1. 鬼の世界の妖商会①
蜻蛉商会事務所 兼 会長邸宅。
その大豪邸とも言える屋敷の玄関前で、茶色のオーバーオールにシャツという質素な服に身を包んだ、黒い瞳とやや幼さの残る顔つきの青年――奏太は空を仰いだ。
ここは鬼の世。
分厚い雲に覆われた鉛色の空。この、決して太陽が出ることの無い世界では、これが普段通りの天気。
しかし、それ以上に空気は暗く淀んでいる。
「ホント、気持ち悪いな」
奏太は手のひらを広げて、周囲の空気に混じる濃い闇の気配を探る。
三百年前。この鬼の世を闇で覆い、破滅を招いた闇の女神。その滅んだはずの残滓が、少しずつ、この鬼の世を蝕んでいる。
自分の中にある、濃く黒い陰の気が疼くような気がして、白と金の力で捻じ伏せるように身体の奥底に押し込んだ。
奏太は、空に視線を一巡させて、帰って来ない相棒の姿を探す。
いつも側にいる相棒――亘が、新たに見つかった闇の発生現場の確認に行ったのは数時間前のことだ。
「すぐに帰って来るっていってたのに、何処をほっつき歩いてんだよ、あいつ」
この都に突如現れた闇。黒い靄のようなそれに囚われると、鬼は心を失って凶暴化し、人や妖は死に至る。時には闇に心を惑わされ闇の女神の支配下に置かれる。
奏太は、この世界の安定を司る秩序の神だが、正体のわからないその奇妙な現象を調査する為、素性を隠し、人の身にやつしてここに来た。
……はずなのだが、未だ原因の特定には至っていない。
(亘のやつ、何か、問題でもあったのかな……)
亘は腕が立つので、妖の身体ひとつで鬼の世を飛び回ったところでどうということも無いのだが、それでも長時間姿が見えないと心配になる。
(うーん、やっぱり一人で行かせるんじゃなかったかなあ……)
しかしそこまで考えて、奏太はゆるく首を横に振った。どうやら仲間たちの心配性が感染ったらしい。
ハアと息を吐き、何の気なしに門の方へ目を向ける。
すると、一人の男が門前に立ち、こちらの様子を伺っていることに気付いた。
スリーピースのスーツ姿の男の赤い髪には一本の角がのぞく。やや高めの背丈にスラリとした体格。若い顔に笑みを湛え紳士然とした雰囲気だ。
(……商会に用のあるお客だろうか)
奏太は門前の鬼の客に目を向け、少しだけ思案する。
今でこそ、法律で人妖への手出しは御法度となったが、少し前まで、この鬼界では人妖などただの食料の扱いだった。
人妖保護の法律施行を不満に思う者は多く、人妖界の物を取り扱い人妖で構成されたこの商会に向けられる視線は、好奇だけでなく厳しいものが多い。
人妖に世間の目が厳しい中で無用なトラブルを招くような真似は避けたい。
(目が合っちゃったし、ここで放置したら商会の評判に関わるよなぁ)
そんな考えが頭に過ぎり、奏太は門前まで歩みを進めた。
「何か御用でしょうか?」
締まりきった門越しに丁寧に聞けば、男は笑みを深めた。
「鳴響商会の副会長ギイという。商会長に御目通り願いたい」
「失礼ですが、御約束は?」
「いや。ただ、我が商会長からの手紙を届けに来ただけだ」
「それなら、こちらでお預かりしましょう」
約束がなく手紙を渡すだけなら、忙しい商会長を呼ばずとも、自分が受け取り商会長に届ければいい。そう思ったのだが、ギイは首を横に振る。
「直接、お渡ししたい。取り次ぎを頼む」
ギイはさらに笑みを深めた。
「……では、商会長の予定を伺ってきます。少しこちらでお待ちください」
「おや、門前で待たせる気かい? これでも、鳴響商会ではそれなりの地位があるのだが、君の独断で商会長の顔を潰すことになっても良いのかな?」
鳴響商会は、この辺りでは大きな商会の一つだ。あまり無下にしない方が良いのだろう。
「……わかりました。どうぞ、ご案内します」
キイィと門を開けて、男を通すと、ギイは「どうも」と言いながら屋敷の敷地内に足を踏み入れた。
門からやや距離のある玄関までの道を先導して歩くと、後ろから妙に機嫌の良さそうな声に話しかけられる。
「ところで、君には不思議な雰囲気があるようだ。良く言われないかい?」
「……そうでしょうか。鬼の方々には、人妖が珍しいから、そう思われるのでしょう」
奏太は振り返ることなく、背中に向けられる視線に警戒心を引き上げる。法律で手出しを禁じられていても、背後にいるのは鬼だ。判断を誤っただろうか。
「いいや、他の人妖とも違う。……なるほど、商会長が新たな玩具に欲しがるのも無理はない」
「……はい?」
意味のわからない『玩具』という言葉が聞こえ、思わず振り返りかける。視線の端にチラと、自分に伸ばされた鋭い爪のついた手が見えた。
瞬間、別の手がパシッとその手首を掴む。ギリリと強く握りしめられ、ギイは「うっ」と声を上げた。
「人妖への手出しは現王により固く禁じられているはず。法に触れますよ」
低く怒りに満ちた声。
空から降りてきたのだろう。バサリと広げた茶色の翼を畳みながら、一人の男が、奏太とギイとの間に入り、自分の背に庇うように後ろに押し込んだ。
「手を放せ、無礼者。こちらは客だぞ」
「客を装い、うちの商会員に手を出されては敵いませんね」
「はっ、手を出す? この青年の肩に塵があったから取ってやろうとしただけだが」
「爪をむき出しにして、ですか?」
翼の男が掴んだギイの手は、鋭く長く爪が伸ばされ、鈍い光を反射させていた。
普段は隠していても、鬼が獲物を狙う時にはそうやって、捕食者としての片鱗を見せるものだ。奏太自身も何度か見たことがある。
ギイは「チッ」と大きく舌打ちをした。
「気分が悪い。私はこれで失礼する。手紙を商会長に渡しておけ」
ギイは元の通りに爪をしまうと、もう片手で懐から手紙を出し、バシっと思い切り翼の男の胸に叩きつける。
翼の男がパッと手首を放せば、ギイはクルリと二人に背を向けて、憤然と門の方へ戻っていった。
「亘」
奏太が声を掛けると、翼を持つ男の不機嫌な声音がこちらに向く。
「何故、御一人で外に?」
「……少し外の様子を見ようと思って。結界もあるから、大丈夫かなと思って……」
「私がたまたま見つけていなければ、どうなっていたか分かりませんよ」
翼の男、亘の怒りの半分は、無防備に外に出た奏太の方に向けられている。
「ほんのちょっとのつもりだったんだよ。それに、さすがにあの鬼だって、こんな目立つところで襲ってきたりしないだろ」
「どうやら、さっきの状況をよく理解できていらっしゃらないようですね」
亘の語気は強いままだ。奏太は唇を尖らせた。
「……悪かったよ」
亘はそれに眉を顰める。
「御不満がお有りのようですが、そもそも、屋敷の敷地内には眷属や特別な呪物を持つ者以外は、結界に阻まれ空からですら侵入できないはずです。貴方がご自分で門から招き入れたのでは?」
「……鳴響商会のお偉いさんが、商会長宛の手紙を持ってきたから会わせろっていうんだ。大きな商会だし、今はあんまり関係を悪化させない方がいいと思って……屋敷内に入れば絶対誰かいるから、それまでの間だけだし……」
苛立ちを抑えようともしない相棒の鋭い視線から目を逸らしつつ、奏太は少しずつ語尾を小さくさせながら言った。
「奏太様」
一方の相棒は、低く圧のある声を出す。
「……わかってるよ。悪かったって」
一年住んだことによるこの場所への慣れと屋敷のセキュリティに胡座をかいて、警戒心を薄れさせていた自分が悪いことは、奏太自身だってわかっている。
「はあ。とにかく、商会長のところに行こう。それを渡さなきゃ」
亘が持つ、少しだけ歪んでグチャっとなった手紙を指すと、ジロリともう一度だけ睨まれた。
「貴方を置いていくべきではありませんでした。しばらく御側を離れませんので、そのおつもりで」
「はいはい。じゃあ、とりあえず商会長室に行く前に、門の鍵、かけてきていい?」
ギイが怒り任せに開けて出て行った門は、無造作に中途半端に開いたままだ。
亘は奏太の言葉にガシガシと頭を掻いたあと、これ見よがしに深い息を吐き出した。




