42. 燐鳳の怒り:side.巽
「このまま、療養施設に飛んで頂いて大丈夫です。知らせが行きましたから、すぐに幻妖宮にも伝わるかと」
武官に言われて結界を越えると、そこは妖界のとある山中にある建物内だった。幻妖宮から随分離れた場所にある、厳重な警備体制を敷かれた妖界側の関所だ。
鬼界との取引の拠点にもなっているため、普段から多くの武官、文官が詰めている。
「陛下に何かがあったことを公にすべきではありませんから、裏から出ましょう」
武官の言葉に、巽達も頷いた。
できるだけ、誰の目にもつかないように。すれ違っても不審に思われないようにしながら、奏太の姿を隠しつつ進む。
外から二重に結界の張られたその大きな建物からようやく出ると、一行は目指すべき療養施設、万能薬の湧く温泉地に飛び立った。
常ならば大鷲の姿で、傍から見れば恐ろしいほどの速さで飛ぶ亘も、今回ばかりは人の姿のまま、奏太を大事に抱え、揺れのないよう丁寧にゆっくりと運んでいた。
これ以上、主に何もないように。その体を、万が一にも壊してしまわないように。
時折、亘はらしくもない表情で不安気に腕の中の主を見下ろしていた。
向かった先は、関所から遠く離れた妖界のとある山。療養施設はその頂上にぽっかりあいた窪地にあった。
もともと、険しい山の中にひっそりとあった幻の場所だったが、燐鳳の叔父である璃耀や先帝である白月が発見したことで、立派な療養施設が造られた。無闇に汲み取られて枯れないよう、こちらも、朝廷の厳重な管理下に置かれている施設だ。
「奏太様!!」
施設に到着した途端、いつもの冷静さが吹き飛んだような様子で、燐鳳が慌てて飛び出してきた。
関所と幻妖宮では、幻妖宮の方が療養施設に近い。着くのは燐鳳の方が早かったようだ。
燐鳳は、亘の腕の中でグッタリとする奏太を見て、顔をサアっと青褪めさせた。
「……奏太様の、ご容態は?」
「あまりよくありません。ただ、今は早く傷を治したいです。説明は後にして、温泉に案内してもらえませんか、燐鳳殿」
巽が前に出て言えば、燐鳳はぐっと奥歯を噛んだ。
「……侍医を連れてきています。先に、診察を。温泉に御身体を浸し表面は治ったようにみえても、体内に問題が残り続けることもありますから」
大きな怪我をしたあとに、ここの薬を使っても、内傷の方が長引くのは巽も経験済みだ。
奏太は神の力を得ても、その体は未だ人間だった頃に近い。医者に診てもらえるなら、その方がいいだろう。
「わかりました。案内してください」
燐鳳について、建物の上階に向かう。そこは、限られた者しか立ち入りを許されない、帝専用の階層。
奏太に用意された部屋に入れば、豪華な御帳台が置いてあった。亘は、奏太をそっとその中に寝かせる。まるで息をしていないかのように深く眠る主の姿に、胸がギュッと握りつぶされるような思いになる。
「……奏太様」
燐鳳がそっと呼びかける。けれど、奏太の反応はないままだ。鳴響商会の部屋でほんの少し目覚めたきり、ずっと眠り続けている。
燐鳳は応えのない奏太の様子に、辛そうな表情を向けた。
「奏太様、侍医を呼びます。もう少しだけ、御辛抱ください」
返事が無いことを承知で、燐鳳は奏太の枕元でそう囁く。
別で待機していたらしい、初老の侍医を燐鳳が呼び、周囲に几帳が用意され、奏太の近くには、亘、巽、燐鳳だけが残った。
体に巻きつけるようにしていた白のマントが外される。
露わになったのは、全身が赤と紫に斑に染まり、あちこちに歯と鋭い牙の跡がそのまま残る、あまりに痛々しい素肌。
燐鳳と侍医は、息を呑み言葉を失った。
「…………何故……このようなことに……」
燐鳳の震えるような声が落ちる。巽は、悔しさとともに、ギュッと唇を噛んだ。
「……鬼界にある、蜻蛉商会の屋敷に侵入者があり、奴隷商に攫われたんです。売られた先……鳴響商会で見つけた時には、もう、このような状態でした……」
「…………売られた……? この方が…………奴隷商に……?」
燐鳳の唇は、小さく震えている。膝の上で拳が白くなるほどキツく握りしめられているのが見えた。ジワリと、その指の隙間から赤が滲む。自らの爪が皮膚を食い破るほどに、強く。まるで自身の痛みで激情を押し殺しているかのように。
燐鳳の目には、もう、奏太しか映っていなかった。
侍医は難しい表情で、一度奏太に頭を下げる。
「恐れ入りますが、手を触れさせていただきます。陛下」
そう言うと、丁寧な手つきで触診しながら、首や腕などにある傷の状態を確認していった。
「爛れは、鬼に噛まれた際の特有の症状です。ただ、食いちぎろうとしたような形跡はありません。牙を突き立て噛みついただけのように見えます。それから、その場所の周囲には酷い内出血も」
侍医はそう言いつつ、腹の方の服を払う。
燐鳳の表情が、言葉もないまま、悲痛に歪んだ。
爛れは全身に殆ど隙間なく広がり、あちこちに穴をあけたような赤く深い傷口が無数にあるのを見て、侍医はギュッと一度、目を閉じる。
それから、そっと奏太の体に服をかけ直すと、侍医は自分を落ち着けるように、小さく息を吐いた。
「表面上は噛み跡と爛れ、内出血以外の酷い損傷は見受けられません。できるだけ噛み跡の中にまで薬を届かせるようにしてから、全身を湯に浸して表面の爛れを治療しましょう。体内に関しては、薬をお飲みいただいて様子を見ることにします。ここから先は、湯をたっぷりと使える場所へ移動させてください」
その言葉に、ずっと口を噤んだままだった燐鳳が、離れたところにいた補佐官に向かって呼びかけた。
「阡、其方らが侍医殿につけ。椿殿と汐殿も共に。私は、この方々に話がある」
燐鳳はそう言いながら、冷たく怒りの色を浮かべる目を、巽と亘に向けた。
主の不在となった部屋。
燐鳳はじっと巽と亘を見据えていた。
「何故、あの方があの様な目に遭わねばならなかったのか、説明願います」
「……先程、お伝えした通りです。奴隷商の侵入が……」
「質問を変えましょう。あの方が、下劣な考えの持ち主に狙われている可能性を知りながら、貴方がたは何をなさっていたのでしょう? 私の元に報告が届いていないとでもお思いですか?」
燐鳳の質問に、巽はぐっと回答に詰まる。妖界の者たちは、こまめに燐鳳と連絡を取り合っていた。当然、鳴響商会からの執拗な手紙についても報告は行っていたことだろう。
「あの時、陛下から目を離すべきはありませんでした。縁や咲楽、共に鬼界にいた武官達も、処罰せねばなりませんね」
燐鳳は感情の一切こもらない声音で言う。それに、巽は慌てて声を上げた。
「ま、待ってください! 僕らを責めるのは良いとしても、武官達は見逃してください。あの方だって、そんな事、望みません!」
一時のことではあったが、商会長として商会員達を守らねばという思いもある。
けれどそれ以上に、奏太はこういう時、とかく自分を責める傾向にある。そんな事はないと、誰が言っても、だ。
ただでさえ不安定な状態だった主の心を、これ以上乱すような事はしたくない。
しかし、燐鳳は一切表情を変えない。
「お優しいあの方ならば、そうなのでしょうね。しかし、その方は深く眠られたきり、お目覚めにならないではありませんか。神聖な御身体を鬼に汚され、ズタズタに踏み躙られ、御自分の力で治せぬほどの傷を負わされた。あの方を、慈悲すらかけられぬ状態にまで追い込んだ責は、その護衛にもあると言わざるを得ません。そうでしょう? 亘殿」
燐鳳が鋭い視線を向けると、亘はギリッと奥歯を鳴らした。
燐鳳に言われなくても、あの屋敷にいた者全てが責任を感じている。主のあんな姿を見れば、尚の事。
部屋の中、お側にいれば護れたかもしれない。あの方を、一時でも一人にするのではなかった。自分達が目を離さなければ。いや、それ以前に、鳴響商会を徹底的に叩いておけば。
後悔ばかりが浮かび上がる。
すると、燐鳳は一度目を伏せ、ハアと小さく息を吐いた。
「私の独断で貴方がたを裁けたら、どれ程良いか。あの方は、周囲がどれ程責めても、貴方がたを許してしまうでしょう。しかし、私は、貴方がたを許せそうにありません」
燐鳳は、逃れることを許さない強い光を湛えて巽と亘を見据えた。
「貴方がたがあの方に相応しいか、どうか行動でお示しください。万が一、あの方が再び傷の一つでも負うような事があれば――」
そこで一度言葉を切る。燐鳳の瞳の奥に、ふわりと仄暗い色が浮かんだ気がした。
「……その時こそ、あの方は丁重に幻妖宮で保護させていただきましょう。二度と、愚かな者たちに傷つけられぬように」
燐鳳はキッパリと言い切る。
それは、譲歩などではない。
奏太を思って、今は処罰しない、ただ、それだけのこと。
次に失敗すれば、燐鳳は容赦なく、巽達からあの方を永遠に取り上げようとするだろう。持てる権力の全てを使ってでも。
巽達には、執行猶予が与えられただけ。
燐鳳は凍りつくような冷たい瞳で、一片の笑みもなく、ただ静かにこちらを値踏みするように見る。
亘と巽からの返答がないとみるや、燐鳳はスッと立ち上がった。
それから、亘と巽を穢らわしいと言わんばかりの冷ややかな目で見下ろす。
「私は、あの方の様子を見てきます。貴方がたも、あの方の側にいることを望むのなら、身を清めてください。今のままでは、あの方の寝所が汚れます」
燐鳳は踵を返し、興味を失ったように扉へ向かう。そして、背中越しに氷のような声を投げかけた。
「その間に、自らの罪を、よくよくお考えになっては? ……どれ程考えたところで、許されざることだとは思いますが」
隣で、亘が何かを言いかけ、ぐっと言葉を飲み込む気配がした。
それだけ言い捨てると、燐鳳は二度と振り返ることなく、奏太の運ばれた部屋へと消えていった。




