2. 鬼の世界の妖商会②
「そ、奏太様、どちらにいらっしゃったのです!?」
屋敷内に入ってすぐに階段を駆け下りてきたのは椿だ。結い上げた長い黒髪をなびかせ、顔には焦燥を浮かべていた。
「外だ。御一人、見ず知らずの鬼を連れて、な。奏太様から目を離すな、椿」
背の翼を完全に消し去った亘が唸るように言うと、椿はギョッと目を見開いた。
「何故、御一人で外に!?」
「だから、反省してるってば。それより、亘は今まで何してたんだよ? 随分待ったんだぞ」
奏太が言うと、亘は目を丸くして奏太を見た。
「まさか、私の帰りが待ちきれなくなって、外に出たのですか?」
「…………いや、まさか」
返答がワンテンポ遅れる。余計なことを言ったかと奏太が口を噤むと、亘の口元が少し緩んだ。それから、奏太の顔を覗き込むようにしながら、瞳にからかうような色を浮かべる。
「ほんの数時間離れていただけで寂しくなったと? 椿を子守に残していったではありませんか」
「子守って言うな。ちょっと様子を見に出ただけだよ。俺だって外に出ていろいろ調べたかったのに、自分が居なければ外出禁止だって言い残して行ったのはお前だろ」
奏太が唇を少しだけ尖らせて言えば、椿は困ったような顔をした。
「わざわざ外に出ようとせずとも、商会長室で情報整理でもしていれば良かったのでは? 情報なら、あそこに集まってきているでしょう」
椿の言う通り、商会員達が集めてきた情報は、一度商会長室に集められる。そこから情報が精査されて、必要なところにそれぞれ伝えられていくのだ。しかし。
「必要なことはまとめて伝えるから、ちょこちょこ来ないでくれって、前に言われたんだ」
奏太が調べたいことよりも、商会の運営に必要な仕事の方があそこは多い。忙殺されている商会長は、奏太に時間を取られることも、書類を無闇に触られて整理していた並びが崩れることも嫌だったらしい。
「ああ、ついに、アレにも邪魔者扱いされはじめましたか」
ククッと笑う亘を、奏太はジロっと睨む。
「自分だって、商会長室じゃ邪魔者だろ」
亘は、護衛の腕は立つが書類仕事はからっきしだ。下手に手を出させれば、逆に仕事が増えていく。絶対に書類に触らせてはならないと周知されている程だ。
「私は護衛ですよ? 奏太様が商会長室に行かない限りは行きませんし、邪魔にはなり得ませんよ。護衛仕事以外するつもりもありませんし」
「なら、その護衛が護衛対象をいつまでも放置するな」
「片時も私と離れたくないのでしたら、素直にそう仰ったらいかがです?」
「…………」
ニヤと笑う亘の顔にイラッとして、奏太は無言で亘の脇腹を殴りつけた。不意打ちに「ウグッ」と声を上げた亘に涙目で睨まれたが、そんなの、知ったことではない。
商会長室前、トントンとノックをすると、「どうぞ」と疲れ切った声が聞こえてきた。
「商会長、鳴響商会からの御手紙です」
わざと畏まって扉をあければ、黒に青緑のメッシュが入った髪を持つ青年が、よく磨かれた石造りの机の向こうで呆れ顔をしていた。
「……無事に見つかったようで何よりですが、いつまで、その小芝居を続けるおつもりですか、我が君?」
普段はそんな言い方をしないのに、わざわざ『我が君』だなんて言うのは、無理やり押し付けた『商会長』という呼び方への当てつけだろう。
奏太は、商会長――巽の意図を理解しながら、聞かなかったふりを決め込む。
「闇の原因を消し去るまでだけど?」
「もう、そろそろ帰りませんか?」
ニコリと笑う巽に、奏太もニコリと笑って返した。
「帰ると思うか?」
奏太が言うと、巽は長々とした溜息をついた。
「……それで、何の御用でしたっけ? 情報があればまとめて届けさせるとお伝えしたはずですが」
「鳴響商会の会長から、お前宛に手紙だよ」
「僕に? あそこの会長、この前の会談のときに何だか目つきが妙な感じだったんで、あんまり関わりたくないんですけど……」
奏太もその会談には参加していたが、あちらの商会長は柔和な笑みを浮かべた穏やかそうな壮年男性という印象しかない。
ただ一方で、先ほど外でギイが言った『玩具』という言葉がどうにも引っかかった。
「あの時は、普通の鬼って感じだったけど……」
奏太があちらの商会長の顔を思い出していると、亘が呆れた顔をした。
「貴方を見る目つきが、ですよ。隣にいた私が気づいたのに、何故当人が気付かないのです?」
「でもあの時は下っ端らしく、後ろの方で大人しくしてただろ」
巽は手渡された手紙の封にスゥっとナイフをいれながら首を緩く横に振る。
「それでも、ですよ。この手紙も、なんだか嫌な予感がします」
そう言いつつ広げた手紙に目を通した瞬間、巽は頭を抱えてうめき声を上げた。
「……なんだよ?」
奏太の問いに、巽は何も言わずにピラッと亘に紙を渡す。
「……奏太様を買い取りたい、という相談です……」
「………………は?」
思いもしない言葉に、奏太は間抜けな声を出した。
ポカンとしていると、いつの間にか窓から侵入してきていた透き通るような青い翅を持つ一匹の蝶が、ヒラリと舞いながらピタッと亘の持つ手紙にとまる。
「汐?」
奏太は、手紙を読んでいるであろう蝶に声を掛ける。
「……これは、商会ごと潰す方法を考えた方が良さそうですね」
冷たく凍えるような声が聞こえたかと思えば、蝶はふわりと舞い上がり、その翅と同じ色のおかっぱの髪を持つ十歳前後の少女に姿を変えた。
青い髪の少女――汐は、穢らわしいものを見たと言わんばかりに眉根を寄せる。
「あの商会長、大の男色家だそうです。両者に合意があれば問題ありませんが、水面下で奴隷売買に手を出して好みの者を買い漁っては非道な行いをしてるとか」
「……非道な行い……? それに奴隷って……」
一気に背筋がゾゾゾっとして、全身が粟立つ。
先ほどの『玩具』とはそういうことだったのかと、理解したくもない事実に気づく。
「……つまり、俺をこの商会から買い上げて、その奴隷と同じ扱いをしようとしてるってことか? あのジジイが……?」
「まあ、一応、大切にするつもりだとは書いてありましたが」
「そういう問題じゃないんだよっ!!」
淡々と付け足した亘に奏太が思わず声を荒げると、怒鳴られた本人は片方の眉を上げて奏太を見た。
「つい先ほど、護衛もつけず、無防備にもそのジジイの部下を敷地内に招き入れた上に、後ろから襲いかかられそうになっていたのは何処のどなたです?」
「うぐっ」
奏太は言葉に詰まる。言い返せるわけがない。
ツイッと亘から目を逸らすと、底冷えのするような笑みを浮かべた汐と視線がぶつかった。
「どういうことでしょう、奏太様」
「い……いや、それはその……」
この中で一番怒らせたら怖いのは間違いなく汐だと、奏太は思っている。冷たい色の瞳に耐えきれず、今度は壁に視線を泳がせる。
「どうにも、奏太様の持つ『陽の気』は鬼を惹きつけるみたいですね。ほら、だいぶ昔に、鬼の子にも近くで触れたくなるって言われたことがあったでしょ。その後も似たようなことが何度か」
巽は、今度は頭ではなく頬をぺたりと机につけて言った。それに椿も頷き、眉尻を下げる。
「そもそも、鬼の世に身分を隠して潜もうだなんてことを考える方が間違っていたのでは?」
「今更、元も子もないこと言うなよ。全員、了承したことだろ?」
眉を顰めた奏太に、汐は首を横に振る。
「貴方が危険を冒さず、ご自分のことを最優先にしてくださるなら、という前提条件があったはずですよ。今まで何度周囲にお気をつけくださいと申し上げたと思っておいでで?」
「……すみません」
キリキリと痛み始めた胃を押さえながら奏太が呟くと、まだ言い足りないとばかりに、再び汐は口を開いた。
しかし、それを遮るように、巽は深々と溜息をついて体を起こした。忙しいのに小言に付き合わされては堪らないとでも思ったのだろう。
「ひとまず、手紙には論外だと記載して戻しておきます。けど、くれぐれも周囲にはお気をつけを。この後行くんですよね? 闇を祓いに」
巽の言葉に、奏太は先ほどまで調査に行っていた亘へ視線を移す。
「亘、状況はどうだった?」
「急いだ方が良いでしょう。貴族の邸宅の上階部分が完全に飲み込まれていました。あれだけの広さであれば、虚鬼が複数潜んでいてもおかしくありません。憲兵が周囲を規制し始めていたので、向かうのなら、いつものように司祭服で向かった方が良いかと」
「分かった、そうしよう」
奏太はそう言うと、スッと立ち上がる。闇を祓いに行くには準備が必要だ。
「僕は鳴響商会について、もうちょっと調べておきます。汐ちゃんをお借りしても?」
「汐、頼んでいいか?」
巽の言葉に奏太が言えば、汐は仕方がなさそうに頷く。
「奏太様に同行したいところですが、私は調査に回った方がお役に立てるでしょう。亘、椿、奏太様をお願いね。くれぐれも、無茶をなさらないように」
これは、もはや汐の口癖と言っても過言ではない。
「……ただ闇を祓うだけで無茶なんてしないよ」
奏太はハアと疲れた息を吐いた。




