18. 怪我をした鬼の子
奏太は、灰色の空に汐がヒラリと舞い上がり、飛んでいくのを見送る。
朱も同じように汐を見送ると、困った子どもを見るような目で奏太を見た。
「あまり、周囲に心労をかけるものではありませんよ」
「……わかってるよ」
亘や汐、椿、巽を相手にするのと、朱を相手にするのとでは、奏太の中では少し感覚が異なる。年配者への遠慮もあるし、奏太にいろいろ教えてくれる先生のような存在でもあるからだろう。
奏太が視線を少しだけ逸らすと、小さく息を吐く声が聞こえてきた。
「それでは、私も仕事を進めましょう。商会の伝手を頼りたいのですが、よろしいですか?」
「商会の?」
「中身はともかく、成形されたガラス玉の出処から辿るのが早そうですからね」
朱の言葉に、奏太はポンと膝を叩く。
「製作者、販売者が分かれば、購入者、所有者も、か」
「ええ。巽があちこちに繋がりを作っていたでしょう? どこかしらで手掛かりを掴めるのではと」
「わかった、それなら、直接巽に……」
奏太がそう言いかけた時だった。突然、ピリッとした感覚が胸のあたりに走り、それと共に、
「キャアッ!!」
という高い叫び声が何処か近くから響いてくる。
声のした方を見れば、この屋敷を取り囲む高い柵の外で、座り込んで丸くなっている小さな姿があった。
「……子ども? 何かあったみたいだ。行ってみよう」
「あ、奏太様!」
奏太がパッとベンチから立ち上がり子どもの方に駆け出すと、椿が慌てて追ってくる。朱は落ち着いた様子で背に燃えるように真っ赤な翼を出し、奏太を頭上から護るように低く飛んだ。
そこにいたのは、一本角の鬼の子だった。人の見た目で言えば十歳くらいだろうか。男の子にも女の子にも見える。
「どうした?」
柵の内側から声を掛けると、子どもは涙目で自分の手のひらをゆっくり広げて見下ろす。
「わかんない。柵の中に、落としたブローチが転がって行っちゃって……取ろうとしたら、ジュッって燃えるように熱くて……」
見れば、確かに、小さな赤い石の着いたブローチが結界スレスレのところに転がっていて、子どもの手のひらは、真っ赤に焼け爛れた状態になっていた。
この蜻蛉商会の建物の周囲には、奏太の力を使った陽の気の結界が張られている。一定期間、奏太が不在でも保たれるもの。鬼も妖も陽の気に触れれば焼かれてしまうため、屋敷を守るにはちょうどいい。
一応、通行人が誤って柵に触れて怪我をしないよう、結界は柵の内側に張られていて、門を開いた時だけ一時的に門の周囲の結界だけが途切れるようになっていた。
「結界があるって分からなかったのか? 薄い膜が張ってるように見えるだろ」
「……うぅ……普通の結界は見たことあるけど、触っても壁になってるだけだから、こんな風になると思わなくて……」
それに、奏太は小さく息を吐いた。
「椿、手当てしてやって。それから、はい、これ」
椿が奏太の言葉に動き出すのを横目に、落ちていたブローチを拾い上げる。
陽の気の結界は、奏太はもちろん、亘や椿達のような奏太と強い繋がりのある者たちには意味がない。奏太の力がこもった呪物を持つ商会員達もだ。
結界を越えて落ちていたブローチを差し出すと、鬼の子は、きょとんとした顔で奏太を見上げた。結界を何事もなく越えたことが不思議だったのだろう。
しかし、すぐに子どもは、パッと顔を輝かせた。
「あれ、この前のお兄さんだ! 気づかなかったよ!」
思わぬ反応に、今度は奏太の方が目を丸くする。
「……は?」
「ほら、この前、街で逃げた猫を捕まえてくれたでしょ? あの時ブローチを落としたから、それを届けたくて!」
しかし、奏太にはこの子どもに見覚えがない。そもそも、街で猫を捕まえるような事だってしていない。
「猫? いや、俺、キミと初めて会うと思うんだけど……」
「……え? じゃあ、別の人妖だったのかな? 黒い髪に黒い瞳で、年も背格好もお兄さんくらいだったから、てっきり……」
子どもは、人違いに気づいたようで、急に勢いをなくして戸惑いの表情になった。
「人妖だったのか?」
「うん、頭に角はなかったから。飼ってた猫が居なくなったのを捕まえてくれたんだ。その時、これを落としたみたいだったから、返したかったんだけど……」
子どもはそう言いながら、怪我のない方の手で奏太の手に乗ったブローチを受け取る。
「……ねえ、他にここに、お兄さんに似た人はいない?」
鬼界の都で人妖に遭遇することは珍しい。この商会の者である可能性は高いけれど……
「うーん、俺の他に、この商会にそんな奴いたっけ?」
柵を空から越えて外に出た椿に聞いてみたが、椿は首を横に振った。
「いえ、見た目だけで言えば、ほとんどが巽以上の年頃の者ばかりですし、奏太様くらいだと、見た目の特徴が一致しません」
そう言いながら、椿は懐にあった応急手当セットで手際よく子どもの手当をしていく。
確かに、奏太の記憶の中にも、一致する者はいない。
「残念だけど、ここの者じゃないみたいだ」
「……そっか。返せたら良かったんだけど……」
奏太が言うと、子どもはシュンと肩を落した。
「街で見かけたなら、また会えるかもしれないし、気になるなら憲兵にでも預けたらいいんじゃないかな」
「うん。そうだね、そうする」
子どもは残念そうにしながらポケットにブローチを戻し、じっと自分の手当てをする椿の手元を見つめる。それから、もう一度、奏太に目を向けた。
「お兄さん、何か不思議な感じがするね。近くにいるだけで、他の鬼や人妖とも違うって分かる。このお姉さんとも全然違う」
子どもの声のトーンがほんの僅かに変わる。それが、奏太には何だか演技めいて聞こえた。
「……ああ、よく言われるよ」
微妙な気持ちになりながらそう答えると、その目が、何故か、値踏みでもするかのように細められる。
それから、手当てされていない方の子どもの手が、スッとこちらに伸びてきた。奏太の手首を掴もうとするように。
瞬間、パンと鋭い音と共に、椿が子どもの手を思い切り叩き落とした。
「この方に触れては駄目」
「……ごめんなさい」
いつもは優しいお姉さん風なのに、子ども相手に容赦がない。
小さく謝る子どもの様子がなんだか可哀想で、椿を窘めようと口を開きかけたが、険しい顔の椿にジロっと睨まれ、奏太は、うっと息を呑んだ。
「はい、これで終わり。もう結界に近づいちゃ駄目よ。あと、この方にも近づいちゃ駄目だから。絶対に」
手当てを終えた椿は、そう言いながら立ち上がった。最後の『絶対に』の部分の声が、まるで脅しのように低くて怖い。
「はぁい」
子どももまた、そう返事をしながら立ち上がった。
「それじゃあ、行くね。手当てしてくれてありがと!」
子どもは手を振り駆け出していく。
「奏太様はやっぱり、さっさと妖界か人界に帰った方がいいと思います」
椿は子どもの姿を見送りながら、そう言った。
朱に、ガラス玉の破片を預けて巽のところへ案内したあと、奏太は疲れた体を休めたくて自分の部屋に戻る。暗くなった部屋の中、椿が小さなランプに明かりを灯してくれた。
……それを、外からじっと、小さな二つの瞳が捉えているのも知らずに。




