27. 妖界からの逃亡
翌朝、有力な地方権力者との会談の場に向かう途中、言うべきかどうか迷うような椿の声がした。
「奏太様、大丈夫ですか?」
「何が?」
「いえ、昨日、璃耀様とお話ししてから、どこかお元気がないようなので」
「そんなことないよ」
(嫌な課題を出されただけ)
見て見ぬふり、気にしないふりをしていたものを、無理やり、引っ張り出されて突きつけられた。今まで通りに見て見ぬふりを続ければ良い、そう思うのに、どうしても頭から離れない。きっと、自分で口に出してしまったから。
奏太がチラと燐鳳を見ると、燐鳳もこちらを見た。璃耀から、何か聞かされたのだろうか。
「……陛下、今夜、少しお時間をいただけますか?」
「嫌だ」
奏太が思っていることとは違う話かもしれない。でも、もしもその話をされたら困る。心の準備が何も整っていない。ただ、重たい気分になるだけだ。
「陛下」
「嫌だって、言ってるだろ」
奏太が答えると、燐鳳はピタリと足を止め、じっと奏太を見つめる。それだけで、会話の中身はだいたい察せられた。きっと、奏太が思った通りの内容なのだろう。
「それほど、お嫌ですか? 私を、貴方の……」
「燐、それ以上言うな。頼むから」
普段から、感情をあまり表に出さないよう教育されてきただろう燐鳳の表情が、ほんの少しだけ曇る。まるで、拒否されたことに傷ついたように。
燐鳳のその顔を見ていられず、奏太は目元に手を当てた。
「璃耀さんに何をどう言われたか知らないけど、よく考えろよ。お前のこれからに何が待ち受けるのか、本当にそれでいいのか、後悔しないのか。俺は……」
奏太はそこまで言うと、口を噤む。亘と椿の視線が怖くなる。気にしないでいようと、思ったはずなのに。
奏太はそれ以上続けず、再び歩みを進めた。
「この話は終わりだ」
しかし、すぐにパッと手首を掴まれ、奏太は再び足を止めることになった。
「では、私と話をしましょう。奏太様」
「お前まで何だよ、亘。会談の前だぞ」
顔を見ていられずに、奏太は視線を廊下の奥の目的地の方に向ける。
「昨日から、我らの視線を避けようとなさっているのが、ずっと気になっていたのです」
「別に、避けてないだろ」
「なら、私の目を見て仰ってくださいませんか」
奏太は小さくうめき声をあげた。
「…………どいつも、こいつも……」
ギュッと一度強く奥歯を噛んだ後、奏太は亘の方を振り返る。そして、亘が望む通り、その目をじっと見上げた。
「俺は、話すことなんて何もない。これでいいだろ」
そう言うと、奏太はパッと亘の手を振り払った。
会談の最中、璃耀の話と先ほどの燐鳳の表情、亘の探るような目ばかりが頭を巡り、会談の内容はほとんど何も入って来なかった。
燐鳳は、奏太が心ここにあらずの状態で曖昧な反応を繰り返すのを窘めるでもなく、ただずっと、その様子を気にするような顔をしていた。
会談後。次の準備のために一時的に自室に戻る。しかし、奏太が動き始める前に、燐鳳は静かに告げた。
「次の御予定まで時間があります。お部屋で少し休憩なさっていてください」
「……すぐに、次の会談の予定じゃなかった?」
「いえ。次のご予定は、二刻ほど後に。縁、咲楽、奏太様を頼むぞ」
燐鳳はそう言うと、さっさと部屋を出ていく。
でも、今朝確かに、休憩時間なんて取れないほどに予定が詰まっていたはずだ。
首を傾げていると、縁が眉尻を下げた。
「奏太様のお元気がなかったのを、見かねたのだと思われます」
「当初の予定を、飛ばしたってこと?」
「ええ」
縁の返事に、奏太は燐鳳の去っていった扉を見つめた。
(……俺のため、か……)
燐鳳は、きっと、奏太自身が思っている以上に心を砕いてくれている。必死で奏太を守り、その立場を支えようとしてくれている。
燐鳳が奏太に厳しくするのは、奏太が帝位にあることを望まない者たちが多くいた時代を共に過ごしてきたからだ。政敵を前に、1ミリも隙を見せるべきじゃなかった時期があったからだ。そして、もしかしたら、奏太が気づかないだけで、今もそういう者たちは残っているのかもしれない。
燐鳳が、文官の立場で奏太を精一杯守ろうとしてくれているのは、奏太自身も理解しているつもりだった。
(でも、だからこそ、怖くなる)
本当に、何も顧みずに……璃耀が先帝にその生の全てを捧げたように、燐鳳もまた、全部を投げ捨てて奏太の眷属に、と言い出しそうで……
「……あいつ、本気か?」
ボソッと心の声が漏れた。
その日の夜。仕事を終えた後、奏太はドキドキしながら待っていたけれど、結局、燐鳳は部屋にやってこなかった。
ほっと息を吐きつつ、ただ、なんとなく、諦めたわけでは無いんだろうなと、いう気もしていた。それだけ、朝の様子には切実さがあったから。
「よし、鬼界に帰ろう」
「奏太様!?」
奏太の就寝準備に入りかかった椿と咲楽が声を上げた。
「燐鳳殿はどうされるのですか」
亘の冷静な問いに、奏太はニコリと笑って見せる。
「決まってるだろ。逃げるんだよ」
「……よろしいのですか?」
恐る恐る聞く椿に、奏太はコクと頷いた。
「クレーム処理は、巽にどうにかしてもらおう」
「巽の仕事量を気にされていた方が、更に重い仕事を乗せますか」
呆れた亘の言葉に、奏太は苦笑する。
「適度に仕事を乗せてやった方が良いって言ったのは、お前だろ? だいたい、あいつが俺に望んだことは、全部終ってる。巽なら、燐相手にも上手くやるよ」
(まあ、重たい仕事であることは間違いないけど)
「じゃ、善は急げってことで」
奏太はそう言うと、さっさと宙に手をかざす。
「お、お待ちください!」
慌てた声を上げる縁をよそに、奏太は界を隔てる結界の陰陽の気の力を探り当てると、そのまま鬼界への黒の渦を生み出し押し広げた。
黒の渦の中央に、鬼界の荒れた砂地が見える。
鬼界は、華やかな王都を離れれば、いまだにこういう地が残っている。陽の気の圧倒的な不足。植物すら育たぬ死の土地。
「妖界より鬼界の方が深刻なんだ。陽の気を取り戻してやらなきゃ」
まるで言い訳をするように、奏太はそう、口元でつぶやいた。
「縁と咲楽は、残ってもついてきてもいい。ただ、燐に俺の見張りを任されてるなら、着いてきた方が良いんじゃないかな」
奏太が言えば、二人は顔を見合わせる。
「……本当に、鬼界にお戻りになるのですか?」
確かめるような縁の声。
「うん」
「ぼ、僕は、奏太様と一緒に行きます!」
咲楽は慌てたように、パッと手を上げた。
「縁はどうする?」
縁は迷うように瞳を揺らしたあと、スッと奏太に頭を下げた。
「私は、残ります。何か燐鳳様にお伝えすべきことはありますか?」
「それなら、一通、書き置きを渡してくれるかな」
奏太はそう言うと、机に向かう。引き出しから紙と筆記用具を出すと、燐鳳に宛てた言葉を書き記した。
『鬼界が心配だから帰るよ。縁は止めようとしたけど、俺が押し切っただけだから、咎めないでやって。それじゃ』
それだけ書くと、奏太はそれを折り畳んだ。
「燐を頼むよ」
ポンと縁の胸に手紙を押し付ける。
「責められたら、止めようとしたけど強行突破されたって、ちゃんと言うんだぞ」
「……あ、あの、やはり、お考え直しを……」
奏太の言葉に燐鳳の怒りを思い出したのか、今更恐れをなした縁を背に、奏太は黒の渦をくぐり抜けた。




