幕間 少年時代
「エイ、ヤー!!」
朝靄が立ち込める仏心寺の境内に掛け声が響き、カンカンと木刀がぶつかる乾いた音が響き渡った。
「ほら空よ、胴が隙だらけだそ!」直公の容赦ない一撃を辛うじて木刀で受け止めるが、小さな空の身体はその衝撃で吹き飛ばされる。
フラフラになりながら立ち上がった空の左手には、倒れた時に握りしめた砂が隠されていた。
直公を油断させるように、ふらつきながら足を踏み出すと、左手に隠し持った砂を投げつけながら、右手の木刀を直公の頭上に振り翳す。
「どうだ親父!!」
だが、直公はその一撃を軽く躱しながら、左手に木刀を持ち替え、空の頭を軽く叩いた。
「いてー!」
涙目の空に「甘い甘い。だが、10歳で考えた戦略としては、悪くはなかったぞ」と直公が褒めた。
そんな直公を恨めし気に空が睨んだ。
「なあ親父。目潰しとか、弱ったふりで斬りかかるのって、狡くないか?俺は優みたいに正々堂々と戦いたいよ」
そんな空を愛おしく見つめ、「例えばだが…」と直公が話し出した。
「優君と海ちゃんの3人で出かけた時、悪人に襲われたらそんな事が言えるかな?優君と空が倒されたら、海ちゃんも助からないぞ。正々堂々と戦って、優君も海ちゃんも犠牲にするのか?」
「今の日本で、そんな状況になることがある?」
「もちろん無いかも知れん。だが、もしそのような状況が来たらどうする?我が佐伯の家は、常に最悪に備えることが定めとされているのだよ」
空が毎朝の鍛錬を終え小学校に向かうと、親友の優とその妹の海の姿が見えた。
「「おはよう空(兄)」」
「おはよう、優、海…それにお地蔵様」
「流石は寺の息子だな。お地蔵様にもご挨拶か」
優と海も笑いながら空の真似をして、お地蔵様に挨拶した。
「それにしても、今日も傷だらけだな」
顔をあげた優が包帯を手に巻いた空を見て笑う。
「私の空兄をいじめるなんて、いくらおじ様でも許さないんだから!!」と、プリプリと海は怒る。
「いや、別にいじめじゃなくて、これも軽い擦り傷なのに親父が大袈裟にしただけだから」
空が慌てて海をなだめる。
「だって、お兄ちゃんも毎日剣道の練習してるし、私も薙刀を稽古してるけど、そんなに傷だらけにはならないよ」
「いや、僕だって、防具のないところは傷だらけだよ」
海が言った『私の空兄』に反応して、少しムキになって反論する。
「まあ、流派の違いかな。ウチは木刀が基本で、石礫とか目潰しとかも使うし、身体のどこでも武器が当たればOKだから、防具なんて付けないからな」
「何だよその常在戦場的な流派は!それ普通に死んじゃうだろ〜!!」
優が驚いて叫んだ。
その時、突然周りの景色が昏く染まり『ガルルル』と言う唸り声が空達を取り囲んだ。
「え、何?のら犬?」
「わからないけど、囲まれているぞ!」
海と優が周りを不安気に見渡す。
不思議なことに、今までの喧騒が消え去り、周辺には人影も車さえも見えず、ただ静寂だけが辺りを支配していた。
登校中なので、空も優も竹刀や木刀を持っていない。
優が背負っていたランドセルを前に構えて、何かの襲撃に備えた。
空は、手頃な石を探して地面を見渡した。
「海は俺が守る」
海の危険を感じた優が、僕から俺に口調を変えて海の前に立った。
そこに、『ガルルル』と唸り声を上げながら、灰色の大きな獣が3匹現れた。
「ノラ犬にしては大きいし、牙が凄いわ!」
海が、半分悲鳴のような声で叫んだ。
「誰か助けて〜!!」
優が大声で助けを求めるが、その声は虚しく消えていった。
優と海を視界に入れながら、空は油断なく3匹の獣を観察した。
「まさか、オオカミ?いや、そんな馬鹿な…」
『ゴアッッッ!!』と叫びながら、1匹の灰色の獣が空に飛び交る。
それを横に転がりながら辛うじてかわす。
「危ない空兄!!」
悲鳴のような海の声に反応し、そのまま前に身体を投げ出す。
すると、そこにもう1匹の灰色の獣が爪を立てていた。
「助かった海!」
慌てて立ち上がり、体勢を立て直す。
その左手には、いつの間にか拳大の石が握られていた。
空が腕の包帯を外して二つ折りにし、その石を間に挟むと、ヒュンヒュンと勢いよく回し始めた。
再び襲いかかる灰色の獣に、勢いよく包帯で挟んだ石を叩きつける。
「ギャン」と泣き叫び、その灰色の獣が後退った。
そこに「きゃー」と海の悲鳴が響く。
1匹の灰色の獣が優に襲いかかり、辛うじてランドセルでその牙を防いでいた。
「優、しゃがめ!!」
その声に反応した優がしゃがみ込むと、空が勢いよく回した包帯の片側を離した。
勢いよく飛び出した石が、狙い違わず灰色の獣の顔に当たり、「ギャンギャン」と鳴きながら優から離れていった。
「ガオン!」
ボスであろう一際大きな灰色の獣が、仲間の情け無い姿を見て一鳴きすると、油断なく空を睨んだ。
『マズい、こいつは格が違う』
再び石を拾い上げて包帯を回す空が、その油断のない佇まいに焦りを見せる。
『優と海だけでも逃がしたいが、あの2匹がいては無理か…』
再び「ガオン!!」とボスの獣が大きく吠えた。
そのまま空に飛び掛かると、小さな身体の空ではなす術がなく、そのまま押し倒されてしまう。
「ハッハッ!!」と荒い息づかいが聞こえ、空の顔にボスの獣のヨダレがかかる。
『ダメだ!喰われる…』
思わず空の身体が硬直し、恐怖のあまり目を閉じた。
その時、道端のお地蔵様から金色の光が溢れ、その光が空を包み込んだ。
その鮮烈な光に、ボスの獣が思わず空から離れる。
その隙に空が立ち上がるが、足元は恐怖に震えていた。
その姿を見て、ニヤリと笑いボスの獣が空に飛び掛かる。
その余りの速さに、優も海も言葉が出なかった。
だが…
『何だ、この遅い攻撃は?』
空の目には、ボスの獣の動きがスローモーションのようにゆっくり見えていた。
その攻撃を余裕で躱わす。
少し余裕が出た空は、何か温かい力を纏うような心強さを感じた。
渾身の攻撃を躱わされたボスの獣が、驚いたように硬直する。
その隙を逃さず、包帯に包んだ石を渾身の力を込めて叩き込む空。
狙い通り、振り回した石がボス獣の頭を捉えると、ボス獣の右耳が引きちぎれ、「ギャン!」と悲鳴を上げたボスの獣が一歩下がる。
『倒すには、流石に力が足りないか…』
空が再び包帯を回す。
そこに…
「よくぞ頑張りましたね」と、玉を転がすような声が天から聞こえてきた。
その声に目を向けると、光の衣を纏った女神が天から降りてきた。
「次元の狭間に迷い込みし邪狼よ、ここは其方らが世界ではありません」と、その衣を翻すと、灰色の獣達は消えていった。
「其方が空様ですか。流石は直公殿が鍛えし麒麟児ですね。この齢で、無手の状態で邪狼に立ち向かうばかりか、無意識とは言え仏身一体を体現されるとは…」
その女神が温かく空を見つめた。
「貴女様は?」
「妾は日孁と申します。空様、良く頑張りました」
「この世界は一体、それにあの獣は?」
「残念ですが、貴方がそれを知るのは、もう少し徳が上がった時ですね。さあ、元の世界にお戻りなさい」
日孁が再び衣を翻すと、周りは光に包まれた。
ーーーー
気がつくと、空達は元の世界に戻り、何事もなかったように周りは喧騒に包まれていた。
「夢じゃなかったのか?」
優がランドセルの傷を見て呟く。
「そうみたいだな」
空も手にした包帯に包まれた石を地面に戻して頷いた。
「でも、空兄…凄かった!やっぱり私の空兄ね」
海が熱い視線を空に向けた。
「俺も頑張ったんだが…」と拗ねる優に、「兄貴もかっこよかったよ。守ってくれてありがとう」と、素直に礼を言った。
「しかし、空は凄かったな」
優が興奮して空の背中をバシバシと叩いた。
ハンカチで顔を拭きながら、「武器を持ってない時の戦い方は、嫌と言うほど親父に叩き込まれてるからな。それに、多分助けもあったみたいだし…」
その目を道端のお地蔵様に向け、静かに頭を下げた。
「でも、全然ダメだ。見ろよ、まだ足が震えてる」
「よし、俺がもっと剣道を頑張って日本一になったら、次は俺が戦ってやる!!」
優がビシッと告げるが…「だけど、空とは勝負したくないな」と笑った。
「私も薙刀頑張って、空を守ってあげる」
海も空に笑顔を見せた。
「前言撤回だ!海が欲しくば俺の屍を超えていけ!!」
「何だよそれ?」
やっと、灰色の獣の恐怖を振り払って空が笑った。
そして高野山秘の院では、遠く四国を見つめる日孁の姿があった。
「空様…天は貴方を選ぶのでしょうか?」




