真っ白に覆いつくされ、ジュジュッといくつかの小さな音が耳に届いた。
「やり過ぎです、奏太様」
パッと亘に手首を掴まれ、奏太はハッと陽の気の放出を止める。
見れば、部屋の中にあった濃い闇は一切かき消え、更に、そこにあった物や遺体の殆どが炭のようになってしまっていた。
「これでは、現場検証が難しくなります。闇の発生源を突き止めきれなくなっては困るでしょう」
「…………ごめん」
「ひとまず、あそこの割れたガラス玉を回収して帰りましょう。毎回、現場に残っているのです。やはり何か……」
亘がそう言いかけた時だった。
「これは、意外なものを見たな。日の力を出せる司祭が白日教会にいたとは」
突然背後から知らぬ男の声が響いてきて、ビクッと奏太の肩が跳ねた。それに合わせるように、亘か椿、どちらかによって、パサッと祭服のフードが目深に被せされる。
亘が奏太を背に隠すように一歩前に出ると、それとともに、
「我らが相手をします。口を開かないようになさってください」
という椿の囁きが奏太の耳元で落ちた。
奏太が無言のままコクと頷くと、椿の顔がぱっと離れる。
先ほどの声の主の方に目をやると、白の祭服と光耀教会のブローチが見えた。男は一人ではなく、ゾロゾロと複数を連れ歩いている。奏太に亘と椿がついているように、この祭服の男にも護衛がついているのだろう。
相手の顔まで見ようとすれば自分の顔も見られそうで、奏太はグッと顎を下げる。
フードをかぶせられたのは、他の者に素顔を明かすなということだろう。
「何を仰います。司祭様は、日石をお使いになっただけですが」
亘が言うと、光耀教会の男の口元が、いやらしく歪む。
「ほう、日石を? 随分、力の強い日石があったものだな。廊下の闇を祓い、外の虚鬼と中の者達を全て焼き焦がし、闇の発生源すら祓ってしまえるなんて。白日教会独自でそのようなものを? それとも、私が無知なだけだろうか。ぜひ、見せてもらいたいものだが」
空の日石を見せろと言われると困る。奏太達にとっては不要なものだ。そもそも持ち合わせていない。
「枢機卿にお借りした貴重なものです。どうか、白日教会にお問い合わせください。ところで、光耀教会の大司教様が、いったい何の御用でしょう。白日教会が対処に当たっていると、お聞きにならなかったので?」
「軍の方々に頼まれたのだ。白日教会の司祭だけでは当てにならぬと」
大司教の言葉に、亘が小さく舌打ちをした。
あの軍の大男が奏太達を見て不満そうにしていたのは確かだが、まさか光耀教会の大司教を呼んでこさせるとは。
「そうでしたか。しかし、無駄足だったようです。この場は、白日教会だけでおさめましたので」
苛立ちを抑えるように、亘が言う。
「そのようだな。しかし、おかげで良いものが見られた。ついでに、そちらの司祭の顔でも拝んで帰るよ」
「どうか、御勘弁を。司祭様は闇に当てられ、体調が優れぬご様子ですので」
亘の声が聞こえたかと思えば、不意に、奏太の体がぐいっと抱きかかえられた。
「別の教会に属しているとは言え、立場が上の大司教に挨拶もできぬほどに、か?」
「ええ。今にも倒れそうなのを、何とか耐えていらっしゃったのです。お詫びは改めて致しますので、この場は御前を失礼させていただきます。さあ、戻りましょう。司祭様」
すぐ真上から、亘の声が落ちてくる。この場は、具合の悪いフリをしたほうが良いのだろう。そのままぐったりと寄りかかると、亘は早足で歩き出した。
奏太は、フードと亘の体に隠れるようにして、自分の顔が光耀教会の者達に見られないように注意する。亘も同様に、慎重になっていたはずだ。
しかし、白の祭服の横を通り抜けようとしたその瞬間、本当に突然、パサリとフードが背側に落ちた。更に、銀の前髪のかかった血に塗れたような赤い瞳が、奏太の目を真っ直ぐに覗き込む。
「ああ、顔色は問題なさそうだな」
若くキレイな顔つきだが、ゾッとするほど不気味な表情。その赤の瞳は、獲物を狙うもののようにも、今にも刺されそうな酷い嫌悪のようにも見えた。
まるで蛇にでも睨まれたかのように体が硬直し、その瞳から目が離せない。ドクドクと、心臓が嫌な音を立てる。
奏太が驚きに目を見開いている間に、亘は奏太を抱える手にギュウと力を込めて、バッとその場を飛び退いた。
「椿!!」
「はい!」
亘の声に反応して、椿が奏太を守るように大司教との間に躍り出る。
その向こうで、大司教の護衛もまた、大司教を守るように椿の前に出た。
当の大司教本人は、パッとこちらに両手を挙げて見せてニコリと笑う。それが見えたと思った瞬間、もう一度、亘によって、乱暴にフードをかぶせられた。
「人妖というのは、過敏すぎていけないね。同じ神々を仰ぐ者に手出しをしたりしないよ。それに、あの虚鬼達のように、日の力で焼かれても困る」
明るく弁明するような、大司教の声が聞こえた。
「とはいえ、これ以上、白日教会と摩擦を起こすのは得策ではないかな。私は用済みのようなので、こちらで失礼するよ。また会おう。白日教会の若き司祭」
大司教がそう言ったかと思えば、白の祭服がクルリと踵を返して扉のほうへ向かっていくのが見えた。その護衛たちの足もまた、ゾロゾロと扉の方へと戻っていく。
完全に足音が聞こえなくなると、奏太はハアと息を吐き出した。
「……あいつ、何だったんだ?」
「わかりません。十分警戒していたはずですが、奏太様に近づくのに気づけませんでした」
亘から、苦々しげな声が落ちてくる。
「一度、白日教会に行って相談したほうがいいかもしれませんね。光耀教会に奏太様の力を見られてしまったかもしれないと。万が一、奏太様の力について広く知られるような事があれば、余計な混乱を招きかねません」
椿が困ったような声音で言った。
日の力と、それがこもった日石は、何よりも貴重なものだ。
先ほど奏太がそうしたように、日の力はその量によっては強力な武器にもなり得るし、闇を祓うにも日の力が必要。聖教会から年に少量だけ出される小さな日石は貴重な宝玉として、貴族の間だけで高値で取引されている。
更に言えば、日を生み出す場所への立ち入りと日の力の入手は、聖教会の者にも制限があり、自由に日の力を持ち出し扱って良いわけではない。
だから、日の力を使える、ということ自体が、金の卵を生む鶏のように見られてもおかしくはないのだ。
実際、奏太は随分昔、それが目的で鬼に囚われていた時期があった。
(でもあれは、本当にそれだけか……?)
もっと別の何かを見るような、不穏な目だったように思えてならない。
ふと、先ほどの赤い目が思い出され、背筋がゾクッとした。鈍感だとよく言われる奏太も、さすがに身の危険を感じるような雰囲気の持ち主だった。
「ひとまず椿の言う通り、白日教会へ行きましょう。日の力を使う司祭と商会との関連性は隠しておいた方が良いでしょう」
「……わかった。そうしよう」
未だ亘に抱えられたまま、奏太はコクと頷いた。