44. 陽の神
奏太がようやく他者の手を借りずに動けるようになったのは、あれから十日ほど経ってからのことだった。
汐と椿に甲斐甲斐しく世話をされ、奏太の命令通りに縁や咲楽も戻ってきた。
巽は、鬼界に残してきた者たちと何やら連絡を取り合いながら忙しそうにしていて、それでも、奏太の側からできるだけ離れなかった。
特に変化が顕著だったのは、亘。
本当に、ちょっとした奏太の表情や声に過剰に反応するようになった。動きにくくて布団の上で少し呻いただけで、すぐに飛んでくるし、心配そうに瞳を揺らして顔を覗き込んでくる。何より、奏太から片時も離れようとしなかった。眠ることすら厭うほどに。
「僕らもそうですけど、それだけ、あの時の奏太様のお姿が、衝撃だったんだと思います。亘さんは筆頭護衛役ですから、特に」
何とか説得して別室で休ませ、ほっと息を吐いたところで、巽がそう言った。
燐鳳の部下が慌ただしくやって来たのは、それからしばらくした頃。
燐鳳にだけ聞こえるように何かを耳打ちをする。
話を聞いていた燐鳳の表情が一気に硬くなった。
「どうした、燐?」
奏太が問えば、燐鳳は言うべきかどうか迷う素振りを見せてから、ようやく事情を話し始めた。
「…………しばらく前に、鬼界との結界の綻びが見つかったのです。小さなものでしたし、奏太様の御身体のこともあるので、しばらくはそのままにして様子を見ていたのですが、鬼界との行き来が可能なほどに穴が大きくなってきたようで……」
行き来ができるほどであれば、かなり大きく穴が広がってしまっているということだ。鬼にとって、妖は食料。鬼界からの侵入があり、王国の統治下から外れれば、何をするか分からない。さっさと閉じてしまわないと被害が出る恐れがある。
「周囲の守りは?」
「応急処置として、陰の気の結界を張って鬼の侵入を防いでいるようです」
そうはいっても、臨時の結界だ。術者の力量に左右される。強力な鬼が入ってくれば破られない保証はない。
奏太はじっと自分の手を見下ろした。自力で動けるようにはなったが、結界の穴を塞ぐのに、今ある力で足りるだろうか。
(けど、このまま放置することはできない)
奏太はギュッとその手を握った。
「わかった。穴を塞ぎにいこう。案内して」
奏太がそう言った途端、グッと厳しい顔の亘に腕を掴まれた。
「奏太様」
「大丈夫だよ、心配しなくて。それに、これは俺の仕事だ」
奏太はポンポンと、自分を掴む亘の腕を軽く叩く。
報告を持って来た者はホッとした表情を浮かべたが、燐鳳の表情は、硬いままだ。
「奏太様、御力は?」
「完全に戻りきったわけじゃない。でも、穴の大きさによるけど、少しでも小さくしておいた方がいいだろ。どうしても塞ぎきれなかった時には複数回にわけるよ。その場合は、鬼界側にも連絡して、こっちに侵入者がないように警備してもらおう」
情報を伝えれば、マソホや白が軍の手配をしてくれるだろう。
燐鳳は迷うように目を僅かに伏せた後、すっと頭を下げた。
「……承知いたしました。まだ御身体の戻りきらぬ貴方様に頼ることとなり、申し訳ございません。事前に準備だけ進めますが、どうか、くれぐれも御無理なさらず」
外に出て、奏太がいつもの調子で亘に乗ろうとしたら、綺麗な笑みを貼り付けた燐鳳に呼び止められた。
「奏太様は、こちらに」
それは、大きな二羽の鳥に括りつける豪奢な駕籠のようなもの。最大四名程乗れる大きさがある。
「いや、亘に乗ってくからいいよ」
「上空で御気分が優れなくなったらどうなさいます。万が一があれば? 貴方様の安全が確保できぬ状態は、看過できません」
燐鳳は、鋭い視線を亘に向ける。
今までだって、燐鳳と亘達は一線引いたような関係性ではあったが、奏太が目覚めてからは、両者の間に、どこかピリッとした雰囲気ができていた。
奏太は眉尻を下げる。
「……俺、これ苦手なんだ。亘だって、俺を落としたりしないよ」
からかい半分に振り落とされそうになったことはあるけれど、奏太自身が自分の意思で飛び降りた時と、相応の理由があった時以外、この三百年、亘が奏太を落としたことはない。
万が一、事故で落ちたとしても、誰かが拾い上げてくれるだろうし。
しかし、駕籠に乗るのを渋る奏太に、燐鳳は有無を言わせぬ笑みを浮かべた。
「では、万が一のことがあれば、貴方を乗せていた者の首を飛ばして良いと許可ください。それならば、許容いたしましょう」
まさか、そんなことを言い出すとは思わず、奏太は唖然と口を開けた。それから、ハアと息を吐き出し、額に手を当てる。
「燐、冗談のつもりでも、言っていいことと悪いことがある」
奏太が言うと、燐鳳からスッと表情が消え、冷たい瞳にほんの僅かに暗さが混じる。それだけで、燐鳳がただの冗談で言ったわけじゃないことがよく分かった。
「燐鳳」
「ならば、何かがあった際には、貴方様のご意思で、きちんと裁きを」
じっと、見定めるような目。奏太が譲歩しなければ、燐鳳はきっと、これ以上は譲らないのだろう。
「……分かった。駕籠でいく。ただし、今回だけだ。亘、椿、巽は、周囲の警護を、汐はこっちだ」
奏太が手を出せば、汐は蝶の姿のまま、ヒラリと奏太の手の甲に止まる。
もっと反発するかと思ったけれど、亘達は何も言わなかった。
辿り着いたのは、古く打ち捨てられた寺院のような建物。
荒れ果てた庭の隅で、黒い渦に囲まれた結界の穴は、人が二人は余裕で通過できそうなほど大きな口を開けていた。
周囲を眷属達と妖界の武官達に厳重に守られながら、鬼界との穴の前に立つ。
結界の穴を閉じること自体は、大した手間ではない。この三百年、それこそ、人であった頃から続けてきた仕事だ。問題は、穴の大きさと力の量。
「奏太様」
不安気な椿の声。
「大丈夫。ただ、久々に、陽の神の力を借りた方が良さそうだ」
奏太はそう言うと、パチンと両手を合わせた。
普段であれば、自身の中の陽の気を使う。ただ、人であった頃は、それを触媒に遠い先祖であった陽の神の力を借りていた。正確には、そうであったと知らずに使っていたのだが。
神に祈り、神代の言葉で祝詞を紡ぐ。両手を前に突き出せば、キラキラとした陽の気が黒の渦に向かって真っ直ぐに注がれていく。
『ふうん。我の力を使わねば、維持できぬほどに傷ついたか』
ふと、聞き慣れぬ男の声がどこからか響いた。
陽の気を放出しながら、どこから声がしたのかと周囲を見回す。けれど、どこにも姿はない。
「奏太様?」
汐の声が聞こえたけど、祝詞を唱えて陽の気を注いでいる間は、答えることができない。
その間にも、再び先ほどの声が頭に響く。周囲の者たちの様子を見るに、奏太にしか聞こえないのだろう。
『我の力、ってことは、陽の神ですか?』
頭の中で、そう問いかける。すると、声は不満げな音を帯びた。
『やはり、我のことも覚えていないのだな。さっさと、人の体など捨てて本来の姿に戻れば良いものを、秩序の神ともあろう者が、鬼なんぞに良いようにされおって』
奏太の中に、先代、秩序の神の記憶はない。けれど、それを取り戻す方法はある。
『ふむ、少々、手伝ってやろうか』
不意に、声がそう言った。
借りている陽の神の力が手元で膨れ上がると共に、奏太の中の秩序の神の力が呼応するような感覚がして、背筋がザワリとする。
奏太は慌てて暴れだそうとする力を自身の意思でねじ伏せるように制御し、身を守るように金の力を一気に巡らした。
バチン!!
まるで電気が弾けたような派手な音を立てて、手元から出ていた陽の気が火花を飛ばすように散った。
手のひらに痛みが走り、衝撃でそのまま尻もちをつく。
『……ほう。弾くか。まあいい、そのままにしておいても、大して時間はかからぬだろう。あちらで待っているぞ、我が友、我が子孫よ』
「奏太様!!」
呆然としている間に、眷属達や燐鳳が駆け寄ってくる。背後から、肩を亘に支えられた。
「奏太様、お怪我は!?」
「……大……丈夫」
あの声。奏太の知らない声のはずなのに、その声を聞いている間、酷く懐かしい感覚が胸に広がっていた。知らない記憶、知らない感情。
胸の奥が、ドクドクとうるさい。
奏太は、空を見上げた。
「……貴方の記憶ですか、ご先祖様……? 俺に譲渡された、秩序の神の存在、そのものの……?」
ボソリ。自分の中に消えたはずの存在に問いかける。けれど、返ってくるわけがない。
「奏太様、先代が、何か?」
巽の声が聞こえて視線を戻せば、奏太を覗き込む亘の瞳が不安気に揺れていた。
奏太は自分を取り囲む者たちを見回す。自分に向けられる問いかけるような複数の視線。
けれど、巽の問いには答えられない。少なくとも、今ここで、言うべきではない。
「……何でもない」
「奏太様」
奏太の肩を掴む亘の手に力が籠もる。
それに、奏太はフッと微笑んで見せた。
しかし、逆に亘の眉間には深い溝が刻まれる。奏太の嘘など、とっくの昔からお見通しだと、言わんばかりに。
「ホント、大丈夫だから」
奏太はポンポンと亘の腕を叩くと、そのまま立ち上がった。
陽の神の力が弾かれた時の衝撃からか、鬼界への結界の渦は、奏太が自分の力をほんの少しだけ注げば消滅するほどに、小さくなっている。
「これなら、自分の中の力だけで何とかなりそうだ。塞いじゃうから、下がっててよ」
奏太が言うと、汐、巽、椿は顔を見合わせ合う。動こうとしない亘を振り返り、奏太はそっと、その胸を押した。
「早く帰って休みたいんだ。頼むよ」
奏太の言葉に、亘は言いたいことを全部無理やり飲み込んだような顔をしたあと、諦めたように目を伏せた。
全員が下がると、奏太は再び、小さくなった黒い渦に向き合う。
けれど、自分の中にある陽の気を注いでいる間も、心ここにあらずの状態だった。
……何故、このタイミングなのか。
『そのままにしておいても、大して時間はかからぬだろう』
陽の神は、そう言った。
ご先祖様の記憶がもつ感覚が蘇ったのは、あの一件で身体が壊れすぎ、本来の秩序の神に還らねばならぬ日が、迫ったせいだろうか……
この人の身体は、奏太を奏太として繋ぎ止める楔。
譲渡された秩序の神の存在を、この人の器が抑え込んでいるにすぎない。身体が壊れれば、心も、記憶さえも、秩序の神に上書きされる。
奏太は、日向奏太でいられなくなる。
そして、あの声。
神々は……少なくとも、陽の神は、それを望んでいるということだ。
奏太はグッと奥歯を噛む。
(俺はただ、日向奏太で、いたいだけなのに……)
奏太の家系は、秩序の神と陽の神の遠い遠い子孫。
継いだ力は僅かな陽の力だけだった。
けれど、『ただの人』『普通の十八歳の大学生』であった奏太は、闇にのみ込まれる三世界を救うため、そんな大義名分で、問答無用で秩序の神の存在そのものを取り込まされ不老不死の器にさせられた。
悠久の時の中で闇を広げ続ける陰の御子を抑え続け、消滅しかけた秩序の神の器にするには、奏太の身体がちょうど良かったのだろう。
そこに、奏太の意思は介在しなかった。
『随分と体のいい贄にされたものだな』
世界に平和が戻ったあと、人界の奏太達の住む地域を守護する土地神にそう言われた。
『汝が汝として居られるのは、その人の体があるからだ。大事にせよ。無くし完全な秩序の神になれば、膨大な記憶の中で人であった頃の記憶など米粒ほどにもならぬだろう。精々、人の記憶を保ち続けて、妾の役に立ってくれ』
土地神は、そう言って不敵に笑った。人として、秩序の神の力で、精々故郷を守ってくれと。
奏太が秩序の神になった時、亘は言った。
『ここから永遠に続く時を過ごす貴方のお側に、人としての貴方を知る者が、必要なのではありませんか?』
亘達は、人界の『守り手』であった日向奏太の護衛役、案内役であって、最初から秩序の神の眷属だったわけじゃない。
奏太が奏太として居られたのは、亘達がいたからだった。奏太を日向奏太として知る者たちがどんどん死んでいく中で、亘達だけが、奏太を日向奏太として見てくれていた。
だから、絶対に失いたくないのだ。
亘達も、この身体も。人として生きた全てを、どうしても手放せない。自分が、自分であることを、失いたくない。
(……けど、もう……)
「……やっぱり、けじめを、つけなきゃ」
誰の耳にも届かないくらいの小さな声で、奏太はそう呟いた。




