26. 叔父と甥の会話 :side.燐鳳
「叔父上、あの方とは、何を?」
璃耀の部屋を訪れた燐鳳が問うと、叔父はチラと燐鳳を見やったあと、ずっと見ていた窓の外に視線を戻す。
叔父は、主の事をずっと気にしていた。先帝陛下とのお約束だから、と。
だから、主が帰ってきたこの機にゆっくり話せる場を、と用意した。けれど、従者や護衛は遠ざけられていて、何の話をしたのかは誰も知らないままだ。
「燐鳳、奏太様をどう思う?」
叔父は燐鳳の問いには答えず、逆に問う。
「どう、とは?」
「其方が思うままで良い」
燐鳳は、どう答えるべきか、少しだけ迷い口を閉ざす。
「…………目の、離せぬ方だと」
いろいろ考えた結果、ようやくそれだけを返した。
燐鳳は、幼い頃に父母を亡くし、叔父に引き取られた。父は当時、帝を僭称しこの京を崩そうとした男に仕えていたらしく、先帝陛下の即位とともに処刑された。母もまた、その道連れにされた。
叔父は幼い燐鳳にそれを隠すような者ではなく、『兄上のように愚かになってくれるな』と、いつだったか、そう言われたのを覚えている。
雉里家は代々、帝の身の回りの世話をするのが仕事。先帝陛下に心酔し、先帝陛下の為だけに生きていた叔父には子どもがおらず、作る気も無かったようで、いつでも自分が雉里から居なくなっても良いように、雉里という家門そのものが邪魔になる日が来た時に問題なく切り捨てられるようにと、燐鳳を厳しく育てはじめた。
叔父は、たとえ罪人の子であっても、燐鳳に辛くあたるようなことはなかった。厳しくとも、それが理不尽と思ったことは一度もない。いつの間にか、叔父は燐鳳の目指すべき姿になっていた。少しでも叔父に認められようと、必死だった。
しかし、燐鳳がどれほど学び己を磨いても、叔父が見ていた先は、常にどんな時でも先帝陛下だけだった。
立ち止まり、振り返り、燐鳳だけを見てくれた記憶は、少なくとも燐鳳の中にはない。
叔父のように当主に相応しくなり、次代の帝にお仕えできるようになれば、いつか叔父は燐鳳を見てくださるかもしれない、そう思った事もあった。そうでなくとも、叔父のように、その方だけに全て捧げたいと思える方ができるなら、それも良いのだろうとも思った。
しかし、ある時。何の話の流れだったか、次代の帝は現れぬ、叔父からそう聞かされた。いずれ燐鳳は四貴族家の筆頭である柴川を支えていくことになるだろう。白月様は、人界から新たな帝を迎えるつもりがないから、と。
目の前が、暗くなったような気がした。
目指すものを奪われたような無気力感に襲われた。
そしてそのまま、なんとなく成人を迎えて宮中で仕事をするようになった。叔父の仕込みがあったせいだろう。仕事は出来る方だった。しかし、それだけだ。希望のようなものは見つけられないまま、月日が過ぎた。
そうやって過ごしていたある日、本当に唐突に、東宮が現れた。そして叔父に、今日からこの方に御仕えせよと言われた。意味が分からなかった。希望よりも、戸惑いの方が大きかった。
しかも、戸惑いながら仕え始めたは良いが、突然現れた東宮は、滅多に妖界に来ない。人界ばかりに居着き、定期的に行くのも鬼界ばかり。妖界は放置。
あの方はそれで良い、叔父はそう言ったが、良い訳が無いと、不信感が募った。
考えが変わったのは、とある事件。
人界の『守り手』と呼ばれる陽の気を使う少年が誘拐され、燐鳳もそれに巻き込まれた。
正しくは、東宮を排除したがった者たちによって、陽の気を使うというだけで間違えて人界から捕まえられてきたのがその少年だった。
燐鳳は、世間にほとんど顔を出さぬ東宮を判別するための首実検の道具として連れてこられた。しかし、少年が東宮ではないと判明すると、その立場は少年とともに質に変わった。ただ、ほとんど妖界に来ない東宮相手に、自分が質として役立つとは到底思えなかった。
囚えられていた場所には、最初からあったのか、知らぬ間にできたのかはわからないが、鬼界との穴があいていた。
黒い渦の向こう側には濃い闇が広がり、そこから、まるで獣のような鬼が複数、こちらに手を伸ばす。さらに、少しずつ、少しずつ、黒の渦は広がっていくように見えた。
気づけば、鬼の目がこちらをのぞき、今にも入り込んで来そうなほどに、その穴は大きくなった。きっと、この穴が開ききったら、少年も燐鳳も食い尽くされてしまうのだろうと、そう思った。
「俺、初めての御役目だったんだ。おじさんも着いて来てくれてたし、きっと大丈夫だって、言ってて……それなのに……」
恐怖心から、少年がそう弱音をこぼした。一緒に来ていたのが、叔父か伯父かはわからない。けれど、この少年は、周囲の者に大切にされてきたのだなと、そう思った。
燐鳳はどうだろうか。そんなもの、問う意味もない。叔父は主上以外目に入らず、主上の為に東宮を押し上げることしか頭にない。その二名の邪魔になるのなら、燐鳳など、簡単に切り捨てられるのだろう。
そうやって囚え続けられ、どれほど経ったか。突然、大きな音が聞こえた。複数名が雪崩込んで来て、誘拐犯達に襲いかかる。その場に混乱の渦が生じた。
それとともに、今までジワジワ広がっていた鬼界の穴が、急に大きく口を開けた。
ずっと燐鳳達を狙っていた鬼がこちらに入って来て駆け出し、その場はさらに混乱状態に陥った。
「悠真様!」
「悠真様をお救いしろ!!」
怒声の中、共に囚えられていた少年の名ばかりが響く。その中に、燐鳳を呼ぶ声はなかった。
そんなものだ、燐鳳は諦めと共にそう思った。
しかし、俯きかけた瞬間、すっと自分の前に手が差し伸べられたのが見えた。
「早く来い! 燐鳳!」
そこにあったのは、真っ先に護られねばならぬはずの東宮の姿だった。
「……何故……奏太様…………」
ほとんど妖界に来ない東宮は、自分の名前すら覚えて居ないだろうと思っていた。自分など、切り捨てられ鬼の餌食にされても仕方がない、そう思っていた。
しかし、目の前にいた東宮は、真っ直ぐに燐鳳を見て
その名を呼んだ。腕をつかみ、ぐっと燐鳳を引っ張り上げる。
あまりにも意外で、燐鳳は間抜けに東宮の顔を見上げたきり、動けなくなってしまった。
育ててくれた叔父ですら、燐鳳をそんなふうに見てくれた事は無かったのに。
「奏太様、ご無事ですか!?」
「貴方はまた、御自分が真っ先に飛び出して行くような馬鹿な真似を!!」
「亘、奏太様を怒鳴るのはあとにしろ! 悠真様と奏太様の安全確保が最優先だろう!!」
「そんなこと、お前に言われずともわかっている! 淕!!」
誰もが、少年と東宮だけを見る中、東宮だけは、黙ったままの燐鳳を、心配気に見ていた。
「大丈夫か、燐」
「……はい」
ようやく、それだけを返すと、東宮は燐鳳に微笑み、すぐに背後にいた護衛達を振り返る。何だか、その黒い瞳が自分から離れるのが、名残惜しいような不思議な感覚がした。
「椿、燐鳳を頼む」
「はい!」
「亘、あれを閉じるぞ!」
「……はい」
不満気な声を上げた護衛に飛び乗ると、東宮は両手を黒の渦と闇、そこから出てくる鬼たちに向けた。
「焼かれたくなければ、全員、退け! このまま、全部祓って、ついでに結界の綻びも閉じる!」
東宮が声を張り上げると、妖達がさっと引く。それを確認すると、東宮の手のひらから、眩いほどの光が溢れた。それは、叔父からずっと聞いていた、陽の気と呼ばれるもの。
東宮の放つ陽の気は、キラキラとした金の粒子が混じる、見たことがない程に高貴で美しいものだった。
黒い靄のような濃い陰の気を細かく切り裂き、さらに包み込むようにそれらを覆い飲み込んでいく。虚鬼達は成す術なく光の奔流に飲み込まれ、さあっと砂が吹き飛ぶように消えていく。
その光景に、燐鳳は目を奪われ、瞬きも惜しむほどに見入った。
最初はただ、あの方への憧れが強かった。あの瞳に映ることが燐鳳の喜びとなり、あの方にできる限りのことをと必死に仕えた。
そうしているうちに宮中では、老いた白月様に代わり新たな帝の訪れを歓迎する声が大きくなっていった。それに合わせるように、あの方自身もこの地に留まり足場固めに動かれるようになった。
いや、白月様と四貴族家の後押しで、そうせざるを得なかった、と言うべきか。
しかし、光があれば影も生まれる。
白月様の御代から奏太様の御代へ移るにあたり、帝位に在られる方の御役目も大きく変わり、そのことへの反発が日増しに強まっていく。
それだけではなく、白月様が帝位に就かれた際の遺恨を今さら吐き出し、奏太様にぶつける者もいた。新たな帝を排斥し柴川を押し上げようとする者達の当たりも強い。
ほんのちょっとした事で、あの方を貶そうとする者も多く、あの方の御代が安定するまでには、それなりの時間がかかった。
更に、誘拐事件同様の事まで起こりかけ、周囲の警戒を引き上げざるを得なかった。
御存命であった白月様のもと、叔父や柴川当主であられた翠雨様が奔走し、燐鳳もまた、あの方の為にと走り回った。
想像以上に大きいあの方への敵意と戦っているうちに、気づけば、あの方を御支えし文官としての立場からあの方を護っていかねばならぬという、使命感のようなものが芽生えていった。
あの方は、そんな状況の中でも明るく振る舞い優しさを忘れなかった。思った通り、御強い方なのだと、あの方の中の光は本物なのだろうと、燐鳳はそう、思っていた。
しかし、その思いは長くは続かなかった。
最初にあの方が大きく崩れたのを見たのは、人界にいた柊士と言う名の従兄が亡くなった時。そして、白月様が崩御された時。あの方の内にどうしようもないほどの弱さがあることに、燐鳳は、ようやく気づいた。
光であふれて見えたあの方の中にも濃く深い影がある。
しかもそれは、時が経ち、あの方にとって親しい者を一人、また一人と亡くしていく度に、あの方自身を容赦なく蝕んでいった。瞳にあった美しいばかりの光は、それと共に少しずつ少しずつ、失われていく。
吹けば消えてしまいそうに揺れる高貴な光。それを失いたく無いと、燐鳳は強く思うようになった。あの方の御立場も、居場所も、その心も。何を置いても守り抜かねばならぬと、そう思った。
主が久々に帰ってきたのは、つい先日のこと。
帰ってきたその時に、燐鳳は『お帰りを心待ちにしていた』と申し上げた。その言葉は、何も、仕事をさせたかったから発した訳では無い。
御側でお仕え出来ることを、どれほどここで待ったことか。あの光に触れることを、どれほど焦がれていたことか。そして、さらに弱くなったあの方の瞳に映る光を見て、御側でお仕えできぬ我が身が、どれほど恨めしくなったことか。
あの方からは、目が離せぬ。しかし、そう思うのに、すぐに離れて何処かへ飛んでいってしまう。燐鳳の目の届かぬところへ。
(あの方はきっと、そのようなこと、知る由もないのだろうが)
燐鳳は、心の中だけで、そう呟いた。
「白月様もそうだったが、あの方々は、己の望みをはっきり口に出さねば理解してくださらぬ。口に出したとて、その言葉を真に受け入れていただくには時間がかかる。其方があの方に其方の望みを受け入れていただきたくば、常に行動にして示し、あの方がうんざりするほど何度でも口にしてお伝えせよ」
叔父は、静かにそう言った。
燐鳳の望み、それは、どこまでも、あの方に付き従うことだ。しかし……
「……それでは、雉里は……」
「其方が生きている限り、雉里は滅びぬ。心配ならば、さっさと子を作るか、親族から養子を迎えよ。其方の手で終わらせるなら、それでも良い。家門など、ただの枠組み。当主は其方だ。其方が決めよ。あの方が帝位にある限り、雉里の肩書は必要だろうが、な」
己の望みを叶えるならば、どうすべきか。己で考え、己で全てを滞りなく整えよ。叔父の目は、燐鳳にそう言っていた。
「よくよく、考えるように致します。叔父上」




